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映画「ラサへの歩き方 祈りの2400キロ」

■20210629
 四川省に近いチベット東部の村で、ラサへの巡礼を夢見ていた老人が死んだ。その弟が「巡礼に行かせてあげたかった。俺も死ぬ前にラサを参りたい」と言う。村人10人あまりで1200キロ離れたラサとさらに1200キロ西の聖山カイラスに出かけることになった。
 ひざまずき、顔を地面につけ立ち上がり……と「五体投地」で歩くから1日10キロしか進まない。先頭を歩く老人はマニ車を回しつづける。
 夕方はトラクターに積んだテントを立て、バター茶とツァンパを食べて、火の回りでお祈りをする。
 途中で若い奥さんが出産する。かと思えば車に追突されてトラクターが壊れ、ラサへの最後の100キロは荷車を押して歩くことに。
 僕が訪ねた1987年は幹線道路も地道だったけど、今は国道はほぼ舗装されて大型トラックが往来している。ヒッチハイクのため何日間も待ちぼうけていたのがうそのようだ。巡礼の一行はスマホももっている。チベットでもスマホが通じるのか。
 でも、深い空の色と、雪と荒涼とした大地は今も変わらない。
 35年前にはじめて五体投地を見たときは「異民族」を感じた。
 でも、食べて、祈って、お茶をふるまわれて、寝る前に祈って……という姿を映画で見ると親近感を感じる。大変さのレベルはちがうけれど、お遍路と似ているのだ。かたわらに祈りがある。自分の願いのためだけに祈るのではない。祈ることで何かを聴こう、何かに気づこうとしている。
 ラサに着いて資金が尽き、2カ月間、男たちは土木工事で働く。そんな工事によってラサは近代的な都市に変貌しているが、ポタラ宮やジョカン寺などは昔の姿のままだ。なによりも「祈り」が生きている。
 さらに1200キロ離れた聖山カイラスへ。僕も近くまでは行ったけど、山を拝むことができなかった。
 その麓で、最初に巡礼を望んだ老人が死ぬ。
 「聖山を見て死ねてよかったなあ」とみなが言い、老人のもっていたマニ車をまわし、ハゲタカが旋回する岩山に遺体を運び上げ、僧侶が読経する。
 鳥葬の岩山はラサ郊外で見たけれど、こうやって祈りの場面と組み合わせると「奇習」とは思えない。
 35年前は異文化どころか異星人のように思えたけど、祈りを通して見ると、チベットの人々は僕らと同じ仏教徒なのだ。

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