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南方熊楠−森羅万象を見つめた少年<飯倉照平>

■南方熊楠−森羅万象を見つめた少年<飯倉照平>岩波ジュニア新書 20150413
▽6 身分の高くない人たちと知り合いになるのが、熊楠の他人とのつきあいかたの特長でした。
▽7 日清戦争までの日本。明治の初年には中国から日本に来た文人たちは、たいへんな歓迎をうけました。熊楠の船上での応対にも、中国人を敬愛する気持ちが見てとれます。(それが急転してしまう。辺境の自覚があるから発展してきたのに…という内田樹の論)
▽19 田辺市にある南方家の書庫に…
▽29 父の弥右衛門は、三男の常楠とともに、造り酒屋の南方酒造(のちに「世界一統」に改名)をつくり、現在にいたる。
▽47 熊楠の娘。カエルのエサ。「エサは生きたハエで、父の命令で毎日羽を片方とったハエを牛乳瓶いっぱいとっていた」
▽80 農科大学も1年あまりで退学し…最終学歴は、和歌山中学卒業というのが口癖。
当時、私費で海外留学するには年額1000円必要とされた。現在の貨幣価値は5000倍か1万倍。
父親の存命中は仕送り。没後は遺産を分割する形で常楠から送金がつづけられた。
▽92 熊楠の二歩の政治に対する激しい怒りが、自由民権運動への弾圧を逃れてアメリカへ亡命してきた人たちとの交友に由来するらしい。
…1887年から88年にかけて、オークランドのグループが「新日本」という新聞を10日おきに10数号だしている。アメリカで出された民権派の新聞と同様に、日本政府によって発売頒布禁止の命令が出された。(若々しい。メディアが生き生きしていた時代)
▽96「大日本」は、民権派の新聞。西洋文化に心酔する留学生に日本国人としての自覚を促す国権意識の強いもの。(自由民権=国権、という意外なつながり〓何かの本で)
▽98 気に入らない相手に対する攻撃の執拗さは、熊楠の生涯を通じての性癖。「万一かれこれいうときは、南瓜の肉を去り、そのなかへ小便をたれこみ、平気でかつぎゆき投げこみ、また杖で室内の鏡を破り窓を壊す。また夜中に家の入口へヘドを吐きにゆく故、一同ますますおそれて服従す」
▽101 同性愛。羽山繁太郎と弟の蕃次郎は、熊楠の同性愛の対象。明治時代には旧制中学から大学にかけての男色が「硬派」の学生たちによく見られた。森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」に書かれているとおり。(折口信夫)
▽113 あの時代にフロリダからキューバまででかけている。
▽118 中国人の洗濯屋から「日本にはサンバイサンという神があって、毎晩、小さな徳利に入れた酒を1本供えて願いをかけ、願いがかなうとまた酒を供える」と聴いた。中国地方や四国などにサンバイサンと呼ばれる田の神を祭る習慣がある。
…サーカスで働いていた日本人4人とキューバで出会う。ハイチ、ジャマイカ、プエルトリコからヴェネズエラまで。その前には天津からインドのカルカッタにも。(冒険家が多かった)
▽129 「素人学問」の花開くイギリスへ。
▽140 パレスタインの耶蘇廟およびメッカのマホメット廟にまいり、ペルシアに入り、舟にてインドに渡り、カシュミール辺にて大乗のことを探り、チベットに往くつもりに候。…回教国にては回々教僧隣、インドにては梵教徒となるつもりに候。
▽145 大英博物館で様々な本を読んだ。昼過ぎから夜の7時か8時まで閲覧室にいた。作業の大半は、さまざまな分野の書物からの抜き書きでした。子どものころから書き写すことで学問を身につけていく。
▽162 同じ歳の孫文と交流。最初に面会してから3カ月あまりのうちに、日記に記されただけでも2人は20回以上も会って話をかわしている。(〓魯迅と藤野先生のかかわりを思い出す)
…孫文が病死する4カ月前の1924年11月、神戸で「大アジア主義」の演説をした。帝国主義列強の「覇道」の手先となるか、被圧迫民族の「王道」の中心となるかの選択を迫ったもの。その孫文の期待を裏切って、日本は中国に侵略する道をとった。
…孫文はロンドンを去るにあたって、自分の訳した「紅十字会救傷第一法」「原君原臣」の2冊を熊楠におくっている。ともに南方熊楠記念館に陳列されている。
▽ 暴力事件で大英博物館を追放に。
▽171 英国で「支那人」と言われて怒る。相手が子供でも傘を振りまわしてなぐりかえしている…「支那人」と呼ばれたことを怒ったのか、それとも東洋人として腹を立てたのか、文面でははっきりしない。
…熊楠といれかわりでイギリスに留学した漱石は「日本人を観て支那人と言われると嫌がるは如何、支那人は日本人よりもはるかに名誉ある国民なりただ不幸にして目下不振のありさまに沈淪せるなり」と書きつけている。
▽176 あこがれの女性。39歳で結婚するまでは女性をめぐる噂話はないものとされていたが、「ロンドン私記」に意中の人が物語の形で登場している。
▽184 生計を立てる手段も身につけずに34歳で帰国。親族たちから歓迎されなかった。これ以後、家人の援助を受けて、勝浦や那智を根拠地として熊野の山野に分け入り、植物採集に明け暮れる数年をすごす。
1904年には和歌山中学の同級生が石を開業していた田辺に定住する。さらに2年後に結婚する。
1911年から柳田国男と文通をはじめ、日本の雑誌にも執筆するようになる。
▽186 1906年に神社合祀の政策が決定され、1町村に1つの神社を原則に。和歌山県は三重県に次いでこの政策が推進され、1911年までの5年間に3721あった大小の神社が600余りにへらされている(〓市町村合併)
熊楠は、2,3年が経過して、田辺湾に面した磯間浦にある神祠や高山寺に近い糸田の猿神社といった身近な場所で、住民の不満を無視して取り壊しを強行しているのを知って危機感をいだいた。1909年に「牟呂新報」に執筆し、それ以後、合祀に反対する意見を発表する。
酒の勢いで暴れて警察に拘留17日間。…
…合祀政策は1918年に中止されるが、その間に熊楠の父祖の地である入野の大山神社など、多くの神社がつぶされている。この反対運動の延長線上に、田辺湾の神島が1936年に国の史跡名勝天然記念物に指定されるまでの道筋があるといえる。
▽ 大逆事件の成石平四郎とは手紙を交わしていたが、神社合祀への反対が、反体制的な動きとして受けとめられることを懸念していた。
▽191 1911年から17年にわたる柳田国男との手紙の往復。
1916年、弟の援助によって田辺の中屋敷町に400坪の土地と建物を購入して終生の住まいとした。
▽193 1942年、開戦の21日後に亡くなった。
1900年に帰国してから40余年間に、ただ一度の上京をのぞいて、紀州を出ることがほとんどなかったという経歴も、伝説の壁をますます高くした。
▽197 1965年、白浜町の番所崎の山上に南方熊楠記念館が完成。〓
鶴見和子は「南方熊楠−−地球志向の比較学」を書いた。神社合祀反対運動をエコロジーの立場に立つ公害反対運動の先駆として評価した。
1987年、田辺市に南方熊楠保存顕彰会が設立。

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