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聖地巡礼 熊野紀行<内田樹・釈徹宗>

■聖地巡礼 熊野紀行<内田樹・釈徹宗>2015/05/29
▽佐藤春夫記念館長の辻本雄一さん、新宮市観光協会の森本裕司さん(〓本業は漢方薬屋)。中上健次が設立した「熊野大学」の事務局長をつとめる。
▽15 修験道の聖地でもあるし、陰陽道・儒教・道教などたくさんのものが融合している。あらゆるものを排除せずに同一化する力学に支えられた土地。
…和泉式部が「穢れ」とみなされる生理になってしまった。夢に出てきた熊野権現が「そんなものは気にしなくていい」と告げる。
▽17 神武は大坂の河内から入って失敗し、熊野から大和に入る。熊野に着くまでに兄がみんな死んじゃう。日本書紀では神が毒気を吐いて病みだしたと掻いてある。丹生つまり水銀がとれた。
▽18 熊野比丘尼。芸能民的宗教者。お説教をしたり、曼荼羅を使って絵解きをしたり、歌を歌ったり。本来、土地神の信仰というものは、あまり語りの側面がない。その地以外では宗教性が発揮されない。語ろうにもロゴスを持たないし、教義もあるわけではない。…ところがそこに仏教が流入してくると、「語るべきストーリー」が成熟する。土俗の信仰に比べると仏教は饒舌です。
▽20 平安末期から鎌倉初期にかけては、仏教から神道的な要素を削ごう、という動きがあった。幕末から明治初期は逆に、神道から仏教的なものを排除しようとする廃仏毀釈があった。けっしてシンプルに神仏習合でやってきたわけではない。
▽21 江藤淳。1600年から60年間の時期が日本文学史上の「空白期」にあたる。後世に残るような文学的な成果がまったく出ていない。「文学不毛の60年間」知識人たちがこぞって神仏習合を否定した時期と重なりあう。その60年をきっかけにして、幕府の政治体制がはじまる。政体が大きく変革されるときは、必ずそれ以前の時代に支配的だった宗教の形を徹底的に攻撃するということが起きる。
…浄土真宗は、阿弥陀様ひとつにおまかせしていく仏道なので、習合信仰を避ける性質を持っている。
▽24 阿弥陀仏の浄土は西方だが、観音は南。補陀落渡海は、ポリネシアなどの南の信仰。それが黒潮に沿って展開した。
西国33カ所巡礼。観音の33面になぞらえている。
▽30 植芝盛平の出身地。身体能力が高い人を輩出するのが紀伊半島の特徴かも。伊賀甲賀の忍者、役小角、弁慶…。
松尾芭蕉は1日15時間ぐらい歩く。芭蕉は伊賀の「歩く技法」を身につけていたに違いない。
▽37 小栗判官は、「信徳丸」「山椒大夫」などとともに「五説経」と呼ぶ。
…いちど病に沈んだ身体がまたよみがえる話。弱者、業病を患った底辺に生きる人たちと共に生きましょう、というメッセージもあったんでしょう。難病や障害の人のもつ聖性も描かれている。
…大きな格差が生じた場合富む側はどことなくやましさがある。「犬神筋」とか「狐憑き筋」などといわれることもあった。それはコミュニティ内のバランスを保つ装置となっていたと聞いたことがあります。富めるものの負い目なのでしょう=釈(〓出雲)
▽47 大斎原 鉄筋の日本一の大きさの鳥居が立っている。
▽50 三十三間堂。熊野のどくろ。後白河法皇。
▽51 発心門王子 …結界石。「穢れた者は入るな」と彫られてあって、それを意識的に削っている。もともと「穢悪に生きる者は入らず」。一番上の「不入」を切っている。〓(だれが削った〓)
▽58 船玉神社 玉石を敷くというのは宗教層地。
▽61 三体月観月会 旧暦の11月23日に。
▽63 熊野って古墳がみつかっていない。那智勝浦町にひとつあるだけ。鳥葬か水葬だったそうなんですね。ずっと最近まで。十津川村には水葬の記録が残っているらしい。大斎原も水葬の地という説もある。百人一首にもお墓の歌ってないですよね。
▽67 新宮市に三輪崎という漁村がある。ちょっと前まで人が亡くなったとき、通夜のお客さんが帰った後に、親族だけで海岸に行って死者の衣類を洗うンです。全員が一言もしゃべらず洗って、今度は櫛をリレーする。イザナギはイザナミに櫛を投げつける。そこから来ているのでは。櫛を捨てるということは、穢れを祓うといった意味合いなんでしょう。〓(森本)
中洲の旧社地も、じつは死体が溜まる場所だったのではないかといわれている。
▽72 (森本)バブルの頃、1988年に熊野で日本文化デザイン会議が開かれた。そこへ中沢新一さんが来て熊楠の話をしたあたりから注目されるようになった。バブルの狂乱の中で「これでほんとうにエエんか」と考えた人たちが集いはじめたんだと思います。中上健次は熊野の中興の祖。ボクの高校の10年先輩。〓
▽75 紀伊藩士が江戸中期に熊野を訪れて、人びとが木の実をすりつぶして食べたり、獣の毛皮を着たり、古代さながらの生活をしているのを見て、びっくりしたと記しています。
▽81 鈴木大拙は、土に近いところにいた武士が出現して、「大地の霊」に賦活されて、巨大な力を持つようになり、それによって日本の宗教文化が大転換したと同時に、武士たちが政治権力を握るようになったという仮説を「日本的霊性」でたてている。平家は「海と風」の野生の力に依拠した部族。源氏は馬という野生獣を活用したから、大地の霊に近い。大地の文化が海洋の文化を制した。熊野って、どちらかというと、海洋的な文化圏という気がする。馬は入れないし、農耕に適しているとも言いがたい。騎馬文化圏ではなく、海洋文化圏。
▽88 (辻本)上皇や法皇はよく来るけど、天皇は来ない。廃仏毀釈で、本宮にもかなりの数の寺があったのに、いまはほとんど残っていない。三山でかろうじて残っているのが那智の青岸渡寺。だから明治になって、お寺に勤めていた社僧といわれる人たちがかなり失職する。
同時に、明治30年代には神社合祀といって、氏神さまなども邪教だなどとして、つぶしてゆく。廃仏毀釈と神社合祀は、熊野の信仰にとって決定的な影響を与えた。神倉山も、昔はお堂があったが、仏像はぜんぶ谷に捨てられてしまった。〓奈良の十津川村なんかは、もうお寺は全然なくなりました。十津川に似ているのが隠岐の島。ほとんど寺がない。神社ばかり。「隠岐の島コミューン」と呼ばれる自治政府がつくられた「隠岐騒動」。十津川でも十津川郷士が「天誅組の変」で幕府への反乱に参加している。どちらも勤王の志あ強い。後鳥羽上皇や後醍醐天皇は隠岐に流されたが、2人は熊野との関係も深い。
東牟婁郡と西牟婁郡が和歌山で、南牟婁郡と北牟婁郡が三重県。明治になって熊野川に県境ができて分離されてしまい、その不便を我々はいまも被っている。パンフレットひとつでも県ごとに異なる〓(吉崎御坊と似ている。見えない境界)
(森本)第二次長州征伐で新宮藩が活躍して官軍に大きなダメージを与えた結果、その怨念が、新宮藩を熊野川で分断するということにつながったんじゃないかという人もいます。
(辻本)それが大逆事件にまで影響するという人も。「特別要視察人」という大正時代の報告書。大逆事件に関係した人の動向がみんなチェックされていて、その中に「熊野川流域は危険地域である」と必ず出てくる〓
幸徳秋水が来て、熊野川で船を浮かべたのが「天皇暗殺計画」を話し合ったのだということになる。この地が政府のターゲットにされて、いまにいたるまで、不便や不都合を被ってきたという心情を、いまを生きる熊野の人びとに育んできたのは間違いない。〓
▽94 大斎原 日本一の大鳥居。…
(森本)世界遺産として注目される前、中上さんがはじめてイベントに使わせてほしい、とお願いをして、イベント会場としても使われるようになった。都はるみがカムバックしたとき、ここで復活コンサートもした〓。昔はゲートボール場があったりして…最近ちゃんと神域のような感じに整備し直しました。もうゲートボールはできません(〓旧社地でさえも荒れてしまっていた。それが復活)
▽101 大斎原で一遍は「熊野神勅」を体験し、啓示を受ける。時宗は熊野神勅を開宗のときとしている。熊野信仰を日本中に拡大させたのは、時宗の人たちと、熊野比丘尼。小栗判官を熊野の地まで引っぱってきたのも時宗の人たちだといわれている。
一遍の仏道では、信じている人もいない人も、念仏を称える人も称えない人も、神様も仏様も道教も儒教も、すべて境界がとけてしまっている。熊野の地にふさわしい仏道といえるでしょう。すべては融けて南無阿弥陀仏になる。
▽111 伏拝王子あたりからは生活空間と宗教空間がひとつになっている。民家が参道の一部分をなしている。塀がない。空気が行ったり来たりしている。庭の手入れもきれいにしてあって…日常の生活感と、本宮に向かって進んでいく霊的な緊張感の高まりが融け合っている。(〓プライバシーがない輪島の生活。ばあちゃんは外で座ってる。プライバシーが公的スペースまでにじみ出ている。その心地よさ)
▽116 熊野古道も、手の入れよう、といいますか、無数にある思いの蓄積みたいなものが随所に見受けられた。…道に直線がなかった。見えそうで見えない。伏拝王子からの見晴らしでやっと見えたけど、そこからも紆余曲折がある。
…いいかげんつらくなった時点で伏拝王子がある。あとひと息だと思ってまた歩き出せる。
▽121 大斎原からの移転は陰謀? (辻本)当時も反対はあったらしい。それまでも何回か流されているはず。そのたびに再建してきたと思うけど、明治22年は想像を絶する洪水だった。
▽123 梅原猛先生は「死の国」ととらえるけど…大斎原なんかは母性原理が強くて、もっと聖性と結合するエロス・生命力というか「生まれる感じ」があった。
▽124 熊野はボーダレス。「ここからが聖域です」といわれても、生活している場所と地続き。
▽125(森本)新宮と本宮の関係はあまりよくない。商業都市として発展してきた新宮の拝啓には、山林が生み出す冨があった。本宮の人たちにとっては、新宮に冨を吸い取られるという感覚があるように思う。…市町村合併のときに、本宮は新宮ではなく田辺市と一緒になった。
(辻本)三山は行政的にはバラバラ(熊野が団結すると手強いので分断しろということもあったのでしょうか。中央政府から危険なパワースポットとして認識されてたわけですね)
(森本)明治末期から大正にかけて全国的にモダニズムが広がり、自由主義が広がりつつあった頃は、ここで熊野をたたいておかないとヤバイなと思った人はいたでしょう。
▽134 (森本)神倉山と「お燈祭り」 祭り当日h女性は入れない。ただ参道にぎっしりと陣どって「なんとかく〜ん」って黄色い声がかかる。祭神の高倉下命は、神武が来たときに神剣を奉り、勝利に導いたとされている。おそらく山人系の産鉄集団だったんじゃないかと。
…神倉神社のほうが、速玉大社より歴史が古く、大社の元宮ともいわれる。石段は「鎌倉積み」と呼ばれ、頼朝が寄進したと伝えられている。
…三丁にはご神体のゴトビキ岩。ヒキガエル。男根のようにも見えることから、花の窟神社のご神体と一対のものだといわれている。
▽137 (森本)戦前まで葬列がこの近くを通るときは棺桶を担いだまま走ったそうです〓。神倉山に棲む天狗に遺体を盗られるという言い伝えがあったらしい。伝承によれば、金属を扱う山人たちは遺体のとりあつかいが里人と違う。遺体をグツグツ煮え立っている金属に入れることによって化学反応が起き、加工がしやすくなるというんです〓。…そこから、遺体が盗まれるという伝承が生まれたのかもしれません。
▽138(辻本)新宮にはかつて新宮鍛冶と呼ばれる集団がいた。最近まで元鍛冶町や新鍛冶町の地名に名残をとどめている。
▽140 白装束ののぼり子が一斉に駆け出すので、射精の瞬間だという人もいる。
▽142 (森本)上り子は「神様」だから、振る舞い酒もあって、周辺の人はご機嫌をとってくれたわけですが、警察からのお達しで飲酒禁止になってしまいました(〓いつから?)
▽146 日沼頼夫さんは、縄文の色が残る土地は風土病が共通するとうい説を唱えている。風土病とは成人型白血病のこと。沖縄・北海道、この熊野も多い。
▽148(森本)祭りをいちばんで駆け下る人は4年連続で隣町の勝浦消防本部の職員。
…妙心寺という無住のお寺。代々管理しているのは妙心寺さんという一族。そのお孫さんは世界的なバイオリニスト。
▽151 山にのぼる。足下だけを見る。足裏とか膝とか、そういう細部に精神を集中すること、それ自体が一種の瞑想になる。トランス状態に。
▽156 山形の鶴岡。羽黒山の山伏が中心になって、東京から脱サラしてきた人が農業をやったり、フレンチレストランをやったり、出版したりして共同体を立ち上げている。宗教者が中心にいるというのが落ち着きがいい。星野さんという山伏。
…兵庫県の奥丹波で、若者を「お蕎麦屋さん」に仕立てていくユニークなコミュニティ活動をやっている人がいる。蕎麦街道ができつつある。佐藤勉さんが中心。
…成功するコミュニティっていうのは、センターに公共的で開放性の高い空間が確保されていること、その場を守る人がいること。開かれた空間と恒常的な守り手がいることが共同的な空間が持続するための条件。
共同体を継続するには「物語」が必要。(祭りもボヘも?〓)
▽164 花の窟神社 イザナミの埋葬場所。古事記では出雲に墓。
ここも最近、神社らしくなりすぎました。自然信仰の形態が失われていく。昔は賽銭箱もなかったんです。こういう柵もなかったです。
▽181 御船祭 ハリハリ踊り
▽184 那智大社の隣には青岸渡寺。那智大社の奥の院の妙法山阿弥陀寺では「お髪上げ」という風習がある。亡くなった方の毛髪を奉納する儀式。これは風葬か鳥葬の名残なんじゃないかという説も。那智山は「女人高野」とも呼ばれる。
…青岸渡寺も一度はつぶされそうになった。仏像仏具は下の市野々というところへ移された。再興は明治7年。それまでは如意輪堂という呼称だった。
▽192 滝の上流が2011年の台風でかなりやられ、滝壺がゴロゴロした大きな石で埋まってしまった。水源が山の木を伐採したりしてだいぶ荒れていたみたいで。
▽201 (辻本)退職間際に養護学校の校長をしていた。…
妙法山。近代になると死者の国熊野のイメージが妙法山に集約されていく。さらに近年では「大逆事件」の犠牲者をふくむ「人民解放運動戦士之碑」が建てられていて、荒畑寒村が「人のため世のため立ちて戦いて仆れし友を豈忘れめや」〓〓
▽205 補陀落山寺。かつて住職が60歳になると渡海した。補陀落渡海は平安時代にはじまったが、江戸時代になってからも何人か渡海している。記録に残っているだけで40人、うち25人が那智の浜から出発したそうです。
▽208(釈)老人が飲食できなくなると、枯れ木のようになっていく。痛いとか、苦しいといっていたのがだんだんなくなるというか、感じる能力もなくなっていく。飲食する力が衰えて10日から2週間で息を引き取られます。
…いまでも末期の患者にとってつらいのは点滴だそうだから。点滴による補給で、苦しみが引き延ばされる。点滴していると水分が身体にたまる。それが痰になって呼吸できなくなるので吸引する。それが痛いらしい。
▽213 平維盛の供養塔。補陀落渡海したといわれる。
〓妙法山の下、色川地区は多くの伝承を残している。平家落人伝説の里という風情です。
▽217 文化も自然環境も自然条件も含めて、熊野は非常に多産な空間で、そこに分厚い宗教的古層が堆積している。人間がつくりあげたものと自然がつくりあげたものが、見事に融和していました。
▽226 お土産屋が軒を並べる俗っぽさ。那智の滝の場合は、滝の宗教的なパワーを緩和するためのものじゃないかな。
▽253 本来の人間集団では、病人であったり、幼児であったり、老人であったり、その人自身は何もしないし、何もできないという人が集団統合の中心になったんじゃないか。

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