■コモンズ 20210616
福島はやませが夏に吹き、冷害を受けやすかったから、江戸時代から、稲の品種改良や農具や農耕馬の改良などの工夫をしてきた。明治後期には、会津では稲の品種だけで約60種あり、早稲、中稲、晩稲と植える時期が異なる稲を分散して栽培したという。
晩秋から早春には霜がおり、病原菌や害虫の発生が少ないため有機農業も盛んになった。蚕は餌として桑を食べるから、周辺農地でも殺虫剤を使用していなかった。
旧東和町では青年団を母体に、出稼ぎに頼らず農業で自立する道を歩んできた。少量多品目栽培の有機農業を確立し荒廃した桑畑を再生してきた。合併を控えた2005年には「ゆうきの里東和」を創設した。
福島第一原発事故直後もリーダーたちが説得して春の作付けを決めた。
「この地で今後も生活するためには、作付けして収穫し、検査して、事実を知るしかない」
「自給野菜を検査しにきたお年寄りが、検出限界以下だった結果を見て、『これなら孫に食べさせられる。安心した』と話しました。農産物と土壌を測りつづけて、科学的に『見える化』することが大切です。そして正しい情報を消費者に伝えていくことが信頼につながる。農家が安全な食べ物を自給する延長が消費者の台所だと思います」
水田土壌のセシウム値は1キロあたり数千ベクレルあったが、玄米から放射性セシウムは検出されなかった。稲わらや堆肥を投入してきた結果、放射性セシウムを固定する腐植含量と作物への吸収を抑制する交換性カリウムが供給されていたからだ。
測りつづけることで、耕すことが放射性物質の作物への移行を抑え、農業者の外部被曝を低下させること、農業をおこなうことでコミュニケーションが復活できることが明らかになっていった。「危険だから」と農地を放棄したら、人の心も荒れてしまう。農にこだわることで人とコミュニティの復興を実現してきた。
一方、南相馬市原町区大田地区では、土壌中のセシウムが少ないのに、玄米の含量が東和地区より多かった。東和の棚田が1日に使用する水の量が3-5ミリなのに対して、太田川流域は50ミリ。ダムの水を多量に使ってきたから。ダムを通して新規に流入する放射性セシウムの総量が東和地区の15倍もあった。こうした事実は現地調査なしには分からなかったし、対処法を検討することすらできなかったろう。。
水俣病の第一人者原田正純さんは「現場に学べ。事実は現場にしかない」と言っていた。「被害者が出たらすぐに現地で詳細な調査をおこない、被害者に寄り添い、解決に向けて進むことが科学者の責任である」と筆者は記す。そんな研究者がいたらから、福島の有機農業は再生への一歩を踏み出すことができたのだ。
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▽3 浜通りと中通りは、やませが夏に吹き、冷害を受けやすかった。江戸時代から、稲の品種改良や、冷害に強い苗づくり、灌漑(あたたかい水の利用)、排水(水田に水を溜めてあたたかくするために水を多く流さない)、肥料の工夫(里山の落葉、草や家畜糞尿の有機物の利用)、農具や農耕馬の改良などの努力をつづけてきた。
明治後期の福島県の資料によると、会津では稲の品種だけで約60種あり、早稲、中稲、晩稲と植える時期が異なる稲を水田や地域ごとに分散して栽培。1960年代以降も家族農業を中心に受け継がれている。
朝晩と日中の温度差が大きく、晩秋から早春には霜がおりるため、病原性の微生物や昆虫が生育しにくい。したがって、病原菌や害虫の発生が少なく、野菜の味がよい。それゆえ、地域資源循環型の有機農業も盛ん。
▽24 根本洸一さんは1999年に有機農業に転換し、有機米1.6ヘクタール(水田面積4.5ヘクタール)、有機大豆1.6ヘクタール(畑面積2ヘクタール)などを栽培してきた。
近くの学校に避難。その後、喜多方市に一時的に避難し(〓その様子)、現在は相馬市にある親せきの空き家で暮らしている。2012年と13年に相馬市から通って、小高区の水田で試験栽培をおこなった。(第2章へ)
▽25 ゆうきの里東和 2006年の事業高は3200万円(道の駅は1800万円)だったが10年度には1億9500万円(道の駅は9300万円)まで伸びている。有機農産物や低農薬農産物の産直や店舗販売に加えて、新たに開発した桑の葉パウダー、クワの葉茶などの特産加工の成果である。11年度は2億円以上を目標としていた。
▽29 旧東和町では1980年ごろから青年団活動を母体に、出稼ぎに頼らず農業で自立する道を歩んできた。産業廃棄物処理場やゴルフ場の建設に反対し、少量多品目栽培の有機農業の確立や、荒廃した桑畑の再生を実現してきた。合併を控えた2005年には、地域全体で有機農業を進めていこうと、「ゆうきの里東和」を創設した。
30人の新規就農者を受け入れ、3.11以降も6名を受け入れている。
有機農家と畜産農家と企業が出資して、牛糞、籾殻、おがくず、食品残渣、あめ玉など14種類の資材を入れた「げんき堆肥」やボカシ堆肥を堆肥センターで製造してきた。
独自の認証制度を設け「東和げんき野菜」のシールをつけた野菜を販売。
▽32 飯舘村 高橋日出男さん
▽33 ゆうきの里東和理事長の大野達弘さん(1954生まれ)。多くの新規就農者たちが大野農場で育ち、巣立った。農家民宿も。里山の保存にも力を入れてきた。
2011年3月15日、浪江町から二本松市に3000人が避難してきた。東和町が受け入れたのは1500人。大野さんは3月22日、有機栽培の小松菜とほうれん草をトラクターで踏み潰し、処分せざるをえなかった。4月は作付けの準備の季節。大野さんら理事たちは粘り強く話して作付けをみんなで決めた。「この地で今後も生活するためには、作付けして収穫し、検査して、事実を知るしかない。福島の百姓は作ってはかるしかないんです」
しいたけは出荷制限。「しいたけがだめならば、酒造りをおこなえばいい」。2011年春、耕作放棄地にブドウを植え、2013年に最初の収穫。14年以降にワインづくりがはじまる(46ページ)
▽専務理事・事務局長の武藤正敏さん「農家民宿『田ん坊』」元東和町の農政課長。神楽の踊りの名手。
蚕は餌として桑を食べる。だから、桑畑に限らず、周辺農地でも殺虫剤を使用していなかった。
2003年ごろから合併の動きがはじまると、有機農業をしていた大野さんや佐藤佐市さんらの呼びかけで、15団体(直売所出荷の会、有機農業生産団体、東和町特産振興会、とうわグリーン遊学)が集まり、ゆうきの里東和が結成される。
▽40 2012年4月から独自の郷土料理や酒を提供する農家民宿が許可された。あわせて14軒。2012年度はのべ500人、13年度は900人が宿泊。客の中心は大学の教員・学生、NPOや行政関係者。
武藤一夫さんの農家民宿・レストラン「季の子工房」
▽45 関元弘さん(1971生まれ)97年に農水省、人事交流で東和町役場に2年勤務。2006年5月に移住。大野農園で研修後、10月に農家に。「ななくさ農園」を経営。将来は福岡正信さんの自然農法を目指しているという。発泡酒の製造免許を取得し、桑や柿などを原料とした「ななくさビーヤ」を道の駅などで販売。妻も農水省の同僚。
▽50 大内信一さん(1941生まれ)
「原発事故直後の3月、春野菜が放射性物質による土壌汚染を防いでくれました。太陽の光を利用して葉を大きく広げたほうれん草が、落ちてきた放射性物質を食い止めてくれたのです。私は1本1本に『ありがとう』という感謝の言葉をかけて、涙を流しながら抜き取り、濃厚に影響のないし基地に穴を掘って埋めました。夏野菜から放射性物質が検出されなかったのは、そのおかげです」
1970年代半ばに、十数年の慣行農業から有機農業に転換した。
「本当の農業をやりたい、本物の農民になりたいという気持ちがあったからです。それまでは農産物の収量を上げることが絶対的に大事で、安全な農産物をつくるという発想がありませんでした。しかし全国愛農会(1945設立)や日本有機農業研究会(1971)の先覚者とであうなかで、これまでとははちがう農業のやり方を知り、強く惹かれていきます」
現在は8名の仲間と、野菜・コメ・大豆などを消費者と生協などに届けている。
「これまで農薬や添加物を減らそうと努力してきたけど、数字的に『大丈夫だ』ってことはあっても、もう『絶対安全』とは福島では言えねぇんだよね。やっぱり、それが一番悔しい」
「私たちはできるかぎりすべてを測り、数値を公表して、安全な農産物をつくる努力をする。そのうえで、消費者といっしょになって、食べることで福島の農業とのうちを守るっていう感覚でやっていければと思います」
▽54 菅野さん 水田2.5ヘクタール、野菜・雑穀2ヘクタール、ハウストマト14アール、餅・おこわなどの加工品という複合経営。
水田の雑草をおさえるとともに中山間地の天水田をあたためるために、1996年以来、深水による有機栽培に取り組んできた。
「自給野菜を検査しにきたお年寄りが、検出限界以下だった結果を見て、『これなら孫に食べさせられる。安心した』と話しました。放射能は見えない。だから、農産物と土壌を測り続けて、科学的に『見える化』することが大切です。そして正しい情報を消費者に伝えていくことが信頼につながる。農家が安全な食べ物を自給する延長が消費者の台所だと思います。だから、化学肥料や農薬は使えません」
菅野さんの田で調査と実証実験を開始したのは2011年8月。水田土壌のセシウム値は1キロあたり4000(水尻)〜7700ベクレル(水口)だった。だが、化学肥料のカリウムを入れなくても、玄米から放射性セシウムは検出されない(検出限界値10ベクレル)。長年にわたって稲わらやボカシ堆肥、げんき堆肥を投入してきた結果、放射性セシウムを吸着固定する腐植含量と作物への吸収を抑制する交換性カリウムが供給されていたからである。有機農業の積み重ねが放射性物質の作物への移行を抑えている。
▽60 「有機的農業による循環型の地域作りを、研究者も企業も消費者もともにおこなっていきたい。田畑が荒れれば、人の心も荒れる。それを肝に銘じて、福島から、人の命を大切にした人間復興を、子どもたちの歓声が野良にこだまする福島の再生を」
▽67 南相馬小高区 根本洸一さん
2012年4月16日に警戒区域指定が解除されると、日中だけもどって農業を再開。「耕した田んぼが地上1メートルで毎時0.392μシーベルト、耕していない田んぼが毎時0.542、耕作で線量が下がりました」。だが2013年も稲作は再開されなかった。試験田のみ。
「私は百姓だ。百姓は自然の恵みによって営まれている。小高区は自然の恵みが豊かだ。早く戻って有機農業を再開したい」
……2012年の試験栽培で、玄米は1キロあたり11〜21ベクレルだった。ところが2013年は4カ所の試験田すべてで100ベクレルを超える玄米があった。(1年後がれき処理によるものと判明)
▽74 飯舘村大久保第一集落の長正増夫組長と目黒きんじ生産部長。居住制限区域。集落の12戸の農家と新潟大、福島大が協同で汚染マップづくり。
大久保第一集落では、2011年7月から手作りの情報誌を発行。毎月1回集会所に集まり、食事をしながら話し合いを継続。地区の行事もつづけてきた。愚痴ばかりだったが、いっしょに測定する過程で、会話が変わっていく。
長正さん「自分はこの地で体を動かし、農業をおこない、好きな日本蜜蜂を飼い、休耕田を菜の花やレンゲ畑に変える。ここでいままでどおり自立して生きる」
▽84 情報は農業者や住民に広く発信する。その結果、おじいちゃん、おばあちゃんが丹精こめてつくった農産物を、子どもや孫に安心して食べさせられるようになる。そのことが原発事故で壊れた地域のつながりを復活させる。同時に、農業生態系の汚染を克服して安全な農産物を生産し、復興した姿を全国へ伝えることが、農業の振興につながる。これが現場と結びついた本来の農学研究である。
▽86 2011年12月から2013年8月まで8回の報告会。会場は道の駅ふくしま東和など。
・農業をおこなうことで、放射性物質の作物への移行が抑えられる。
・耕すことで、営農をつづけることで、稲への放射性物質の移行を抑えられる。
・農業をおこなうことで、コミュニケーションが復活できる。(〓これが想像以上に大事。バラバラになったものを復活)
▽111 福島県は2012年3月、1反当たりゼオライトと塩化カリウムを30キロ投入することを水田作付けの条件にすると発表。大変な作業。
……私たちはゼオライトや塩化カリウムの必要はないと考えていたので、布沢集落にある菅野さんの水田で従来の堆肥だけで栽培し、福島県の方針が正しいか確かめることにした。
……げんき堆肥とボカシ堆肥を施用してきた菅野さんの水田。比較試験した結果、ゼオライト、籾殻、燻炭、塩化カリウムによる放射性セシウムの低減効果はまったくないことが分かった。げんき堆肥とボカシ堆肥に含まれるカリウムで十分だと思われる。
……
・従来通りの有機農業を中心とした栽培方法でよい。
・カリ肥料を入れると、過剰になり、食味が低下する。
この結果、布沢集落では2013年度、すべての水田で作付けがおこなわれた。(2012年は3割は作付けしなかった?)。玄米の放射性セシウムは検出限界値以下だった。
……山木屋地区の菅野さんの畑では11年10月、放射性セシウム含量が表層0−5センチで1キロあたり1万7000ベクレル。5センチより深いところはほとんど汚染されていなかった。15センチを耕して均一に攪拌すると、土壌表面1センチの空間線量率は2.4μシーベルトから0.7μシーベルトへと1/3に。大根とカブは検出限界値以下だった。
……耕すことによって農業者の外部被曝が低下し、安全に生産できるのだ。
▽120 稲架掛け乾燥は安全と確認
▽123 南相馬市原町区大田地区 土壌中のセシウムが少ないのに、玄米の含量が東和地区より多い。東和の棚田水田が1日に使用する水の量が3-5ミリなのに対して、太田川流域は50ミリ。扇状地で、横川ダムの水を多量に使うかけ流し水田だから。大量のきれいな水を使っておいしい米を作ってきた。ダムの水を通して新規に流入した放射性セシウムの総量は東和地区の15倍。しかも水に溶けて吸収されやすい。
▽130 ゆうきの里東和では原発事故後いち早く農地の汚染マップを作成し、7月から農産物の測定を開始。農家と消費者にすべて公開。里山、農地、水、農産物、加工品、料理の徹底した検査と公表は、会員に安心感をもたらし、営農の継続につながった。都市部の消費者にも理解され、販売が回復。
▽161 原田正純の言葉「第一は、弱者の立場で考えることだ。……第2はバリアフリーだ。素人を寄せつけない専門家の壁、研究者同士の確執、行政間の壁などが、患者救済や病像研究をどれだけ阻害してきたか。……第3は現場に学ぶということだ。事実は現場にしかないのである(〓福島でそれを実践した学者は思いのほか少ない)
▽164 2013年「福島の農業再生を支える放射性物質対策研究シンポジウム」国や県の報告は、農家の圃場を調べずに、ポット試験による放射性セシウムの移動結果だけであった。現場の話がまったくないのだ。
……飯舘村の菅野典雄村長「チェルノブイリの知見はもういらない、日本で何が起きたか、詳細な調査をもとに公開することが大切である」
▽170 原発事故直後から、被害者の気持ちを無視して「安全」「大丈夫」と言う科学者の発言が多くみられた。また、原発を否定している研究者にも、現地調査をせずに発言する人たちがいた。……原田さんのように、被害者が出たらすぐに現地で詳細な調査をおこない、被害者に寄り添い、解決に向けて進むことが科学者の責任である。
……詳細な調査をせず、県の試験場の栽培試験による限られた情報をもとに、知事は2011年10月12日、米の安全宣言を出した。その後、福島市大波地区の独自検査で当時の暫定規制値1キロあたり500ベクレルを超える玄米が見つかり、福島県の農産物の信頼は一気に失われた。
▽173 2014年1月、根本洸一さんら3人の農家と懇談。皆さん、数年先まで見つめた農業の復興を考え、今年は稲も大豆も野菜も作りたいという。……福島第一原発から20キロ圏内であるため居住できない。根本さんの野菜に含まれる放射性セシウムは検出限界値(1キロ当たり5ベクレル)以下であるが、風評被害で売れない。
……根本さんたちが原発事故以前に使っていた農業用ダム(浪江町の大柿ダム)の水質と周囲の汚染状況を調べなければならない。
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