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熊野詣<五来重>

■熊野詣<五来重>講談社学術文庫 2015/05/14
筆者は「死者の国」と位置づける。この前読んだ本の筆者は「生まれ出ずる国」という。どちらが本当だろうか。折口信夫のまれびとや、柳田国男の〓につながるものだろうか。

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▽ 人が死ねば、亡者は枕元にたてられた樒の一本花をもって熊野詣でをするという。だから、熊野詣の途中では、よく死んだ親族や知人に会うといわれた。
大雲取の険路で、…尾根道であるのに、うすぐらく、黴くさい径であった。手の込んだ敷石が延々とつづいていた。
補陀落渡海という水葬や入水往生がおこなわれた。三山信仰。「死者の国」すなわち他界へのあこがれにほかならなかった。しかし近世以降、熊野神道は仏教からの離脱とともに「死者の国」からも脱皮した。
私はあえて熊野を「死者の国」とよぶ。死者の霊魂のあつまる他界信仰の霊場だったからだ。
中世には浄土信仰のメッカになるが、これも「死者の国」を仏教の「浄土」におきかえたもの。
▽14 矢ノ川峠 昭和34年に紀勢線が全通するまで、国鉄バス随一の難所といわれたが、もう廃道に近かった。…この道を車が通れるのもあと1,2年のことだろう。この山腹をぶちぬく矢ノ川隧道が完成間近だから。(〓いまどうなってる? 歩く道で復活?)
しかし、熊野街道の本当の伊勢路は、海岸寄りの八鬼山越だったそうだ。ここが伊勢路最大の難所で…
花ノ窟。伊弉冉尊の陵といわれる。
▽18 熊野詣の道筋農地、伊勢路がもっとも容易であり、紀伊路がもっとも難路である。なぜ院政期の貴族が伊勢路を捨てて紀伊路をとったか。
伊勢路がはやくひらけたということは、伊勢が熊野信仰の本質とふれあう何者かがあったことをしめすものではなかろうか。
▽21 大和や和泉あたりの人々でも、江戸から明治初年、村の結婚前の男女が群をつくり、長谷から伊勢へ出て熊野へ詣で、田辺、和歌山をへて帰郷したものだったという。(〓通過儀礼としての旅。四国遍路も。ヒッピー旅行も。旅の大切さ)
▽25 浄土信仰のめばえた院政期になると、古代的な死者の国、熊野は阿弥陀如来、あるいは観音の浄土として意識されてくる。…中世的変質がおこるとともに、熊野三山の信仰管理者は急速に仏教に傾斜していく。…伊勢と熊野を同体とする古代信仰を解体させ、仏教化した独自の教団を組織するようになった。これを象徴するのが、伊勢路から紀伊路への転換。(〓仏教化によって伊勢と切れる)
矢ノ川峠を境として伊勢と熊野は、陽と陰、生と死、神と仏という対立関係で意識されるようになったものとおもわれる。
▽33 旧熊野街道は王子址をたどればよいが、…最大の難所は岩上峠。この上り口を見いだすのは困難。(〓今は?)
三山巡りは、本宮から熊野川を船で新宮に下り、新宮の参拝をすませてから浜王子、佐野王子、浜ノ宮王子、市野々王子を経て那智へ出た。そして那智から大雲取、小雲取を越えて本宮へもどり…中辺路を京へ帰った。
▽35 熊野でさっぱり烏をみなくなったのはさびしい……鵄(トビ)は見ても、烏はついぞ見かけなかった。(〓本当に? 能登は烏だらけだが。なぜ烏が減った?)。
…烏は身はあんがいに小さいので、銃で撃っても羽毛のなかを銃弾が通り抜けるだけで、なかなか落ちないものだし…鳥類のなかでもっとも利巧な鳥だそうで、平気で人のそばに寄ってきて人間の心をよみとろうとするようだ。よくなつく。(〓カラスについて学者に聞く。人に慣れるのか)
▽44 わが国の古代葬法に風葬が多く…中世の絵巻物には烏が鳥辺野にすてられた風葬死体をついばむありさまを描いたものがある。
土葬・火葬が一般化してから風葬はいかにも陰惨な話にきこえるが、古墳時代に支配者の墓はあっても、庶民の墓が発見されることはきわめて稀であることを説明するには、風葬をかたるほかない。ネパールの鳥葬は禿鷹鳥葬であり、日本の鳥葬は烏鳥葬であったといってよい。
伊弉冉尊も、夫の伊弉諾尊が黄泉へ会いに行くと、「脹満太高、膿沸虫流」とあるのは風葬せられていた姿と解するのが自然であろう。
(チベットで見たときはショックだった。実は日本にもあった〓)
▽48 風葬。風化を助けて不浄を清掃する鳥は神聖視される。だからついには神使ともみられるようになる。神武天皇伝説の成立する7,8世紀以前から熊野と烏の関係はできており、烏をミサキ鳥というところから、神武天皇の嚮導者に仕立て上げられたというべきであろう。
…熊野には古墳時代の古墳が存在しないことから、風葬が卓越しており、そのためにとくに烏が神聖視されたものではないか。
▽54 熊野比丘尼=勧進比丘尼 遊女のように。
▽59 高野聖
▽64 補陀落渡海 帆立島、綱切島、山成島などの地名が無言の証人としてのこる。
▽71 死者をまだ生きているていにした水葬だと想像される。臨終の重病人が船を操縦して航海できるはずはないからである。…土地の古老の話では、補陀落渡海をするときは、死者を棺にいれて海岸に向かうが、浜の宮の大鳥居までは生きている人に話すように言葉をかけながら行く。大鳥居を出ると念仏にかわり、葬式になるのだという。
▽75 入水往生者もいたが、すべての補陀落渡海者が入水往生者かということには疑問があり…

▽76 山陰海岸には現に満潮には波をかぶる海岸墓地があり、吉野川上流にもすこし水が出れば、水中に没する河原墓地があって、洪水のあとに白骨が露出するという。同様の河原墓地は日高川にも報告されている〓。
宮本常一氏の「吉野西奥民俗採訪録」によると、大塔村の項で「…辻堂あたりではずつと以前は死体を川原へ持って出て、砂礫の中に埋め、上に小石を沢山のせておいたやうにも聞いた」としるしている。これは吉野川や日高川でも現におこなわれていることである。これはまさに水葬の変化。(〓ガンジスの水葬が日本にもあった。研究している人は?)
▽78 山陰の東郷池に面する松崎町浅津は墓のない村で有名である〓。湖岸の火葬場で火葬すると、お骨も灰も一切湖中に流して墓をつくらない。近世に真宗が入って火葬がおこなわれる前の墓もないところをみると、おそらくもとはすべて流したのだろう。
…海岸墓地のとくに発達している山陰地方は、水葬が卓越していたのだろう。
▽79 風葬をもつおのが山岳他界を想像して山を霊場としたように、水葬を慣行としたとした海浜の民が海上他界を想定して、海の彼方に補陀落山をおいたのは自然であろう。
熊野の神秘感は、その山と海にかくされた、古代宗教の残像がかもしだすのである。(葬法と信仰〓)
▽81 一遍聖絵
一遍は、念仏札を道行く人に配る仕事をしながら熊野へ来るが、これも勧進の目的は喜捨を受けることであるから、無銭旅行の方便である。
ところが、一遍の運命はこの熊野詣で一変してしまう。安易な札配りは「一人の僧」が札をうけるのを拒否したところから、はじめて宗教上の一大疑団に逢着する。〓彼はここで人間的な悩みと宗教上の疑問を一挙に解決して、別な一遍として生まれかわる。そして超一、超二と別れる決意をする。
「一切衆生は南無阿弥陀仏を必定するところ也。信不信をえらばず、浄不浄をきらわず、その札をくばるべし」。いい言葉。
熊野は一遍にとって念仏成道の地となり、…彼はそれから厳格な禁欲の聖となるが…、男女共学の念仏集団を形成する。…一遍の人格的魅力や踊り念仏とともに、この僧尼合衆の華やいだ雰囲気にあったのではないか。一遍の前半生の人間性のきびに通ずる洞察から生まれた巧妙な布教方法であったのかもしれない。(男女とセックスの重要性〓)
▽小栗街道 熊野街道は俗にそう呼ばれる。
小栗判官と照手姫のロマンスほど、人々の熊野へのあこがれをそそったものはなかったであろう。(〓ニカのコーヒー園もそうだった。震災ボラも?)
…小栗判官と照手姫の幻想が熊野からきえたのは、熊野、とくに湯の峰の人々がこの物語をはやくわすれたかった因縁も指摘しないわけにはいかない。熊野と時宗とライ病。これは中世史の知られざる断面といってよいだろう。
小栗判官のように、足腰も糜爛しさった…ものは、箱にに丸太を輪切りにしただけの車輪をつけた土車に乗り、道行く人に挽いてもらうか、自力で下駄をはいた両手で這うように山坂をこえていったらしい。そのようなライ者の姿は「一遍聖絵」に活写されていて…
熊野ではたびたびそのような患者が中辺路とあるいていた記憶を、老人からきくことができた。大雲取の険路でさえ、越えていったという。
…私も少年のころ観音さんや薬師さんの門前の路傍で、物を乞う癩者を見たとき、顔をそむけ息をとめて走り去ったものである。私はいまそれをはずかしく思う。
一遍終焉の地の門前にも多くの癩者がえがかれている。時宗が積極的に癩者救済を主張していたものとおもわれる。これを傍証するのが「小栗判官」である。
(〓稲葉先生でさえ気付かなかったハンセン氏病の実態〓。それが熊野では見えていた。昔は隠されていなかった。戦争が見えなくさせたのかも。小栗判官の逸話のなかで描く)
▽109 熊野権現は他の神社とちがって不浄をきらわずということ。…これは、すでに亡者の熊野詣の信仰があって、黒不浄とよばれる死の穢れをきらわなかったことは事実である。そのうえ赤不浄とよばれる産褥、月水の穢れをも権現はきらわずとしたのは時宗であった。
和泉式部。月水になったが…という話は時宗が唱導のために作為した。和泉式部の墓をたくさんつくったのも時宗の徒のしわざであった。
(〓穢れをきらわず、出産時の〓を家の目の前に埋めた縄文人。)
…時宗の聖は、癩者救済をテーマにした説経「小栗判官」をつくって、時宗と熊野を宣伝した。それは「がきやみ」を不浄とかんがえ、天刑とかんがえていた時代には、おどろくべき発想であった。
くるしめるもの、しいたげられたものにこそ、神仏の恩寵はあるという宗教の神髄をふくんでいたし…。
▽116 ピレネー山中のルルドは…。わが国の中世には…道行く人の善意にひかれて、険難をもってきこえた熊野路をこえてゆくことができたのである。これはまことに偉大な宗教の奇蹟といわなければならない。
…中世の奇蹟は癩を治すことはできなかったが、みなで土車を1曳きずつ曳いて熊野へおくり、その善意で辞める者をなぐさめることであった。(〓ボランティアの発祥は宗教から?)
…本宮の権現坂〓(実際どんな坂?)にかかると、土車ではのぼれないので「餓鬼阿弥籠」に入れて代わる代わるに背負い、湯の峯の湯壺に入れる。

▽124 熊野別当 熊野水軍 弁慶
どうして神秘的な熊野にこのような武力がはぐくまれたのか。
熊野別当。神領や庄園を管理。その富と権勢は国司領主をしのぎ、隠然たる熊野王国の専制君主だった。(〓出雲と同様の独立王国)
▽131 三山信仰は神道でもなければ仏教でもない第三の宗教だった。妻帯世襲の半僧半俗の別当家にひきいられた山伏の黒衣武士団と、全国的な散在山伏の勧進組織から成っていた。別当は軍事的には武士団の棟梁であり、宗教的には熊野修験道の管長だった。しかも経済的にも庄園を支配。ヨーロッパ中世の法王のように教権と俗権をあわせもつ主権者であった。
…熊野別当の上に置かれた三山検校は、貴族出身の天台僧が多かった。熊野におるわけではなく、ただアクセサリーにすぎなかったから、教権も実質的に別当のものだったのである。
…熊野の宿坊は御師とよばれ、道者を宿泊させるばかりでなく、祈祷の導師となる。それで道者はこの御師と檀那の契約をむすぶ。契約をした檀那は、この師檀関係を変更できない慣習ができてしまったので、一つの株として経済的権利化して、御師同士で売買された。
…全国的な拡大をみるためには、地方散在の先達や聖を末端とする経済的組織化が必要だったのである。
▽146 私は熊野詣といえば御幸の数だけをとりあげ、熊野文化といえば貴族ののこした遺物だけをかたることには、我慢がならない。むかしも今も熊野は庶民のためにあるのだし、おそらく貴紳の熊野詣も、庶民の熊野詣の流行に刺激されておこったのだと思う。〓〓
▽149 熊野御幸のもっとも詳細な記録は定家の「後鳥羽院熊野御幸記」。定家は、つねに一行に先駆けて船や昼食所、宿所を調達設営する役であった。
▽153 藤代は京都から来てはじめて大海原を眼下にみる雄大なながめ。
峠をのぼったところに塔下王子址があり、地蔵峰寺がある。ここの石地蔵は日本最大というが…〓
…熊野路には石地蔵が苔むして草にうもれたものが多く、行き倒れたもののために建てたらしいのもみられる。
▽158 九十九王子についても私は大部分が樹叢信仰、杜信仰であることをたしかめ、その起源は山の神や田の神や藪神、あるいは古墳、古墓であって、日本人の古い民俗信仰が息づいていたものとかんがえている。
▽159 熊野路随一の海景。塩屋王子、上野王子、津井王子、イカルガ王子をすぎて、五体王子の一、切目王子につく。代表的な海岸の王子。
▽160中辺路の難路。旧道は下万呂を通る富田川ぞいではなく、潮見峠をこえて滝尻王子で富田川へ出た。…いずれも滝尻王子で宿泊し…
…大門王子、重點王子、…峯にのぼり谷に下りして近露の宿に出る。
▽168 熊野の御祭神は12所あって集合祭祀であるから、熊野川、音無川、岩田川それぞれの上流から移し祀られた神々が、おの3川合流の中洲にあつまったことはまちがいあるまい。
…いま音無川に水がなく、社地が道路の上の丘陵にうつったのはさびしい。
▽172 湯の峯温泉。本宮の「御垂迹縁起」の大湯原(大斎原)は湯の峯ではないかとの説もあり、本宮の発祥に関係があるらしい。湯の峯には熊野国造の墓なるものがあって、本宮社家系図は熊野国造を祖神とするからだ。
▽175 後白河法皇の頭痛。法皇の悩みを聞いた熊野山伏はこういった。前世では熊野山伏であったが、その髑髏は岩田川の水底にある。この髑髏をつらぬいて柳の木が生えて、風の吹くたびにきしむので頭痛がするのだという。…その通り信じこんでしまった法皇は、その治療法として前世の髑髏をとりあげて観音像の頭中に納め、生えた柳を棟木に一寺を建立しようとする。これが蓮華院三十三間堂というから、熊野山伏の舌先からうまれたものだ。
▽179 速玉大社は千点にあまる文化財をもち、熊野神宝館に保管陳列している。宮司の上野元氏の長年にわたる蒐集のたまものであって、貴重な先史考古学、歴史考古学、民俗学の資料である。(〓どんな思いで蒐集したのか。竹富島の蒐集と同様の価値や思いがあったのではないか)
▽183 神倉神社の御灯祭は旧正月6日の火祭り。538段の石段は頼朝寄進といわれる〓。頂上のゴトビキ岩でまたおどろかされる。〓
▽186 那智のお山 新宮から那智のあいだには、浜王子、佐野王子があって、浜ノ宮王子まで熊野灘の風景をたのしめる。
浜ノ宮王子は那智の入口で、隣り合わせに補陀落山寺がある。…那智は、海と山を股にかけた欲の深い霊場である。そのうえ、本宮と新宮にみられなかった、神道と仏教を股にかけた欲のふかさ。…那智は二次元ではなく三次元である。ゼロメートルから800メートルの妙法山頂まで立体的である。
▽193 修験のきびしさ。大雲取、小雲取。定家も「…」
▽197 熊野三山は明治政府の強引な神仏分離政策と、修験道禁止令の波をまともにうけ、信仰と経営の混乱をもっともつよく経験した神社である。三山のかがやかしい歴史は修験道の歴史であり、信仰は仏教に裏打ちされた神祇信仰だった。この信仰形態は日本の庶民信仰としてはもっとも自然な姿だったので、これを政策的に禁止したために混乱がおこったのである。
…国家権力の介入から解放されてからの、戦後の熊野信仰の再建に私は期待したいのである。
しかし…レジャーブームとやらで…こんどは経済という別な権力がのりこんできた形である。「金権」とよばれる権力の前に、信仰も歴史も自然も蹂躙されている。

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