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「死の国」熊野と巡礼の道古代史謎解き紀行<関裕二>

■(新潮文庫) 202106
 いろいろ物議をかもす民間研究者が熊野の歴史をひもといた本。そのまま信じてよいかわからないけど、おもしろい。
 熊野への道を石畳で舗装したのは、死者の国に対する憧れだろう(五来重)、新宮市の徐福伝説を裏づけるように昭和30年代の市道工事中に秦の時代の半両銭が多数発見された、歴代天皇は伊勢神宮には無関心で7世紀に持統天皇が参拝したあと明治天皇に至るまで、誰も参拝していない……といった事実を紹介する一方で、筆者の独自解釈を展開するのがこの本の真骨頂だ。
 東海地方を根城にした「尾張」がヤマト建国に貢献したが、日本書紀を編纂した8世紀の朝廷の政敵だったため、尾張の功績は消し去られ、手柄はヤマトタケルのものとされた。「ある氏族の業績を王家の英雄にあずけて手柄を横取りする」というのは日本書紀編纂にかかわった藤原氏の常套手段という。その典型が、蘇我氏を大悪人に仕立てあげるための聖徳太子だった。
 藤原氏の悪だくみに加担した王家はだから、聖徳太子やヤマトタケルの怨霊をおそれつづけた。
 前方後方墳は、ヤマト建国直前に近江や東海地方で誕生し、各地に伝播したが、次第に姿を消し、最後に残ったのが出雲だった。尾張氏は熊野の地域に進出して熊野の神を祀り、さらに出雲に進出して熊野の神を祀りつづけたのではないかと推理する。出雲国造家は尾張氏の枝族と推測する。
 紀伊国、熊野の秘密を握っているのはスサノオだという。
 スサノヲはヤマト建国の偉大なプロデューサーであるとともに、鉄を生産するために暗躍したフィクサーだった。燃料として必要とされたのが熊野の大森林だったという。

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五来重(仏教民俗学)の『熊野詣』(講談社学術文庫)。熊野は入るのに資格が試される試練の山。死者の魂は自由に熊野の山を越えるので、熊野詣の途次、死んだ親族や知人に出逢うと語り継がれてきた。また、熊野に向かう道を中世の人々が石畳で舗装したのは、死者の国、他界に対する憧れだろうと、五来重は推理する

小山靖憲は『熊野古道』(岩波新書)で、暗いイメージで語られていることに苦言を呈している。古道を歩いて暗いと感じるのは、杉や檜の人工林の道であって、自然林の道は明るいと指摘する。また、補陀洛(落)渡海という那智に残された習俗を熊野全体にまで拡大していると批判し、熊野を「隠国」「死の国」とみなす諸説を否定的に捉えている。しかし、これこそ大きな誤解であろう。「死の国」を暗いと感じるのは現代人だけなのだ。

紀伊半島の考古学。島根県の加茂岩倉遺跡(雲南市加茂町)から39の銅鐸が発見され、その4つは、和歌山市の銅鐸と同じ鋳型から造られた「兄弟鐸」だった。なぜ紀伊半島と出雲がつながっていたのか謎を残した。

紀南には、巨大な古墳がない。ただ、熊野灘に面した那智勝浦町に、本州最南端の前方後円墳が存在する。
田辺湾周辺では、4世紀から7世紀にかけて、古墳が造営されたが、ここから南と東の熊野川流域では、ほとんど古墳が存在しない。独自の宗教観を形成し、他に例をみない埋葬文化を共有していたのだろう。「水葬していたのではないか」とする説も根強い。

徐福伝説でもっとも有名なのが新宮。徐福は新宮で暮らしたといい、江戸時代の元文元年(1736)には墓も建立されている。その墓を公園にした。近年では、徐福伝説を追って、台湾や中国の観光客も新宮を訪れるという。

昭和30年代の市道工事中、秦の時代に鋳造された大型の半両銭(秦代から前漢にかけて流通した貨幣)が多数発見された。そのうち一枚が保存されていて、中国貨幣の研究家も「本物」と太鼓判を押す。

天皇自身も、災難が降りかかってくると伊勢を恐れたが、普段は伊勢神宮には無関心で、7世紀に持統天皇が参拝したあと、明治天皇に至るまで、誰も参拝していない。

熊野修験道史の研究家・二河良英は、宮井戸社を水葬の場と推理している。ここで葬られた者は、熊野灘の彼方の常世国で復活し、蘇った魂が蓬萊山に帰ってくると信じられていたのではないか

そもそも神社に社殿が建てられるようになったのは、仏教が導入され、伽藍が出現した後の話だ。

大辺路と小辺路は、近世以降の参詣道だ(文献上の初見は近世初頭の『醒睡笑』)。また、伊勢路のほかに、修験者の山岳ルートで、吉野から本宮に至る大峯道もあった。正確に言うと大峯道は、参詣のための道ではない。ここは修験者の道だった。

「尾張のヤマト建国に果たした役目」は、きれいさっぱり消し去られ、その代わり、王家の英雄ヤマトタケルが登場した。この、「ある氏族の業績を王家の英雄にあずけて手柄を横取りする」というのは、『日本書紀』や編纂に深くかかわった藤原氏の常套手段だ。その典型的な例が、改革派の蘇我氏を大悪人に仕立て上げるための聖徳太子だった。王家もこの藤原氏の悪だくみに荷担したから、聖徳太子をいつまでも恐れつづけた。

明治維新ののち廃仏毀釈という狂った政策が採られ、多くの寺院が没落し、修験道も迫害された。神倉神社も、修験者(神倉聖、神倉天狗)の修行の場だったために迫害を受けた。ゴトビキ岩は巨大なお堂に守られていた(外から岩は見えなかったのだ)が、神仏混淆状態から純粋な神社に生まれ変わる段階で、仏堂は破壊されてしまった。

水害で流される前の熊野本宮は、今の数倍の規模で、1万1千坪の境内に5棟12社の社殿や建造物が並んでいた。古くは本宮のまわりの川底も深かったが、近世に至り、川筋が埋もれ、水かさが増し、さらに明治に入って森林伐採が進み、山の保水力が弱まり、水害の危険性が高まっていたのだ。明治22年(1889)8月の水害で多くの社殿が流された。

天皇家が八世紀にいたってもヤマトタケルの祟りを恐れていた。歴史の表舞台から引きずり下ろされ、その上で御先祖様の手柄まで横取りされてしまったのだから、「尾張(ヤマトタケル)」の恨みは深かった。

五来重(仏教民俗学)の名著『熊野詣』(講談社学術文庫)死者の魂は自由に熊野の山を越えるので、熊野詣の途次、死んだ親族や知人に出逢うと語り継がれてきたという。また、熊野に向かう道を中世の人々が舗装(石畳が延々と続く)していたのは、死者の国、他界に対する憧れだろうと、五来重は推理するのである

伊勢神宮を支配していたのは中臣(藤原)氏であり、女神アマテラスを創作し、八世紀以降の神祇祭祀そのものを支配していったのも彼らだった。女神アマテラスという「新しい考え」が藤原氏によって提出される以前、日前・國懸神宮の祭神は、日本を代表するアマテルだったのかもしれない。持統天皇と藤原不比等の創り上げた伊勢神宮(外宮、内宮)が「虚構」だったことに、我々は、早く気付く必要がある。

倭国大乱最大の原因は、鉄の争奪戦と流通ルートを巡る主導権争いだろう。ヤマトが建国されるまで、奈良盆地にほとんど鉄が入ってこなかったという事実を、無視することはできないのである。

八世紀、奈良県と大阪府の境・葛城山と吉野で役小角が活躍していた時代、藤原氏がひとり勝ちし、神道の本質も歪められ、旧豪族も没落していく。神祇祭祀の中心に立っていた物部氏や尾張氏も没落し、零落していった。朝廷や伊勢の祭祀も藤原(中臣)氏に牛耳られ、「中臣神道」が正当性を主張していったのだ。これに対し、太古の信仰を守りつづけてきた人たちは、山に潜伏し、独自のネットワークを構築していくこととなる。そのひとつが、修験道。

出雲の西側の出雲大社(島根県出雲市)を祀ることで有名だが、最初彼らは出雲の東側(松江市)に地盤を築き熊野大社を祀っていたのだ。また、出雲国造家は、出雲で前方後方墳(前方後円墳ではなく、前も後ろも方形)を造営していくが、この埋葬文化は、ヤマト建国直前に近江や東海地方で誕生し、各地に伝播していったものだ。ただし、次第に姿を消し、最後に残ったのが出雲だった。ここに、出雲国造家の素性が隠されていたと思う。つまり、出雲国造家は尾張氏の枝族で、また尾張氏は熊野の地域に進出し、熊野の神を祀り、これが、熊野の熊野大社となり、さらに出雲進出後も、熊野の神を祀り続けたのではあるまいか。

千四百万年前に火山活動があったため、熊野市から那智にかけての一帯は、銅、鉄、金、銀の鉱床が眠っていたし、那智滝の近くの鉱山の銅は、大仏鋳造に用いられている。

少なくとも、紀伊半島の紀ノ川下流域の豪族が、強大な力を持ち、朝鮮半島と深くかかわっていたことは間違いないし、優秀な海の民だった古代の倭人が、盛んに朝鮮半島に渡り、富を蓄えていたであろうことは間違いない。

島根県の加茂岩倉遺跡(雲南市加茂町)から三十九個の銅鐸が発見されたが、その中の四つは、和歌山市の銅鐸と同じ鋳型から造られた「兄弟鐸」だった。

律令制定後、国造の制度はなくなり、当然各地の国造はいなくなったのだが、出雲と紀伊国だけは、なぜか国造がその後もつづいた。出雲では出雲大社、紀伊では日前・國懸神宮を祀る神官となって、権威を保ち続けた。近代に至っても、日前・國懸神宮の宮司であり続けた紀氏は華族に選ばれ、一族から和歌山市長が誕生してもいる

戦国時代の上野国(群馬県)の日秀上人は、補陀洛渡海を試みるも、風に吹かれて七日七夜、琉球国(沖縄県)にたどり着いて命拾いしている。

承久の乱(一二二一)で貴族が没落すると、武士が熊野に通い、室町時代には、大勢の民衆も参詣するようになった。やがて十五世紀になると、西国三十三所観音巡礼と重なり、熊野詣の最盛期が訪れ、「蟻の熊野詣」

日本で本格的な製鉄が始められたのは、六世紀と考えられてきたが、平成七年(一九九五)に広島県三原市の弥生時代後期の小丸遺跡で、製鉄炉跡二基と鉄滓が見つかっている。三世紀のものと考えられている。スサノヲが目指したのは、日本列島内で鉄を生産することではなかったか。そのために必要だったのは、熊野の大森林だ。もちろん、燃料にするためである。

有田と日高の郡界にあたった鹿瀬山(鹿ヶ瀬峠)と滝尻の坂、藤代坂、糸我山は「崔嵬」「嶮阻」(高く険しい)と記録している。普段安楽な生活を送っている貴族にとって、中辺路は、塗炭の苦しみを味わう場所だったのだろう。ここに、熊

本来のルートからはずれた大辺路は、紀伊半島の南側をぐるりと回るコースで、なぜここが利用されるようになったかというと、近世に紀州藩が道を整備したこと、風光明媚で文人墨客に愛されたためである。

根井浄は『歴史文化ライブラリー250観音浄土に船出した人びと』(吉川弘文館)の中で、補陀落(洛)渡海を「宗教的自殺に等しい自死」「常識を越えた狂躁的な宗教現象」だと認めた上で、「しかし」とつづける。ここには強烈な「生」が裏打ちされていた。観音信仰の完結者として補陀落渡海を試みた人びとは、むしろ捨て身の行為の中に強い「生」への動機と意識を持っていた

熊野修験道史の研究家・二河良英は、宮井戸社を水葬の場と推理している。ここで葬られた者は、熊野灘の彼方の常世国で復活し、蘇った魂が蓬萊山に帰ってくると信じられていたのではないか

熊野市と新宮市の中間、三重県南牟婁郡御浜町の七里御浜の一帯に漂着物が集まるのだという。黒潮が紀伊半島の東側で反流を起こしていて、自然に流れ着くのだ。黒潮の強い東向きの流れの周辺に、渦巻きができて、黒潮と逆の流れができると想像すれば、理解しやすいはずだ。物だけではなく、「貴人もやってきた」と伝わる。いわゆる貴種流離譚だ。

熊野権現は、イザナキ、イザナミの垂迹で、神武天皇の時代に紀州に出現し、景行天皇の時代に宮を造ったとあり、神倉に垂迹し、次に阿須賀、その後新宮(熊野速玉大社)に遷ったとある。ち

熊野那智大社は標高五〇〇メートル。深い森の中にたたずむ。御神体は、那智の滝で、「飛瀧権現」と呼ばれ、飛瀧神社(熊野那智大社別宮)が鎮座する。飛瀧権現は大己貴命のことを指しているという。自然崇拝だから、社殿はない(よいことだと思う)。

玉置山(標高一〇七六メートル)山頂付近に玉石社が祀られ、祠はなく、露出した丸い玉石を御神体とし、大己貴神を祀る。のちにここは、吉野の大峯・金峯山と熊野をつなぐ要衝として修験と密教の聖地となるのだが、いかにも神秘に満ちた場所なのだ。

田辺湾周辺では、四世紀から七世紀にかけて、古墳の造営が行なわれたが、ここから南と東の熊野川流域では、ほとんど古墳が存在しない。

紀伊国、熊野の秘密を握っているのも、スサノヲだと思う。結論から言ってしまえば、スサノヲはヤマト建国の偉大なプロデューサーであるとともに、熊野の木材を確保するために暗躍したフィクサーでもあったのだ。

野本寛一は『熊野山海民俗考』(人文書院)の中で、「狩猟・採集時代の流れをくむ古層の山の神信仰」といい、これに農業神的なもの、修験道的要素が加わって御燈祭が生まれたと言っている。やはり、縄文時代から続く、古い習俗ということになる。

院(上皇)が熊野に詣でたひとつの理由は、藤原権力に対する反発と、藤原俗権力を圧倒するための呪力を身に付けるためだっただろう

驚くべき「物証」も見つかっている。昭和三十年代の話だが市道工事中、秦の時代に鋳造された大型の半両銭(秦代から前漢にかけて流通した貨幣)が多数発見されている。

千四百万年前に火山活動があったため、熊野市から那智にかけての一帯は、銅、鉄、金、銀の鉱床が眠っていたし、那智滝の近くの鉱山の銅は、大仏鋳造に用いられている。

ちなみに、流される前の熊野本宮は、今の数倍の規模で、一万一千坪の境内に五棟十二社の社殿や建造物が並んでいた。古くは本宮のまわりの川底も深かったが、近世に至り、川筋が埋もれ、水かさが増し、さらに明治に入って森林伐採が進み、山の保水力が弱まり、水害の危険性が高まっていたのだ。明治二十二年(一八八九)八月の水害で多くの社殿が流されてしまった。

玉置山(標高一〇七六メートル)山頂付近に玉石社が祀られ、祠はなく、露出した丸い玉石を御神体とし、大己貴神を祀る。のちにここは、吉野の大峯・金峯山と熊野をつなぐ要衝として修験と密教の聖地となるのだが、いかにも神秘に満ちた場所なのだ。

小山靖憲は出雲(島根県東部)にも熊野大社が祀られ(松江市)、出雲が本家で、信仰が熊野に伝わったという発想から、出雲の櫛御気野命(御饌を司る神)が熊野にもたらされ、家津美御子神に転訛したという。すなわち、出雲神話が受容されたのだというのである(『熊野古道』岩波新書)。

大辺路と小辺路は、近世以降の参詣道だ。大辺路は、近世に紀州藩が道を整備したこと、風光明媚で文人墨客に愛されたため。

藤原定家は、有田と日高の郡界の鹿ヶ瀬峠と滝尻の坂、藤代坂、糸我山は「崔かい」「険阻」と記録。安楽な生活を送っている貴族にとって中辺路は塗炭の苦しみを味わう場所だったのだろう。

院が熊野に詣でたひとつの理由は、藤原権力に対する反発と、圧倒するための呪力を身につけるためだっただろう。

出雲の国造家は、松江市に地盤を築き熊野大社を祀っていた。前方後方墳をつくる文化は、ヤマト建国直前に近江や東海地方出誕生し、各地に伝播していったものだ。次第に姿を消し、最後に残ったのが出雲だった。出雲国造家は尾張氏の枝族で、尾張氏は熊野の地域に進出し、熊野の神を祀り、これが熊野の熊野大社となり、さらに出雲進出後も熊野の神を祀りつづけたのではあるまいか。

ヤマト建国に大活躍した「尾張」は、日本書紀を編纂した8世紀の朝廷の政敵であり、だから「尾張のヤマト建国に果たした役目」はきれいに消し去られ、そのかわり、王家の英雄ヤマトタケルが登場した。「ある氏族の業績を王家の英雄にあずけて、手柄を横取りする」というのは日本書紀編纂に深くかかわった藤原氏の常套手段だ。その典型が、改革派の蘇我氏を大悪人に仕立てあげるための聖徳太子だった。藤原氏の悪だくみに加担した王家は聖徳太子をおそれつづけた。
天皇家が8世紀になってもヤマトタケルの祟りをおそれていたのは、……ご先祖様の手柄まで横取りされた……「尾張(ヤマトタケル)」の恨みは深かったのである。

律令制定後も、出雲と紀伊国だけはなぜか国造がその後もつづいた。出雲では出雲大社、紀伊では日前・国懸神宮を祀る神官となって権威を保ちつづけた。國懸神宮〓の宮司だった紀氏は家族に選ばれ、一族から和歌山市長が誕生している。

伊勢神宮を支配していたのは中臣(藤原)氏であり、アマテラスを創作し、8世紀以降の神祇祭祀そのものを支配していった。持統天皇と藤原不比等がつくりあげた伊勢神宮が虚構だったことに、早く気づく必要がある。

伊勢神宮で、未婚の女性が斎王に選ばれたのは「伊勢大神(アマテラス)が男神」という共通の認識があったからだろう。斎王のもとに伊勢の神が夜な夜な通ってきて、その姿は蛇で、寝床にウロコを残していくと、まことしやかに語り継がれている。
スサノオこそ皇祖神だった?

スサノヲはヤマト建国のプロデューサーであるとともに、熊野の木材を確保するために暗躍したフィクサーだった。

倭国大乱の原因は、鉄の争奪戦と流通ルートを巡る主導権争いだろう。ヤマトが建国されるまで、奈良盆地にはほとんど鉄が入ってこなかった。

……スサノヲが「日本には豊富な森林資源がある」と言っているのは、日本列島が大量の樹木(燃料)をもっていることを語っていたのだろう。燃料を手に入れれば、鉄だけでなく、塩をつくることもできる。
 スサノヲは鉄の男で、だからこそ、熊野の大森林に着目したのだろう。

 本格的製鉄がはじめられたのは6世紀と考えられていたが、広島県三原市の小丸遺跡で、製鉄炉跡などが見つかっている。3世紀と考えられる。
 スサノオがめざしたのは、鉄の生産ではなかったか。そのために必要だったのは、熊野の大森林だ。

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