■講談社選書メチエ20210620
衣服の目的は寒さを防ぐためではないという。動きやすさを求めるなら裸が一番だからだ。そもそもの目的は入れ墨と同様「飾る」ことだった。
18世紀のロココの時代までは衣装の目的は装飾にあった。
軍服も当初は装飾目的だったが、集団的行動の利便が目的であり、戦闘にふさわしい衣服だという観念が生まれた。
軍隊は、武器の使用によって鉄鋼業を刺激し、機械的な組織によって工場生産のモデルとなった。さらに、画一的な産業製品の巨大な市場となり、技術革新を促す巨大な原動力となった。
ルソーは未開人(本来の人間)の。「自然な身体」を理想とした。それはフィクションだったが、結果的に、産業的な身体や近代的な軍隊の形成にあたって、「体育」をうみだすもとになった。
近代体育の基礎をつくったとされるデンマークとスウェーデン、ドイツの3人はナポレオン戦争を侵略される側で経験した。
ナポレオン軍は、祖国愛に燃える国民皆兵の人民軍だった。この刺激が、ヨーロッパ各地にナショナリズムの観念を強烈に植えつけ、その下において体育が成立した。自由と個性をうたったルソーの思想が、逆に身体の均質化、精神の均質化に決定的な力を及ぼしてしまった。
江戸時代の日本人は、同じ側の手足を同時に動かす「ナンバ」という歩き方をしていた。剣道や相撲の押しはナンバだった。
そのリズムは「行進」には合わない。
西南の役で農民兵が薩摩の士族に熊本籠城戦で敗北したことから、「ナンバ」の矯正がはじまり、「運動会」でリズムをあわせて行進するなど、身体の近代化が一気に進んだ。
「裸の身体」「自然のままの身体」は決して「自然」ではなく、あとから見出された理念だ。「身体の零度」はけっして太古にさかのぼったものではなく、産業革命以後につくられたものなのだ。
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▽131 日本人は整列行進ができなかった。武智鉄二
西南の役における農民兵の熊本籠城戦における決定的敗北。「ナンバ」の動きからは、戦闘に必要な機敏な動作が生まれてくるはずはなかった。
……剣道や相撲の押しはナンバ。力をこめた動作ではナンバの体勢になる。
▽139 19世紀末、日本人の身体は大きく変容したことを武智鉄二はとりあげた。
▽150 日本と韓国は身体所作は大きく離れている。韓国の舞踊は、日本の舞踊よりはるかにヨーロッパの舞踊に近い=遊牧民。日本の民族舞踊のほとんどすべてがナンバにすり足。飛び跳ねることは忌避された。
……ねぶたは、弘前はナンバにすり足だが、青森市のねぶたはハネトと称する群衆がさかんに飛び跳ねる。……おそらく韓国の舞踊の影響だが、興味深いのはねぶたのリズムは(遊牧民的な)三拍子ではなく二拍子ということ。騎馬民族ではない、農耕民の感覚。
▽159 宮本常一 村が変わり、村の笑いが変わってきたのは、遠方婚が盛んになってきてからだとのべ、このような変化は師範学校出身の先生が多くなるころからはなはだしくなってきたとつづけている。「昔の学校の先生はたいてい郷里出身の人であって、村塾以来の気風をのこしていた」が他所から来た先生たちは、村の生活に何かそぐわないものがあったという。……先生たちは、村の生活を真剣に考えてくれる場合が少なかった。むしろ一概に旧弊として突き崩すようになった。これが家庭教育者としての母親の権威を失わしめたことは大きかった。
……「運動会」でリズムをあわせて行進。身体の近代化は草の根にまで及んでいた。……その先生たちが師範学校出であったということが重要だったのだと思える。
運動会のはじめは、1874年、海軍兵学寮での競闘遊戯会とされるが、一般的な意味での運動会のはじめは、1883年、東京大学でおこなわれた陸上運動会だろう。以後、運動会が大いに流行することになる。
▽164 三四郎は「計測される」ことを嫌った。
▽175 ヨーロッパの職人。石工の場合、仕事日には通例8回食事のために仕事を中断した。ほかの職人たちも少なくとも4回は食事の休みをとった。
都市労働者がこのような状態とすれば、農民の身体は推して知るべしである。……日本だけでなくヨーロッパにおいてもまた、身体は近代化される必要があったのである。
▽185 農村に不潔はない。大地のもとでは腐敗は浄化にほかならないからだ。都市が形成されるに至って不潔が登場する。パリ宮廷の悪臭は有名だが、産業革命はそれを上まわる不潔さ、新しい不潔さをもたらした。
▽195 軍隊は、武器の使用によって鉄鋼業を刺激し、機械的な組織によって工場生産のモデルとなった。さらに、画一的な産業製品の巨大な市場となった。産業界の技術革新を促す巨大な原動力となった。
▽201 ホイジンガ「男子の服装が平均化していった……過程……のなかにはフランス革命以来の精神的、社会的全変革が表現されている」と強調。19世紀は遊びを失った。
「ヨーロッパは労働服を着こんだのだ」
▽203 軍隊の制服は、絶対君主の威信と権力を誇示するために採用された。君主の装飾品だった。だが、軍服が採用されるとほとんど同時に、その目的は集団的行動の利便のためであるというように差し替えられた。……軍隊の制服は、戦闘にふさわしい衣服であるという観念がこうして生まれた。この延長線上に、仕事にふさわしい衣服としての仕事着という着想が生ずる。
▽204 衣装の目的は装飾にあった。18世紀、ロココの時代までは自明だった。ところが、装飾のためにつくられた軍隊の制服がこの目的を隠蔽した。そして、着やすく働きやすいという偽装された目的が、それにとって替わった。
……衣装は身体を規制し、思想を規制する。ヨーロッパの「労働服」を採用することは、それにふさわしい身体を採用することでもあった。これを産業的な身体といってもいいだろう。明治政府が採用したのはこの産業的な身体だった。
▽208 手工業生産から工場生産に移る段階で人間の身体所作は大きく変化した。農耕民や遊牧民の身体所作にかわって、産業的な身体所作、産業的身体そのものが成立するようになってきた。
▽210 18世紀以前においては、王や貴族はまず見られる身体としてあった。19世紀になって見られることをやめた。……絶対君主の軍隊は典型的に見せるための軍隊だった。それを息子のフリードリッヒ2世は実用的な軍隊に変えた。すばやい整列と迅速な進軍によってしばしば機械に比較され、7年戦争における勝利はヨーロッパを感嘆させた。しかし決定的に新しくなったのはナポレオンにおいてであった。
▽211 バレエは18世紀から19世紀にかけて、踊られるものから見られるものに変わっている。その以前は、王侯貴族が自身の姿を見物人に誇示するためにバレエを踊っていた。「見られるもの」への変容によって、見るのは男であり、見られるのは女であるという図式が形成された。
男が踊らなくなったのは産業革命のせいだ……バレエはいつのまにか女の芸術になってしまった。
▽213 男性舞踊家が職業人で活躍できたのはロシアとデンマークだけ。産業革命の影響がロシアには響かず、広大な農業国として存続していた。田舎では、フォークダンスが踊られるときの主役は男性だった。……ハンガリーなどの国では、フォークダンスが軍隊への志願者を募る手段として使われた。ムラの広場でフォークダンスをして、踊りの上手な若者はその敏捷さを買われ入隊が決定した。
▽217 ルイ14世がバレエを好んだのは、軟弱だったからではなく、むしろ逆である。……貴族はもとより軍人においても舞踊は重要な身体訓練のひとつであった。
……フランス革命とナポレオン戦争は将兵から舞踊を奪った。
バレエそのものもまた、19世紀を通じて、男性舞踊手の不在によって衰退する。それに変わって登場するのが、体操であり、スポーツだった。
▽220 ルソーは未開人(本来あるがままの人間)を理想として打ち出した。ルソーの理想とした自然な身体など存在しない。それはもっとも人工的な、不自然な身体。おそらくこれが、理念として登場した身体の零度のはじめての例。ルソーが、結果的に純粋体育の理念の提唱にほかならなかった
……体育はダンスからその身を引き剥がして成長する。ダンスという遊戯から生まれた体育という真面目が、遊戯そのものをのみこんでしまう。
ルソーの思想が、少なくとも体育においては、フランス以上にドイツに受け入れられた。
▽225 産業的な身体の形成、近代的な軍隊の形成にあたって、ルソーの思想は大きな力を発揮した。
▽226 当時のヨーロッパの状況では、国粋主義者とは革命家だった。支配者は国民よりも他の国の支配者と親しかったからだ。
▽228 体育、体操はドイツではじまったといっていいほど。学校体育ということでは、日本に先立つことわずか2,30年に過ぎない。いかに新しい思想であり、実践であったか分かる。しかもこの学科は、愛国主義、軍国主義と結びついていた。
……デンマークのナハテガル、スウェーデンのリング、ドイツのヤーン、この3人が近代体育の基礎をつくったということになっている。いずれも、フランス革命とナポレオン戦争を侵略される側にあって同じように経験している。
ナポレオン軍ははじめは圧政からの解放軍として、次には占領軍として、住民のナショナリズムを刺激した。しかもこの軍隊は、祖国愛と理想に燃える国民皆兵の人民軍だった。この刺激が、ヨーロッパのいたるところに、国および国民という観念を強烈に植えつけた。それ以前は、国と国のちがいよりも、支配するものとされるものの差の方が大きかったのである。体育が成立するのはこのナショナリズムにおいてである。
▽231 自由と個性をうたいあげたルソーの思想が、逆に身体の均質化、精神の均質化に決定的な力を及ぼした。痛烈な皮肉。
▽234 1890年の段階で、フランスの文部大臣は、リセの寄宿舎への通達で「生徒たちには、足湯は週2回、全身浴は月2回おこなわせることが望ましい」と要望している。当時のフランス人はほとんど入浴していなかったのである。
▽246 裸の身体、自然のままの身体とは、ほんとうは後から見出された理念でしかない。その裸の身体が座標の原点すなわち身体の零度とみなされ、その原点を中心に、身体という広大な未知の広がりが姿をあらわした。
▽257 レオタード 19世紀フランスの空中ブランコ乗り、レオタールに由来。「裸で何も塗らず、形を変えず、飾らない人間の身体」すなわち身体の零度を、これほど具現する衣装は他にない。
……舞台衣装におけるれおたーどの勝利は、身体の零度が舞台芸術の基底に据えられたことを象徴している。……はじめ体育や体操とともに見出された身体の零度が、じつは20世紀舞踊の出発点となり、座標軸になった。
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