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南紀と熊野古道<小山靖憲・笠原正夫編>

■南紀と熊野古道<小山靖憲・笠原正夫編>吉川弘文館 2015/05/23

牟婁郡は紀伊国の約半分を占める広大な郡で、1879年に4郡に分割された。西牟婁・東牟婁両郡は和歌山県に属し、北牟婁・南牟婁両郡は三重県に。(〓明治政府の陰謀説)
▽12 紀伊路・中辺路は、京都から本宮までは約300キロ。本宮・新宮・那智の三山巡拝が120キロ。これに帰路を加えると京都からの往復は700キロ以上になる。
▽ 沿道の住民からすれば、王子は在地のさまざまな神に他ならず……。これら大小さまざまな神を王子に組織したのは、参詣道を支配した先達であろう。
▽多数の王子は、院政期熊野詣の所産。そのため伊勢路の王子は中世には定着しないし、大辺路にも中世にさかのぼる王子社はほとんどみられない。
▽19 富田川の浅瀬をあちこち渡りながら進むルートは、増水のときなど危険がおおかった。…潮見峠越ルートに一本化されるのは近世以降。
…雲取越も派生ルート。定家も終日輿に乗せられ、ずぶぬれになって険阻をこえたとき…
近世になると、ナチから本宮に向かう西国三十三カ所観音巡礼の通常ルートになり…越前峠から小口への急な下り坂などには石畳が敷設されている。
▽23 小辺路。高野山と本宮を直線的に結ぶ.通常3泊4日だが、1000〜1200の峠を3つ越えなければならない難路。だが短時間で往来できるから、大坂方面から熊野に参詣するのに都合がよかった。
▽26 高野山〜大股間は約半日だが、翌日のことを考えて、普通は大股に宿をとる。
▽28 1889年の大水害のあと、十津川村から北海道に移住した人々が、神戸から乗船するために、高野山に向かって通ったのも、この小辺路であった〓。昭和初期までは現役の交通路であったようである。
▽30 室町時代以降、園城寺・聖護院系先達の力が衰えると、紀伊路・中辺路ルートは権威を失い、伊勢路を利用する参詣者が増加。それに拍車をかけたのが、東国から伊勢をへて、西国三十三カ所観音霊場をめぐる巡礼者であった。青岸渡寺を第一番札所とし、雲鳥越で本宮に向かい、さらに本宮から中辺路を逆にとって、第二番札所紀三井寺に向かう。西国巡礼が盛んになるのは15,6世紀といわれており、伊勢参宮の活発化とあいまって、このころには伊勢路は完全に復活したはずである。
▽32 尾鷲の東西の馬越峠と八鬼山。東斜面に芸術品ともいえる立派な石畳が敷設されている。〓(どこの技術? 立山はネパール)
▽45 田辺の高山寺境内に貝塚。
縄文時代、紀南は東西文化の接点となり中部・東海と瀬戸内文化の合流点であった(海の道の時代)
▽52 日置川以南では、古墳時代全期間を通じてすさみ町上ミ山古墳・那智勝浦町下里古墳の2カ所しかない。大河川である熊野川流域ではまったく古墳の造営はみられない。また、この古墳築造語、いわゆる熊野地方では古墳を造った形跡はない。(〓水葬や…)
▽54 海人の墓。5世紀末から6世紀。田辺湾岸一帯で、岩陰に墓が築かれる。…田辺市磯間岩陰遺跡は海岸に接した…海人を統率する首長一族の家族墓だろう。副葬品からみて、古墳に埋葬されてもおかしくない人びとであるが、これが海を生活基盤にしていた集団の墓であったのだろうと指摘されている。
▽56 熊野は神の棲む国であり、それ以前からの風習というか海葬が行われたと解すべきか…。
▽62 有間皇子事件。牟婁温泉が舞台。「乙巳の変」のクーデター。…表面的には孝徳天皇系から中大兄皇子へ皇位が移動することに対する拒否の動きだが、結果的には、中大兄皇子が皇位継承の有資格者だった有間皇子を謀反に誘導して事前に排除し、権力がために成功した結果となった。
(〓白浜温泉は有間皇子のおかげ)
▽65 紀伊国は出雲国とともにに、記紀神話において服属性が象徴的に叙述されたり、令制下になっても国造が残存するなどという、他の諸国と異なった特徴をもつ。(独立国?〓)
▽74 承久の乱(1221年)。当時有力だった田辺別当家の多くがかかわり、壊滅的な打撃をうけた。その結果、上皇・女院の参詣が行われなくなり、貴族の参詣も衰退した。
…「蟻の熊野詣」 熊野詣の最盛期は、民衆の参詣が活発化した15世紀と考えられ、西国…と連動したものだった。…活発化の背景には、まず、貨幣経済の浸透があった。銭さえあれば長距離の旅をともなう参詣が可能に。
平安末〜鎌倉初期に参詣できたのは、国衙や荘園あるいは特別な縁故によって旅に必要な宿や物資を現地で提供してもらえる階層にかぎられていた。初期の熊野詣は、上皇・女院・貴族が中心であったが…すでに名もなき女性や身体障害者の参詣がみられるのはどうしてであろうか。「餓鬼阿弥」となった小栗判官を土車に乗せ…という説教節はこのことを象徴的に物語っている。
▽77 古来、熊野の海辺には、多くの海民が暮らしていた。(〓輪島の海女)
平家の強圧的な支配に反発する海民を組織し、水軍として編成したのが、21代熊野別当となる湛増である。…闘雞神社で、赤雞と白雞をたたかわせ…という挿話は…。熊野水軍が三山の神の兵としての性格をもち、その帰属が、戦いの勝敗を決したことを物語っている。
…承久の乱で上皇側が惨敗。田辺別当家の湛増の系列はここに滅亡する。同家の滅亡により、熊野の海に基盤を置く領主たちは、その統制より解き放たれることになった。…独立の領主として自立。領主たちは水軍としての横のつながりは放棄せず…ときには「熊野海賊」として、幕府の脅威となる場合さえあった。
▽89 熊野地方は1588と1614に激しい土豪の一揆。「宗教王国」とさえいわれ〓、かつ土豪の勢力も根強い紀伊国への頼宣の入国は統一をめざす家康の戦略でもあった。
▽99 当時の紀州漁民は、曳網・巻網・敷網・刺網など多種の網を考案した。関東の鰯網漁を開花させた。
…鰹漁。潮岬の地先にある網代。御崎会合と呼ばれる封鎖性の強い鰹釣り漁民の集団がつくられ、明治初年まで存続していた。…規約に違反したら、鰹の腹部が破裂すると信じて神威を畏怖した。…会合に加盟しない漁村の漁民は、この網代で鰹漁をすることを認められず…(〓神の力でルールを守らせる)
▽106 六木の制を定めて、楠・柏・槻は立木はもちろん、枯れ木の切り出しも禁じ、杉・檜・松もまわりが8尺以上は伐採を禁止した。
自所有地に留木の幼木を発見すると、役人に発見される前にひそかに伐採して、他の樹木の生育につとめるので、留木になっている六木は、かえって現象するようなこともおこっていた。(したたか〓)
▽114 菱垣廻船・樽廻船。
▽121 明治元年、水野忠幹は新政府に、大台ヶ原の開拓を建白している。
明治3年、新宮川流域の乙河(宮井村)と万歳山(日足村)の石炭鉱の調査に着手。4年から15年間、大阪の九十九商会(三菱)に委託して石炭発掘をしている。(〓たたらは?)
▽124 「牟婁新報」と初期社会主義。種がまかれたのは1903年ごろ。創刊は1900年。…全国的にも社会主義系新聞として注目されていった。1905年に荒畑寒村が着任して活躍。寒村は置娼問題に反対の論陣をはり…1906年に菅野須賀子が着任。…寒村や須賀子がはなれ、社会主義的傾向は次第に色あせた。南方熊楠が盛んに投稿して、やがて神社合祀反対運動として展開されてゆく。
▽126 大石誠之助。新宮で医院を開業。社会主義雑誌に投稿。幸徳秋水が大石を訪ね、新宮にとどまる。秋水のための熊野川での昼間の舟遊びが、夜間の「革命謀議」に脚色されてゆく。…フレームアップ(128)
大逆事件。大石はじめ6人の「紀州グループ」が検挙拘束される。大石と成石平四郎のふたりは絞首刑に。大石は刑死に先立って「冗談から駒が出る」と語ったと伝えられている。
▽130 大逆事件のあと、権力側の文書である「特別要視察人状勢一班」には「和歌山−三重」の欄に「熊野川沿岸は夙に一種の思想の浸潤せる土地なるを以て此の方面は頗る注意警戒を要するものと認めらる」と、ほぼ毎年記されている。〓〓(革新の地盤があった、都市的なものがあった? 主産業が元気だったから?)
沖野岩三郎は牧師。大石や高木、崎久保の遺家族への援助を惜しまなかった。
▽135 紀勢線
御坊駅は、まちから遠くに建設された。駅からまちまでは「臨港鉄道」が施設された。(〓いつまで?)
紀勢線は、御坊〜印南間は海岸部を通らない。トンネル掘削が必要な「山手線」が選ばれたのは不自然。
発電所建設すると、筏による材木輸送ができなくなる。だから林業家は発電所に反対した。京阪はこれに対処する必要があった。山間部での木材輸送に、道路や鉄道、索道の建設が必要だった。京阪はこの目的のため紀勢線を使おうとした。だから、日高川上・中流に近づけて建設されることになった。京阪電鉄は、交通網を発電所建設の見返りにしようとした。
▽138 紀伊半島をまわる航路は近世には幹線中の幹線だった。鉄道の発達で陸上交通が主体となると、紀伊半島は「陸の孤島」になった。(〓能登と同じ)
…御坊市は、紀勢線から町から離れたとことが、長期的衰退のきっかけとなった。…
▽139 明治維新後、林制の改変によって山林の乱伐が進んだ。その結果、1890年前後には全国的に水害が多発した。熊野川も1889年には記録的な大水害に見舞われた。その原因について根本的反省はなされず、山林の伐採がつづけられた。このため大正期には、熊野の天然林はほとんど底をついた。(〓本宮の旧社地を襲った水害も伐採と関係がある? 4年前の水害は過疎と関係?〓)
…1920年代の不景気に加えて、カナダ・シベリア・樺太などからの外材輸入が盛んになり、林業が深刻な状況に。新産業が模索され、熊野川開発の新たな構想が浮上する。ひとつが電源開発であり、もう一つは観光開発だった。(全国の昭和30年代を先取り〓)
関西における発電用の有力河川として、熊野川が注目されるようになった。阪神地方への送電も比較的容易。
…大正期の熊野は発展から取り残されたという気分が強くなっていた。1920年代になると、「山村疲弊」が指摘されるようになり、地域が発達できないのは、交通路の不備に起因すると考えられるようになり、道路建設が切実な要求になった(〓高速道路を欲しがる今と同じ構図)
…道路建設には地元負担が求められる。それに応じられる村は少ない。この寄付金などを京阪が負担することになった。発電所建設への見返りだった。(〓原発と同じ構図)
▽147 (戦後)熊野川水系には、十津川・北山川とも数カ所ずつのダムと発電所が建設された。筏流しはついになくなり、木材の輸送はすべてトラックによることに。漁業から子どもの水遊びにいたるまで、住民生活は根本的に変わることになった。
▽155 日本の沿岸で現在捕鯨を行っているのは網走・鮎川(宮城)・和田(千葉)・大地の4漁港。
▽158 「花の窟」。古事記において、イザナミの埋葬地を出雲と伯耆の境界にある比婆山に比定しているのと真っ向から対立。ここで重要なのは、すでに「古事記」「日本書紀」の編纂の時点において、伝承化していたという事実である。
▽161
▽181 補陀落渡海。渡海をいやがった金光坊が殺されたという金光坊島、船の帆を上げたという帆立島、船の綱を切った所とされる綱切島、松の生えている島は平維盛が入水した山成島であろう。
…中世までは生きながら観音の浄土をめざした渡海の実践行者たち。そのなかに、沖縄に漂着した渡海僧がいた。日秀上人。
▽和泉式部の逸話
▽194 中辺路がふつうだったが、絵師などは光景が変転してゆく大辺路をたどることが珍しくなかった。
▽198 和泉式部が月の障りになったという伝説のある伏拝王子では…。
▽203 樫野崎に建っている遭難記念碑は1937年に建立。樫野区民は先人の示した博愛の精神を継承している。戦争中もずっと碑周辺の清掃作業をつづけており…(今は?〓)
▽205 新宮が江戸文化の影響を直接受ける形になったのは、九代領主水野忠央が失脚したとき、お抱えの文化人を新宮にともなったことも影響していよう。新宮では、幕末から明治期にかけて、情歌(都々逸)や端歌などが、一般庶民にまで流行していたという。
田辺では、自由民権運動の影響下に…といった投稿雑誌が刊行され、1900年に「牟婁新報」が発刊あれ、一時は社会主義系の新聞として全国的に注目され、熊楠が神社合祀反対の論陣を張ったりした。
田辺からは片山哲も。紀州出身の最初の総理。
▽209 新宮から。東基吉・くめ夫妻。くめは「鳩ぽっぽ」「お正月」「鯉幟」「雪やこんこん」などを作詩。くめの2年後輩の滝廉太郎が作曲した。(〓いまそれを伝承する動きは? 雪もないところでなぜ「雪やこんこん」?)
▽211 佐藤春夫 新宮の医家に生まれた。速玉大社に「秋刀魚の歌」の詩碑も。
▽213 中上健次も新宮生まれ。〓
▽214 田辺・新宮周辺でいまでも研究雑誌や短歌・俳句の冊子が多く刊行されている。田辺で「くまの文庫」李シーズ(熊野中辺路刊行会)、「くちくまの」(紀南文化財研究会)など。新宮で「熊野誌」など。記念館などは、田辺市美術館・なかへち美術館・南方記念館・南方熊楠旧居・紀州美術館など。新宮周辺では、佐藤春夫記念館・西村伊作記念館・石垣榮太郎記念館・串本応挙芦雪記念館など。西村伊作は建築家で〓〓
…1974年に天神崎に開発計画が持ち上がり、天神崎保全運動。わが国最初のナショナルトラスト運動。〓。新宮では2000年から「大逆事件」の犠牲者復権運動が市民の間で起こり、翌年の市議会の名誉復権決議につながった。田辺/新宮が育んできた歴史的・文化的土壌と無縁ではあるまい。
▽214 明治に入って植林が進み、自然林がなくなる一方、王子社も人里近い社に合祀されるなど沿道の景観も大きく変わった。1906年の神社合祀令は、中辺路の沿道に残った古態をとどめた王子社を壊滅させるものであった。熊楠がそれに異を唱え、神社の森を守ろうと。
▽217 合祀して、合祀先の神社の維持のため売却して消滅するがごときは、拙策のきわみ。海外ではむしろ小公園の必要が叫ばれ、そのモデルにわが国の小規模の神社の森が選ばれている。
…熊楠の合祀反対運動は、成果は少ない。特筆できるのは、田辺湾に浮かぶ神島がまるごと保存できたことがそのひとつ。この島に祀られてきた神島明神も、本村である新庄村の大潟神社へ合祀され、合祀後は立木の伐採が計画された。…熊楠は、この島の植生は紀州沿岸の数多い島のなかで、唯一、人の手が入っていない自然林で、西洋でいま注目されている植物生態学(エコロジー)を実地に観察するのにこれほど適した島はない、と保護を村長に説き、柳田らに応援を訴えた。
…保存が不首尾に終わったのが、野中の一方杉と呼ばれる継桜王子の社叢。王子社を含めて13社が合祀されたのは1908年。以後それらの旧社地から老樹は伐採されていった。継桜王子の社叢の「一方杉」の名で知られた老杉は30数本。熊楠は保存に奔走する。…が、合併の規模が十三社と多く、すでに10社は神木を売り払い、その代金のうちから新しい神社の建築費も捻出している。一方杉をまるごと保存するならば約束違反で、伐採した神社すべてに補償せよという村会の意見だった。参道の両側にそそり立つ9本を残して皆伐することに決まった。熊楠は応援してくれた人びとへの申し訳から頭を丸め自らを法蚓(ほういん)と名づけ、蟄居謹慎した。
▽220 天神崎 1930年に京大が亜熱帯植物園にしようとした。それに反対した。長女の回想によると、「父は今のうちに保護地区に指定しなければ、ゆくゆくは別荘用地として不動産業者に買収されてしまうと心配したが、当時は、誰も取り合わなかった」が、1974年に宅地造成の計画があって、開発許可申請が出されていることが明るみに出た。ナショナルトラスト。買い取り運動は今もつづいている〓。
▽223 移民が多い。日高郡は全国でも名高い「渡航郡」。とくに三尾村は日御碕周辺には平地がなく、漁業のみでは限りがある。それで外へ出て行った。アメリカ村。潮岬村も移民が多かった。
▽229 紀勢線全通は1959年。全通したころには世の中は車社会に入りつつあった。
熊野参詣が盛んになると、先進的な文化が持ち込まれ、貨幣経済も浸透した。(遍路道〓)
近世には菱垣廻船や樽廻船が航行し、紀伊半島をまわる航路は幹線交通の役割をはたした。明治になっても熊野地域は海路で外部とつながっていた。牟婁新報が1900年に発刊され、荒畑寒村や菅野須賀子が東京から来て健筆をふるった。新宮ではアメリカ帰りの医師・大石誠之助、牧師沖野岩三郎…らが社会主義的な運動を展開し、堺利彦・幸徳秋水らの社会主義者が来訪した。
明治末期の田辺や新宮に、最新の思想や文化がもたらされたのは、海路による結びつきを考えれば容易に理解できよう。その地位が低下するのは、鉄道輸送が中心となる大正・昭和以降のこと。
▽231 熊野地域に豊かな自然が現在も広範に残っているのは、自然保護運動がたえまなくつづけられてきたから。一方、電源開発や人工林の造成など、さまざまな開発の多くは、その役割を終えたか、失敗に帰している。熊野地域が再生し発展するには、豊かな自然を生かした計画に切り替えられるべきである。
(〓安倍が視察した中辺路の林業会社はなにがすごいのだろう)

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