■世界遺産 神々の眠る「熊野」を歩く <植島啓司> 集英社新書 20150409
ネタ探しの読書。
紀伊路と伊勢路、吉野・大峯からの山越えルートという3つの道筋。
はじめから折口信夫が出てきて、オッと思った。能登とつながりが見えてくるかな。
明治以降の宗教弾圧を生き抜いた千年来の神々。
磐座が神々の痕跡。西宮のこと。グアテマラの女性のことを思い出す。霊を埋めないとおさまらない。
大斎原。
湯ノ峰温泉。1946年の地震で湯が途絶えた。
さまざまな宗教を結ぶ道として評価。エキュメニカル ニカラグアの平和行進
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▽4 古代に列島に分布していた神々はもっと多様だったはずなのに、そのパンテオンから外された神々はいつのまにか正統ではないものとして排除されていった。しかし、実際にはそれらの神々が拠って立つ基盤なくしては、日本の固有信仰は成立することもなかった。折口のいう「産霊の神」とはそれらを指しており、それらの神々も、明治以来の幾度に渡る宗教弾圧を経て、いまや風前の灯といった状況である。ところが、熊野を中心とする紀伊半島にはいまもそうした神々がかすかに息づいており、それゆえに強く惹かれるのでは。
▽6 聖地と呼ばれる場所をマップにたとえると、神々はそれらを結ぶライン上を大きく移動している。その際のメルクマール(目標)となるのが特殊な磐座。
▽13 100年前の熊野と現在の熊野を比較した写真集「今昔・熊野の百景」〓。100年後もその光景にほとんど変化がない。
▽14 熊野を襲ったもっとも大きな変化といえば、1889年の大洪水。大斎原に鎮座していた熊野坐神社が被害をこうむり、1890年に現在の場所に移築して、翌年に現在の熊野本宮大社が正式に遷座された。
…熊野詣の人びとは、大斎原にたどり着いたその足で音無川を歩いて渡り、夜になって改めて参拝するというのが正式な作法だった。川を渡ることが禊ぎを意味していた。
▽15 湯ノ峰温泉も、1903年の大火でほとんどが焼失してしまい…1946年の大地震などにより、しばしば温泉がとまって湯煙が消えた〓。
▽17 家津御子神 速玉神 牟須美神が熊野の主神。これらは、古事記・日本書紀とは別の系列の神々。高天の原や出雲とも違っている。
…家津御子神はのちに素戔嗚尊となり、さらに阿弥陀如来となる。
…熊野には仏教伝来よりずっと前から宗教者が集っていた。院政期にはいると、上皇や貴族の熊野詣が盛んになり、熊野三検校のもと、強力な武力を持つ別当らが率いる組織に。それゆえ、多くの荘園が寄進された。
…その後は、全国各地から熊野詣でをする人びとによって支えられるようになる。「蟻の熊野詣」
▽21 世界遺産は、熊野三山以外にも、吉野・大峰、高野山などが含まれ、伊勢神宮と熊野三山を結ぶ伊勢路の存在も。異なる信仰が道によってそれぞれ意味深く結ばれている点を評価されて世界遺産になった。
▽26 阿蘇は早くから火山信仰。カルデラの外縁には古坊中が栄えるようになった。37坊中51庵がならぶ一大霊場だった。
…悪名高い明治の神仏分離令にいたるまで、神仏はともに親しく拝まれてきた。それを受け入れる柔軟な知性こそが、この国の宗教をかたちづくってきたのではないか。
…神仏分離令以後の150年において、行政による信仰への介入、つまり、神社合祀(1906)や神道指令(1945)など、日本の宗教の本質部分を解体しようとする試みによって、次々と精神的拠りどころを奪われてきた。自然を愛し、神も仏も同じように信じ、つねに祖先と共にあるようなおおらかな宗教風土はいまや絶滅寸前であるともいえよう。
世界遺産に登録されたのは、日本の宗教を見直す機会が与えられたのだと理解してよいのでは。
▽29 2008年のシンポジウムで、熊野本宮大社の九鬼家隆宮司も、金剛山寺の田中利典宗務総長も「神と仏はどう違うのか」という問いに対して、即座に「神と仏は同じものではないか」と答えている。(朝日カルチャー)
▽33 熊野市の海岸沿いの、花の窟と獅子岩。沖縄の御嶽とよく似た感覚。ご神体は磐座。この花の窟をめぐる「日本書紀」の記述こそが、熊野が記紀にその姿を現した最初だった。
▽37 日本文化における「籠もり」の意味。incubation(鳥が卵を抱いて孵化すること)。
▽39 大斎原ですごす。地元では「いくら雨が降っても大斎原だけには降らない」「あそこに入ると携帯が使えなくなる(=空港でさえも自由でなくなった時代、自由な空間)〓」
▽40 熊野市の大丹倉(おおにぐら)、丹倉(あかぐら)神社。
熊野速玉大社(新宮)の南方1キロにある神倉神社の「ごとびき岩」も特別の力をもった磐座。ヒキガエルに似ているといわれるが、どう見てもそのかたちから連想されるものは「男根」。(性におおらかな熊野〓)
▽46 自分がマイナスにならないと神が入りこむ余地はない。…話をしない、お願いをしない、触る、温度を感じる、気圧を感じる、湿度を感じる、聴く、匂いを感じる、風を感じる、感覚を開く、目の前のものだけを見る。そうしないと何が変化したのか感じとることはできないだろう。
野本寛一の「熊野海民俗考」〓。
▽49 神内神社。パワースポット。ガイヤシンフォニーにも。近くの阪本さんという氏子総代。神内神社からすぐ近くに磐座があって、その形は天の岩屋みたいに石が二つに割れて女陰のようになっている。そこは地図に「古神殿」と記されている(54に地図)
▽55 何かを媒介にしてはならない。熊野をじかに見ずしては、永遠に熊野を語ることはできない。
▽57 熊野の核心部分は、「死者の国」ではなく、その正反対の「万物を生み出す力」なのではないだろうか。熊野にいるだけで、巨大な子宮の内部に包まれているような印象を受ける。石は子宮の比喩であり、万物の始まりを象徴している。
(磐座とマヤ人)
▽65 「大峰山寺の金剛蔵王権現像の須弥壇下にあるという「龍穴」と呼ばれる井戸を決してのぞいてはならないという掟。山伏たちは、いつも井戸をのぞいた者は必ず死ぬか目亜つぶれると、真顔で言うのだった」
▽67 紀伊路は、田辺から海沿いを南下する大辺路と、山中に入り本宮に入る中辺路にわかれる。伊勢路は、伊勢から熊野川を渡って新宮に至る。吉野大峯奥駆修行で有名な3つめのルートは、修験の修行のための道。さらに、高野山から本宮に向かう小辺路や、那智から本宮に至る雲鳥越。
…「紀伊山地の霊場と参詣道」は、熊野三山(神道)、高野山(真言密教)、吉野・大峯(修験道)という3つの異なる宗教の霊場を結んでいるという点で世界遺産登録された。
▽69 中辺路の滝尻王子。社の背後の道をのぼると、一気に野生の気配に。大きな岩が見えてくる。そこからの道は木の根道。鞍馬でもおなじみだが、岩盤が支配しているため、木の根が地表に浮いてしまっている。(岩の世界を感じられる)
中辺路がもっとも有名で、平安時代の上皇たちもたどり、中世以降は公式ルートとしても定着。しかしそれ以前は伊勢神宮からの伊勢路(130キロ)を使っていた。
…いずれの道筋でも、最後は音無川を徒歩でわたる。最後の禊場。社殿でお参りし、さらに、夜になって改めて参拝するのが作法であった。
▽74 一般民衆による熊野詣でが盛んになるのは室町末期。「蟻の熊野詣」。一六世紀になると衰退しはじめ、お伊勢参りがそれにとってかわる。伊勢の地の利。当時の伊勢は神仏混淆の社であらゆる人びとを受け入れた。伊勢が熊野をまねて御師を使って全国から参拝者を集めたことも影響しているかもしれない。
▽76 天皇が本宮大社を訪れたことは一度もないのに、上皇はなぜやってきたのか。この地はつねに権力中枢と対抗勢力的にかかわってきた。熊野御幸というと花山院。彼は即位式の時に、奉仕する女官・馬内侍を玉座の中へ引き入れて犯したといわれている。17歳で即位して19歳で出家し、41歳で亡くなった。19歳のときにひそかに宮中を抜け出し、徒歩で山科の元慶寺にいき、あっさり天皇の地位を捨てて剃髪してしまった。
澁澤龍彦は花山院について「その狂気、その奇行、その好色乱倫、その風流……」
実の叔母との間で関係を結び、彼女に飽きると弟に譲る。御所の侍女とその娘にも手をつけ,同時に懐妊させる。
彼は真摯な仏道修行と同時にとんでもない淫乱な行為をなんの矛盾もなく行ってきたこと。
▽81 「小栗判官」が湯の峰温泉のつぼ湯(川床に今もある)で蘇生したというエピソード。
小栗判官は72人の妻を娶るも満足せず、…深泥池の大蛇の化身と契りを結んだため…(小栗の人間離れした精力の強さ)…
この物語が普及した背景には「浄不浄をきらわず」という熊野信仰の神髄が表されているからだろう。(絶倫の山)
▽87 南北朝以降、熊野信仰を全国に伝えたのは神道でも修験道でもなく、一遍がはじめた時宗という仏教の一派だった。そこにも熊野特有のミスティシズムがかかわっている。一遍の熊野における覚醒体験というか夢のお告げがなければ、時宗の融通念仏のその後の爆発的な流行もなかっただろう。
…一遍は36歳のときに3人の女性を連れて伊予を出る。蓮如は5人の妻をもち27人の子をもうけた。高層と呼ばれる人ほど異常な精力をもてあました。
…一遍は熊野本宮で託宣を得る。「…衆生はあなたの手によって往生するのではなく、すでに阿弥陀仏によってそうなる定めになっている。信不信をえらばず、浄不浄をきらわず、その札を配るべし」と。
それ以外、「信不信をえらばず、浄不浄をきらわず」は時宗の合い言葉になった。時宗はその教えの素直さと「踊り念仏」という人と神仏との間の境をも乗り越えようとする
姿勢によって一世を風靡することになった。大斎原には一遍を記念する「南無阿弥陀仏」と彫られた石碑が残されている。
▽90 熊野は「託宣」の場。「籠もり」の場。人びとを眠りに誘う場こそがかつては信仰と分かちがたく結びついていた。(〓眠りと信仰、癒やし=今とのつながり=眠れる場所)
▽100 熊野市の彦田神社。「伊勢湾台風の際、杉の大樹の根元の穴から弥生中期の土器が出土。その穴は白石が敷き詰められていて、水稲栽培の伝来した当初から神社が祭られていたことがうかがわれる」(熊野市史)
▽104 熊野には黒潮の関係で多くの人びとが漂着している。吉備真備や、徐福伝説も残されている。神武天皇が上陸を果たしたという熊野市の楯ケ崎、串本町の海金剛。
▽107 石で囲んだ祀り場にしめ縄を張って結界をつくり、そこに神を降ろすことが、神社の始まり。彦田神社にはそうした石の囲み跡が、神社の両側に二つ遺されている。
近くには神内(こうのうち)神社がある。神社全体が巨大な岩の塊からなっている〓。
▽118 補陀落渡海 小さな舟に押し込められて、観音浄土としての補陀落へ向かう。那智勝浦だけではなく、室戸岬や足摺岬、有明海でもおこなわれていたが、なかでも熊野の海岸は最大の拠点だった〓。井上靖の「補陀落渡海記」〓。古くからの「常世」信仰の一つのバリエーション。
▽122 神仏習合の中心的な地域であり、伊勢や高野山とちがって、老若男女を問わず、「信不信をえらばず、浄不浄をきらわず」多くの人びとを受け入れてきた。熊野と高野山は対照的な発展を示してきた。
14世紀。高野山側は熊野のことを、「外国から来臨した神を祀っており、境内には男女が入り乱れている」という。
…当時は不治の病とされたハンセン病患者をもためらわずに受け入れた熊野の懐の深さ。(遍路道も。だが外国人への差別が問題に〓)
▽126 熊野・吉野・大峯の共通点は、反権力の源泉とされてきたこと。神武天皇、壬申の乱の大海人皇子、後醍醐天皇。保元の乱が熊野本宮の託宣によるものだった。
なぜ火山がひとつもないのに、あれほどの温泉があるのか〓。…熊野と似ているのは屋久島。
伊勢や出雲では祭神がはっきりしているのに、なぜ熊野だけあいまいなのか。熊野で祀られている神々の出自はいったいどこに求められるのか。〓
▽132 かつて伊勢と熊野は密接な関係にあったが、三山検校に園城寺の増誉が任命されて依頼、「伊勢と熊野を同体とする古代信仰を解体させ、熊野は仏教化した独自の教団を組織するようになっていった」「この転換期を象徴するのが、伊勢路から紀伊路への転換で、公的な熊野詣はすべて紀伊路を通るようになった」
五来重の「熊野詣」〓 伊勢神宮は私幣を禁じ仏事を忌むのに対して、熊野は民をきらわず僧徒が仏教をもって祀る…、両社ははるかに異質な神社である。…この事件によって、伊勢と熊野は明確に区別されるようになり、次第に伊勢の人気が高まっていくとともに、熊野参詣の道も伊勢路から紀伊路へと変わっていった。
▽139 熊野本宮大社の主神「家津御子神」。出雲の熊野大社の「櫛御気野命」と同義とされており、食を司る神と解釈されている。伊勢の内宮は天照大神、外宮の祭神は豊受大神。豊受はその土地の地主神で、食をつかさどる。家津にしても豊受にしても、主神を底辺から支える古層の産土神といえるのではないか。
▽154 南紀を代表する「橋杭岩」は、マグマが噴出した火成岩脈。古座川峡も火成岩脈に沿っていて、その近くでは勝浦温泉や湯川温泉が湧出している〓。
▽156 高富の矢倉神社、高倉神社。…那智勝浦町役場の芝先隆さんのはからいで、矢倉神社を代々お世話しているという矢倉甚兵衛さんに会う。
…三重・和歌山では明治の神社合祀の嵐によって、多くの神社が取り壊されており、いまやそれ以前のかたちを求めるのはむずかしい。
▽159 潮御崎神社 海辺に降りると洞窟があり、古くから信仰の対象。「静の窟(しずのいわや)」〓。
▽165 「街道をゆく」の「熊野・古座街道」〓 「熊野では、浜からわずかに山に入っただけで、海の匂いが絶えてしまう。…」 古座川の「一枚岩」は高さ100メートル、幅500メートル。「嶽ノ森山」にのぼり、峯という集落まで歩く。峯集落にも矢倉神社がある。串本でさがしていた矢倉神社は実はここのことだった。そもそも矢倉神社は、古座川町、すさみ町、串本町に広く祀られている。(氷川神社のようなもの)
▽172 峯集落は、信仰色の強い場所だったが、今は全戸数4戸。しかも2戸しか居住していない。古座川に司馬遼太郎は別荘をもった〓。「祓いの宮」「吐生の滝」
▽182 山岳修行者らの信仰は、仏教の正式な伝来によって影響を受け、さらに、空海・最澄による密教の伝来によって、その理論的基礎がつくりあげられていったのでは。彼らの信仰の根源には、病気を治したり作物の収穫を祈ったりする加持祈祷の類が取り入れられており、それこそが実践的な宗教である修験道成立のバックグランドとなっていたはずである。(イフガオのモンバキ)
…修験道の開祖・役小角。天川、洞川は、修験にとって大峰山系に入るきわめて重要な地点だった。そのような場所に女性神格である弁財天が祀られている。…修験の肉体鍛錬は男性原理であり、天川における「籠もり」や「瞑想」におる受け身の喜びは女性原理を表しているのではないか。天川ではだれもが温泉に入ったときのようなゆったりした感じを経験している。日本三大弁財天の一つの「天河弁財天社」。「いつも何かに包まれている」ような不思議な気分になる。
▽189 奈良県十津川村の玉置神社。樹齢3000年の神代杉などがそびえる。屋久島と同様、土地の表面には岩が風化してできた薄い土の層しかない。ちょっと彫ればすぐに岩盤。土に栄養分少なく、保水力は小さい。杉は生長が遅い。成長が遅いから、普通よりも数倍多い樹脂が内部に保たれることになり、腐りにくく長寿につながる〓。
▽196 熊野には死火山もないのに、ひときわ硬い火成岩や変質岩が多いのは謎とされていたし、温泉が500以上もあるのも常識をはずれている。その理由ははっきりしなかった。
…熊野周辺には、日本最古といわれる湯の峰温泉、川湯温泉、勝浦温泉、十津川温泉郷など、多くの温泉がある。
古座から那智勝浦、新宮市、熊野川町にかけて鉱山跡が点在している。地表に噴出したマグマが冷却したとき、マグマ内の成分が凝集して鉱床が生じるのだから、それが温泉と深く関わるのは当然のことだろう。
山岳修行者の行場への道筋に、熊野天狗鍛冶の屋敷跡があるのは興味深い。
「源泉」と「修験の行場」「鉱山跡」はしばしば重なりあう傾向にあった。
2007年8月24日の中日新聞「現在の三重県尾鷲市付近に約1500万年前、阿蘇山ほどの規模のカルデラ火山があったことが、愛知教育大の星博幸准教授らの調査でわかった」。川上裕氏らが研究発表。
熊野酸性火成岩の層には鉱物資源が含まれる。金・銀・銅を産出した鉱山があった。それらの場所には修験の足跡がみてとれる。(〓出雲のたたら)
川上氏の見解によると、火山活動の結果だが、マグマの噴出ではなく、地層の割れ目から地球内部の熱水が噴出したからではないかとのことだった。
▽208 熊野本宮、新宮、那智のいずれもが河川の近くに鎮座している。新宮大社の御船祭と古座川の河内神社の河内祭。…海と川という異なる二つの水に象徴される領域の神秘的合一。
▽215 御船祭と河内祭は、熊野の信仰が海との強い結びつきを示していることを教えてくれる。「常世」信仰などを通じて海との結びつきがきわめて強く、祭りも海を舞台にしたもののほうが多い。
川に浮かぶ聖域という意味では、本宮大社があった大斎原とも似た意味をもっているのかもしれない〓。(海に開かれた神社)
▽220 沖縄では女性が宗教者として一人前になるとき、ずっと歩かされるという風習がある。宮古島でも巫女になるために御嶽(うたき)を転々と歩く。いくつか巡って、ある御嶽で突然感応したら、そこが自分の信ずべき神のいるところということになる。つまり、自分がどこにいるべきか、自分が信じるべき神はどこにいるかということは、最初からわかっているわけではなく、ずっと放浪してはじめてわかる。
…そもそも神は動きまわるもの。あちこち歩きまわってから、ようやく定住することに。
▽222 熊野と出雲。共通の地名が多い。紀伊の熊野本宮大社の家津御子神と、出雲の熊野大社の櫛御気野命は同じ性格をもった神格。「食をつかさどる」とされるが、もともと「生まれくる万物をつかさどる神」。スサノオノミコトと同体とされている。伊弉冉尊の葬地についても、古事記では出雲と伯耆の境の比婆とされるし、日本書紀では熊野の有馬村とされている。
出雲の熊野大社と、熊野本宮大社はよく似た地形。
▽229 荒ぶる神がその土地の巫女的女性の祭祀によってなだめられ、この地の人びとの守護神へと変化していく。
▽236 熊野だけがもつ特殊性。熊野の神々は、もとからそこに住む地主神、産土神の集合体であり、そこに、神道、仏教、修験道などの影響が積みかさねられたもの。人びとが参拝に訪れた理由も、そこに籠もってさまざまな困難、病気、悩みについての託宣を得ることにあった。…特殊な地勢にあり、山岳修行者の行場として関心を集めてきた。彼らが行くところには鉱物資源があり、温泉が湧き、豊かな自然があった。それを求めて一遍をはじめとする宗教者が訪れ、さまざまな霊感を得て新しい境地を開いていった。
▽
三重県東紀州対策室・平野昌は調査に同行。
花尻薫・三重県立熊野古道センター長
辻林浩・和歌山県世界遺産センター長
阪本正文・神内神社総代
芝先隆・那智勝浦町役場
仲本耕士・古座川町役場
神保圭志・神保館
三隅治雄・民俗学者
石井晃・紀伊民報
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