MENU

廃仏毀釈ー寺院・仏像破壊の真実<畑中章宏>

■ちくま新書20210626
 廃仏毀釈は、政府の命令でお堂や仏像を破壊しつくす日本の文化大革命だった。なぜこんな政策がとられたのか。日本独特の「神仏習合」の成立から廃仏毀釈にいたる経緯とその結果を丹念にたどる。
 神仏習合は神宮寺の建立という形ではじまり、並行して山岳信仰の場では神仏の中間的観念である権現が生み出された。神に「八幡大菩薩」といった仏教の菩薩号が与えられるようになった。「権現」は、かりそめのあらわれとしての神と、その本体である仏の習合をいう。本地垂迹とは、仏が仮の姿をとって応現(垂迹)したのが神だという考え方だ。
 神道と仏教のいずれに属するとも言えない日本特有の尊格に牛頭天王があった。スサノヲや仏教の薬師如来と習合しながら、京都の祇園社、播磨の広峯社、尾張の津島天王社から全国に信仰圏を広げた。
 八坂神社は、神仏分離以前は「観慶寺感神院」「祇園感神院」と呼ばれる宮寺だった。牛頭天王を主神とする祇園天神堂と、牛頭天王の本地仏である薬師如来を主尊として安置する仏堂が並存していた。
 江戸時代、宗門改と寺請制度によって仏教は権力に組みこまれた。経営拡大とともに民衆からの収奪がはじまり、檀家が寺の経営を支える関係が固定化していった
 堕落した仏教への批判から、江戸時代の儒者たちによる廃仏論が生まれ、水戸藩や岡山藩、会津藩で神道から仏教色を排除する政策がとられた。幕末になると、薩摩藩などでも過激な寺院整理がなされた。
 廃仏毀釈は1868年に維新政府が出した「神仏分離令」ではじまる。
 そのちょっと前から廃仏の動きがあった薩摩藩では、島津家菩提寺の福昌寺をはじめ、慶応初年に存在した1000以上の寺院がひとつ残らずつぶされた。
 隠岐の島では慶応4(1868)年、尊皇攘夷思想の庄屋・神官らからなる正義党が、隠岐の朝廷直轄領化、藩郡代の退去を要求する「隠岐騒動」を起こし、80日間にわたり民衆が自治した。騒動がはじまった月に神仏分離令が布告され、各地で廃仏がおこなわれた。現在ある各村の小学校の所在地の多くは寺院の敷地だった。寺所有の田畑山林は隠岐4島の共有財産とされ、売却資金は教育事業などにあてられた。廃仏毀釈は結果的に隠岐の振興に貢献した。
 全国の八幡宮は神社へと改組され、仏教的神号である八幡大菩薩も禁止された。平安時代以来の「石清水八幡宮護国寺」は、神号が「八幡大菩薩」から「八幡大神」に変わり、社号は「男山八幡宮」と改称、大正7年に「石清水八幡宮」となった。
 鎌倉の鶴岡八幡宮寺も、大塔をはじめ、仏教色をもつ堂宇・仏像・仏具・経典類は10日あまりでことごとく破壊された。
 伊勢にも神宮寺があり、周辺に多くの寺院があったが、明治天皇の伊勢神宮行幸が明治2年に計画されると廃仏が徹底された。伊勢神宮の周辺で安政2年(1855)に120あった寺が昭和初年には24まで激減した。
 四国の札所でも、神仏習合の札所は神社と別当寺が分離され、別当寺が正式な札所とみなされるようになった。廃仏が激しかった土佐では15札所中7カ寺が廃された。
 神か仏か判然とさせることを求められ、もっとも大きな影響をこうむったのは、山岳信仰の「権現」と、「牛頭天王」の祠堂だった。
 神仏分離令につづき「修験道廃止令」が出され、日本独自の尊閣である「権現」(とくに「蔵王権現」)は、神とも仏とも判然としないものとして破却された。「石鉄蔵王権現」は「石鎚神社」に。蔵王権現そのものだった前神寺と横峰寺は廃された。立山は芦峅寺の僧侶たちによって信仰が全国に広められたが、立山権現が廃され、芦峅寺と岩峅寺は廃寺となり、雄山神社に強制的に改組された。
 「天王」の名がつく土地は、「天王社」や「祇園社」と呼ばれる牛頭天王をまつる場所だった。祇園社は、牛頭天王がインドの祇園精舎の守護神であったことからこのようによばれた。天王社や祇園社は、「八坂神社」「八雲神社」「杵築神社」「須賀神社」「津島神社」「素戔嗚神社(須佐之男神社)「天皇神社」などと社号を変更した。
 牛頭天王が、目の敵にされた理由には、「天王」と「天皇」の音が同じだからという説もある。天皇中心の国家を形成する際、絶大な人気を誇った牛頭天王が目障りだったのだ……。神仏分離後、いくつもの牛頭天王社が天皇神社に改称されたという。
 一方、後醍醐天皇をまつる「吉野宮」(吉野神宮)は明治25年、神武天皇とその皇后を祀る「橿原神宮」は明治23年、天智天皇をまつる「近江神宮」は昭和15年、桓武天皇と孝明天皇の平安神宮は明治28年。明治天皇と昭憲皇太后をまつる「明治神宮」は大正9年に創建された。近代以前には天皇を神社の祭神にすることはほとんどない。民衆の「天皇信仰」は、「牛頭天王」信仰に比べるときわめて歴史が浅いのだ。

==============
▽17 原始的なカミ信仰は3つの信仰から成り立っていた。1=巨木や祈願などを依り代とする自然神信仰。2=一族の祖先の御霊をカミとする祖先神信仰。3=水田稲作を起源とする信仰。
 1は縄文人の信仰、2は朝鮮半島から渡来した弥生人の信仰、3は、水田稲作が発祥した揚子江流域から台湾を経由して伝えられた信仰を起源とするという見方もある。
▽22 神宮寺は、諸国の神社に設けられた。神仏の共存状態が1000年近くにわたってつづくのだが、神社に隣接し、あるいは神域に設けられた神宮寺が、神仏分離の際、矢面に立つことになった。
▽28 日本の神像彫刻は、仏教の偶像崇拝を意識した習合の所産とみるべき。神仏習合という「現象」を視覚化したものだと言うこともできるだろう。
▽31 延暦年間以降、神々に対して仏堂に入ったことをあらわす菩薩号をつけるようになり、平安時代の中期には「権現」「垂迹」などの語があらわれた。
「権現」は、かりそめのあらわれとしての神と、その本体である仏の習合をいい、またその施設を指す。本地垂迹とは、本来のありかたをしている仏が、仮の姿をとって応現(垂迹)したのが神だという考え方。……本地垂迹説は、神仏関係の基底をなすもの……
▽34 修験道の本尊は、役小角が金峯山で感得したという蔵王権現。
▽36 滋賀の日吉大社。日吉神社、日枝神社、山王神社の総本社。「山王」とは、中国天台宗が土着の山神に贈った称号で、中国における神仏習合を示す言葉。
▽37 神仏習合のなかで、神に仏教の菩薩号が与えられるようになった。その代表的なものが八幡神に与えられた「八幡大菩薩」
▽39 大和国の「春日明神」(春日大社)は藤原氏の氏神で、氏寺である興福寺と密接な関係をもって栄えてきた。
……平安京でも、愛宕神社、北野天満宮、八坂神社は天台宗比叡山、伏見稲荷大社は真言宗東寺の影響下にあり、仏教色がきわめて濃かった。
▽41 神道と仏教のいずれに属するとも言えない日本特有の尊格に牛頭天王がある。スサノヲノミコト、仏教の薬師如来と習合しながら、山城、播磨、尾張の拠点から全国に信仰圏を広げていった。なかでもよく知られたのが八坂神社から広まった祇園信仰である。
 八坂神社は、神仏分離のさい名づけられた新しい社名で、それまでは「観慶寺感神院」「祇園感神院」と呼ばれる宮寺だった。牛頭天王を主神とする祇園天神堂と、牛頭天王の本地仏である薬師如来を主尊として安置する仏堂が並存していた。
 ……疫病を防ぐことを祈願する牛頭天王にたいする信仰は、京都の祇園社、播磨の広峯社、尾張の津島天王社から全国に広がった。「八坂」と名がつく神社や「祇園」「天王」という地名の多さがその隆盛を物語る。
▽45 三輪明神の神宮寺、大御輪寺には十一面観音が若宮の神像とともに祀られていた。この観音こそが、桜井市の聖林寺にある国宝の十一面観音立像。
▽48 泉涌寺 承久の乱の後に天皇の葬儀を引き受けてから皇室の菩提寺に・代々の天皇の葬儀がおこなわれた。
▽50 宗門改と寺請制度。権力体系の一環に組みこまれ、国教ともいうべき地位を占めるようになった。
▽56 神道から仏教色を排除する動きは、水戸藩や岡山藩、会津藩でおこなわれた。幕末になると、水戸藩や薩摩藩で過激な寺院整理がなされ、津和野藩でも独自の寺社・寺院改革がおこなわれた。
▽57 寺請制度を機に、寺院の経営拡大がおこなわれ、それを支えるために民衆からの収奪がはじまる。近隣の民衆を檀家として把握して、檀家が寺の経営を支えるという関係が固定化していった……このような情勢のなかで、儒者をはじめとする思想家たちによる廃仏論が展開されていく。
▽58 水戸光圀による水戸藩の廃仏政策により、領内の寺院の半数が廃された。破却された寺院の僧侶には帰農が奨励された。
▽61 廃仏毀釈は慶応4(1868}年に相次いで出された太政官布告、神祇官事務局達など、いわゆる「神仏分離令」によりはじまる。
▽64 神仏分離令を契機とする廃仏毀釈がどこよりも先んじておこなわれたのは近江国の日吉社。延暦寺とのあいだに神仏習合の度合いが非常に強い関係を築いてきた。それが廃仏毀釈の要因になったとみられる。
▽71 薩摩藩では、島津家菩提寺の福昌寺をはじめ、慶応初年に存在した1000以上の寺院がひとつ残らず廃された。分離令の布告前から実行されていた可能性がある。
▽77 隠岐の島 慶応4年(1868)、尊皇攘夷思想を持った庄屋・神官らからなる正義党が、隠岐の朝廷直轄領化、藩郡代の退去を要求する「隠岐騒動」が勃発。80日間にわたり島民による自治が敷かれた。この騒動がはじまった月に神仏分離令が布告され、隠岐の各地でも廃仏がおこなわれることになる。
 ……現在ある各村の小学校の所在地の多くは寺院の敷地だったという。田畑山林は隠岐4島の共有財産とされ、売却の末、教育事業などにあてられた。廃仏毀釈は結果的に隠岐の振興に大きく貢献したという評価もある〓。
▽90 興福寺 一時は廃寺同然に。五重塔や三重塔が売りに出された……
▽93 桜井市の聖林寺。十一面観音立像は、奈良時代には「大神寺」、神仏分離までは「大御輪寺」と呼ばれていた三輪明神の神宮寺の本尊として祀られていた。(和辻が言及した説は脚色されたと考えられている)大神神社から聖林寺に観音像をあずける旨を記した証文も残されていることから、廃仏毀釈の混乱を回避するのにふさわしい場所に遷座されたと考えられるのだ。
▽104 神仏分離令によって全国の八幡宮は神社へと改組され、神宮寺は廃されて、本地仏や僧形八幡神像は撤去された。仏教的神号である八幡大菩薩も明治政府によって禁止される。
 平安時代以来の「石清水八幡宮護国寺」は、神仏分離により、神号が「八幡大菩薩」から「八幡大神」にあらためられる。これにともない明治2年に社号を「男山八幡宮」と改称、大正7年に「石清水八幡宮」となった。
▽105 北野天満宮
 上賀茂、下賀茂神社にも神宮寺があった。
▽112 鶴岡八幡宮寺……大塔をはじめ、仏教色をもつ堂宇・仏像・仏具・経典類は10日あまりでことごとく破壊される。
 江島神社も明治6年までは「金亀山与願寺」という寺院だった。……神仏分離によって、仏堂は破却され、本尊の弁財天から主祭神を宗像三女神に変更して江島神社になった。
▽118 伊勢にも神宮寺があり、周辺に多くの寺院があった。1670年に発生した山田大火以前の寛文6年には寺院が371、江戸末期の安政2年(1855)でも120もの寺院があった。
……度会県の「県行政文書」によると、明治元年10月以降、宇治・山田各町の組頭や周辺の村の役人から神葬祭への変更願が出されている。仏葬の減少は寺院経営を直撃し、廃寺願いや僧侶の環俗の願いが相次いだ。度会府の宮川と石津川の中間に位置する川内地区には60あまりの寺院があった。……仏葬を禁じられ、檀家を奪われ、廃寺を迫られた。翌年1月までに、宇治と山田あわせて109の寺が廃寺に追い込まれたという。
▽121 明治天皇の伊勢神宮行幸が明治2年3月に計画されると廃仏毀釈は徹底された。
……伊勢神宮の周辺でも安政2年(1855)には120あった寺院が昭和初年には24まで激減したとされる。
 伊勢における極端な廃仏は、神話にもとづく神道国教化政策のたまものであり、この政策の可視化ともいうべき、明治天皇のはじめての行幸が契機になったことは疑いえない。天皇の眼に触れないように、皇祖神のおひざ元から仏の陰は強引に払拭されたのである。〓〓
▽133 住吉神社 住吉神宮寺では東西にたつ多宝塔が威容を誇っていた……現在はない。破壊された。西塔だけは、徳島県阿波市の切幡寺に、明治6年から15年にかけて移築された。国内の二重塔で、初層も二層も方形という形式で現存しているのはこの塔だけ。
▽135 四国の札所。神仏習合の札所は、神社と別当寺が分離され、別当寺が正式な札所とみなされるようになった。
137 土佐は廃仏毀釈が激しかった。札所では16寺中、津照寺、大日寺、善楽寺、種間寺、清瀧寺、岩本寺、延光寺の7カ寺が明治4年までに廃寺の届け出を提出。……雪蹊寺も廃寺同然に。……これら寺院が名称が復活していくのは明治10年以降であり、雪蹊寺は明治12年、種間寺・清瀧寺は明治13年に再興され、岩本寺も明治22年には復興がなされた。
▽139 68番札所はもとは琴弾八幡宮だった。神仏分離で、別当寺の神恵院が札所に。八幡宮は琴弾神社と神恵院に分離され、神恵院は観音寺の境内に移転する。檀家をもっていなかったことから、69番観音寺の境内に本尊を移すことになった。
▽144 神か仏か判然とさせることを求められ、もっとも大きな影響をこうむったのは、山岳信仰をもちに隆盛した「権現」と、「牛頭天王」をまつる祠堂だった。
▽146 神仏分離令につづき、明治5年に太政官は、「修験道廃止令」をはっしる。日本独自の尊閣である「権現」、わけても「蔵王権現」は、神とも仏とも判然としないものとして、分離と破却の矢面に立たされる。
……金峯山寺は廃寺。
▽151 「石鉄蔵王権現」は、神仏分離を経て「石鎚神社」に。蔵王権現そのものだった前神寺と横峰寺は廃され、前神寺の境内は石鎚神社の本社となり、横峰寺は遥拝所とされた。
 前神寺は明治12年、寺号から「神」をはずし「前上寺」とすることでの存続を願い出たところ、県も再興を認めた。明治22年には前神寺の旧称に復した。
 横峰寺も、明治10年に地元の檀家総代あkら再建願いが出され、翌年に認められ、明治13年に大峰寺という名称で復活。41年になって横峰寺の旧称に復帰。
▽153 羽黒山内と門前の手向、奥の院の荒沢寺では109あった堂塔坊舎のうち59宇が壊され、33宇が神社施設に転用され、12宇が仏堂として残された。これは明治6年から翌年のあいだにおこなわれたという。
▽160 立山 江戸時代には芦峅寺の僧侶たちにより、立山権現信仰が全国に広められた。廃仏毀釈によって立山権現は廃され、明治2年に芦峅寺と岩峅寺は廃寺となり、雄山神社に強制的に改組された。
▽164 吉野の金峯山寺は寺院として復活したが、水分神社、金峯神社、吉水神社はいずれも近代以降に神社になった。
▽166 金毘羅大権現は、神仏分離令を経て金刀比羅宮と改称し、神社となった。金毘羅大権現は象頭山金光院松尾寺という真言宗の寺院だったが、祭神は大物主神と定められ、相殿に崇徳天皇を祀る神社になった。……所在地の町名も明治6年に「金比羅町」から「琴平町」に改称された。
……金毘羅大権現を継いだ松尾寺は金刀比羅宮の麓に今もあるが、参拝する人は多いと言えない。
▽169 「権現」は、古代末期から神仏信仰の要であり、日本人の信仰の基盤を支えてきたともいえるものだった。神仏習合は権現信仰によって典型的にあらわされるのであり、神道とも仏教ともいえない領域を生みだし、育んできたことは、列島独自の宗教的営為だったのである。
▽172 「天王洲アイル」このあたりの海で、牛頭天王の面を漁師が引き上げたことが地名の由来。「天王」の名がつく土地は、「天王社」や「祇園社」と呼ばれる祭祀施設があったところがほとんど。祇園社は、牛頭天王がインドの祇園精舎の守護神であったことからこのようによばれ、その代表が京都の祇園社だった。……天王社や祇園社は、神仏分離後に「八坂神社」「八雲神社」「杵築神社」「須賀神社」「津島神社」「素戔嗚神社(須佐之男神社)「天皇神社」などと社号を変更している。
……大山崎町の天王山にも牛頭天王がまつられていた。
▽175 八王子という地名は、牛頭天王と8人の王子をまつる信仰が広がる中で、地名となった。
▽178 祇園祭も祭神はスサノオに変更されてしまったが、牛頭天王を祀る疫病よけの祭りだった。
▽183 大和盆地。八坂神社、津島神社、杵築神社、須佐之男神社がいたるところに点在する。そのすべてが神仏分離以前には牛頭天王を祀っていたところだった。
▽185 牛頭天王が、神仏習合令の矢面に立ち、尊格が隠蔽され……た理由についてひとつの仮説は、「天王」と「天皇」が音を同じくするからというもの。維新政府は、天皇を中心とした国家形成をはかるにあたり、民間に絶大な人気を誇った牛頭天王が目障りだったのではないだろうか。
……神仏分離の処置で、牛頭天王社から天皇神社に改称された神社がいくつもある。
▽187 牛頭天王を信仰していた民衆にとって、「テンノウ」とは「牛頭天王」のことであり、人神である天皇は縁が薄かったはずだ。……「権現」とともに何百年にも及んだ習合信仰は、あの神仏分離令、判然令の布告のもとに、曖昧なものとして命運を断ち切られたのである。
▽188 後醍醐天皇をまつる「吉野宮」(吉野神宮)は明治25年、神武天皇とその皇后を祀る「橿原神宮」は明治23年、天智天皇をまつる「近江神宮」は昭和15年、桓武天皇と孝明天皇を祀る平安神宮は明治28年。明治天皇と昭憲皇太后が崩御すると、大正9年に「明治神宮」を創建。(いずれも新しい。ありがたみがない〓)
 近代以前には天皇を神社の祭神にまつることはほとんどなかった。
 ……民衆の「天皇信仰」が「牛頭天王」信仰に比べるときわめて歴史が浅いことが分かるだろう。
▽190 近世になり、集住が密になると、感染症をおそれた民衆は、京都祇園や尾張の津島から牛頭天王を招いて、祀ることにしたのだろう。
▽195 廃仏毀釈が激烈だった地域もあれば、それほどではなかった地域もある。……幕末維新以前におこなわれた水戸、維新の直前から発生していた薩摩、その後の日吉・隠岐・苗木・松本・佐渡・土佐・富山・伊勢などでの運動は過激だたったが……
「若狭神宮寺」(小浜市)のように、神仏習合の様相を残している寺院もある。……
▽196 神仏分離令の本質が神と仏を明確にする「判然令」であり、明確にしようがない「権現」と「牛頭天王」がその矢面に立った。権現を祀る山岳信仰は大きな打撃をこうむり、牛頭天王もスサノオにあらためられた。
▽197 伊勢神宮の神宮寺だった菩提山神宮寺の伽藍は、五十鈴川近くの山中に「菩提山神宮寺跡」と記した石碑が立つばかり。……本尊だった仏像が愛知県碧南市音羽町の海徳寺にある。
▽199 「よみうりランド」に伊勢から移された木彫り像。
▽200 京都男山の八幡宮寺(石清水八幡宮)では本殿の本尊だった八幡大菩薩は、山麓の善法律寺に移されている。
▽203 白山の山頂や登山道におかれた仏像……破壊をおそれた18カ村の総代の出願により、山頂から下山させられた仏像は牛首の林西寺と尾添村にあずけられることになり、そのうち8体は林西寺境内の「白山本地堂」に安置されている。
▽207 維新の時点で仏教を制したかのように見えた神道側も、明治39(1906)の終わりごろからはじまった1町村1神社を標準とせよという神社合祀の嵐に見舞われる。
▽212 廃仏行為の多くは国学の影響が濃い官僚たちに先導された。民衆の一部は統治機関でもあった仏教への反発や神社への崇敬の念などから協力した場合が多かったようである。
……廃寺は実行されたが、民間信仰は守られたかのように見える。しかし、秩序を乱す「淫祠」とみなされた異端や末端、神とも仏とも判然としないものは排除の対象になり、小祠の統合・廃絶も起こった。
……仏教と仏寺への影響は甚大だったが、神仏分離から時間をおいて、じょじょにではあるが復活していった。一方で、神社についても、明治末期から起こった合祀、整理政策により、多数の神社が合併や遷座を余儀なくされることになる。……神仏分離と神社合祀は近代日本の国家体制が強制したものであり……

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次