■誘拐 〈本田靖春〉 ちくま文庫 20100531
戦災の跡が残る東京の下町の公園の夕方。そこにいた老人、屋台のラーメン屋、労働者……ら1人1人が見た1963年3月31日の夕方の1時間の描写からはじまる。一気に舞台に引き込まれる。
その1時間の間に、公園の近くに住む村越吉展ちゃんという4歳の子が行方不明になったのだ。
後に逮捕される小原保は福島県の極貧の農家の出身である。街の人からは小原の部落の住民たちは差別される。小原の一族はとりわけ自殺者や精神に異常をきたす人が多かった。小原自身も幼い頃の病で足をひきずるようになり、いじめの対象となる。
田舎の冷たさと閉塞感から逃げ出すように東京に出るが、足が不自由では建設業の仕事はない。時計職人になるが商売はうまくいかない。頼る人もないままに借金まみれになっていく。
子どもが突然消えた小原家は、ひたすら犯人からの電話を待ち続ける。東北弁の犯人から脅迫の電話がかかってくる。何日かあと、身代金50万円を奪われる。警察側は受け渡し現場の張り込みもできないという失態を犯す。
小原は「犯人の声」をラジオなどで流すことで早くから捜査線上にあがるが、別件逮捕による2回の捜査にかかわらず、立件できない。迷宮入りになりそうだった。
最後に捜査陣を一新し、平塚八兵衛という「名人」とされる刑事が担当になり、イチからアリバイが成り立つか否かを洗い直す……
村越家の人々、捜査陣、小原……それぞれの立場に立って、それぞれの思いに寄り添って丹念に描いていく。それぞれの人生の苦しみや悲しみが身に迫ってくる。
つかみ、情景描写、構成力、テンポ、締め……どれも一級品だ。1年3カ月という期間の間に、いったいどれだけの取材を重ねたのだろう。気が遠くなるほどの大作だった。
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▽125 アメ横は、地盤も背景も持たない彼らが文字通り裸一貫で築き上げた消費の町である。高級輸入品が、物によっては市価の半額以下で売られている。そこを占める業者のある部分が、何らかのかたちで法に反していることを意味していた。
▽149 電話の逆探知でさえ、未採用であった。……脅迫電話の録音という初歩的な事柄を、被害者に肩代わりさせた捜査陣である。奪取された身代金は、紙幣番号を控えるという、捜査技術上の基本も忘れていた。身代金授受の現場への張り込みも遅れた。
▽167
▽205 村越家を苦しめたのは、脅迫者。もろもろの宗教の狂的な信心家たち。迷惑でしかない入信の誘いも、主観的には善意の発露であって、いちおうの応対はしなければならない。もっとも熱心な説得者は、15日間、足を運んできた。
▽252 平塚八兵衛 帝銀事件で有名に。
▽270 彼の「落とし」が美事に決まるのは、たしかに裏づけられた事実を、容疑者へ次々にぶつけて行くからなのであって、声を荒げることでも、猫なで声で囁きかけることでもないのである。
▽283 声の科学的分析は、第二次大戦中のドイツ戦線ではじまった。敵の移動を無線電話の盗聴によって知ろうとした米陸軍が、ベル・テレホン・カンパニーに研究を依頼した。声の主を特定できれば、その跡を追うことによって、敵勢力の動態を把握出来るという発想に基づいている。……現在、声紋は指紋と並んで、米国では有力な手がかりとされている。
▽344 明日の死を前にひたすら打ちつづく 鼓動を指に聴きつつ眠る
(死の前日の緊張感。透明で悲しくて張りつめた……だれにでも一度は訪れる時)
▽ 村越家には前後3回お邪魔し、最終的に協力をいただいたが、年来のマスコミ不信を朽ちにされ……小原保の遺族にはとうとう会えずじまいであった。取材拒否は残されたものの当然の心情であろう。
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