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紀南の100人

■紀南の100人
▽宇江敏勝 自宅近くに熊野古道
30歳まで父親と備長炭を焼いた。その後も林業現場で。植林率は和歌山県で8割、熊野は8割。(台風による崩壊は山荒れから?)
▽原和男
上秋津。昭和の大合併のとき、共有財産を個人に分配せず、一括保全、管理する社団法人を発足させた(〓安宅と同じ、久万も)。秋津野ガルテン。
▽野田正史
産直市場「よってって」をチェーン展開。県内に7店舗。
▽多田稔子(のりこ)
05年に田辺観光協会長に。市長に直談判して「民間主導で」とビューロー設立。個人客を受け入れる旅行会社がないから、自分たちで旅行業。(どんな経歴?)
▽玉井又次(84) 備長炭製炭士。南部川村の峠の茶屋が生家。13歳で和歌山へもどり、古座川で炭焼きをはじめる。「炭焼きに対する差別はひどかった」。白浜町安居在住。
▽坂本勲生 本宮町。古道の語り部。元教員。郷土史家。「若い頃は出身地を語るのがいやだった。しかしいまの若者は胸を張って故郷を語れるでしょう」(なぜいやだった? 差別?)
▽中瀬喜陽(神子浜1丁目在住、郷土史家) 熊楠顕彰館の元館長
熊楠の資料の半分しか、翻字されていない。
30代後半のころ、熊楠は奇行の主という印象で語られることが多かった。…柳田に対して熊楠は「そちらの学者は外見だけで中身がない。集まる情報は少ないが、学問のはじまりは、ここ熊野にしかない」
▽林克紀・太地町立くじらの博物館長
「くじらのいま」を誠実に伝えるのが使命。来館者が減っている。
▽原和男(那智勝浦町の色川地区)
地区人口420人の4割近い60世帯約160人がIターン。70年代半ばに東京などから有機農業を志す5家族が移住。
▽真鍋和矢 白浜ナギサビール 阪神大震災のとき、西宮市内の焼き鳥チェーン店を経営。
▽赤松宗典・(みなべ町清川・本誓禅寺)
里の世帯の8割が梅農家。27歳で山寺にもどり、梅栽培。その後、梅干し工場をつくり、35歳で「紀州薬師梅株式会社」を設立。薬草に漬けた梅干しを製造。6月6日を「梅の日」とすることを提唱。
▽カナセ工業社長・金谷照男(上富田町の工場)
ボタンでは世界トップメーカー。田辺のボタン産業は衰退。40社が数社に
▽35 白浜町市鹿野 川添診療所 地域唯一の医療機関 中川武正医師
▽37 エビとカニの水族館館長 森拓也 「移動水族館」 すさみ町の事情で運営委託費が打ち切られ、「すさみ海立」に。
▽41 サンゴを守る実行委 御前洋 串本海中公園。点滴のオニヒトデ。「天敵に感謝。共同作業が業者の縄張り意識や漁師との行き違いの感情を薄めてくれた」
▽49 NPOくちくまのクラブ(SEACA) 山中善道 上富田は、出生率が県内でもっとも高い。
▽51 新宮山彦ぐるーぷ 玉岡憲明 大峯奥駆道 やぶに覆われていた道を切り開いた〓。南半分の45キロがやぶとクマザサに埋まっていた。廃仏毀釈で修験道が衰退。戦後、ふっこうしはじめるが…。山小屋も行仙岳に建設。
▽熊野本宮宮司・九鬼家隆さん「宗教者はもっと人びとのなかへ入っていかなければ」
父の宗隆さんは1951年に着任。荒れるにまかせたままだった。
社殿を移築して120年。
▽59 古座川アドベンチャー倶楽部 上田博久 24歳で渡海からUターン。趣味のカヌーや登山と大自然を連環させられないか。1999年、古座川渓流塾結成。
▽61 田辺市の三川元気夢来プロジェクト 西村潤。繁華街に直販店「三川夢来人の舘」を立ち上げ。
▽63 ナショナルトラスト運動 玉井済夫
1974年「天神崎に50余戸の別荘を建てる計画がある」。鎌倉が第一号、それにつづき、知床とともに全国のさきがけに。「まだ終わらないのかという人もいるが、私はまだ続いてることに意味があると思う」(〓峯雲、木原)
▽67 みなべウミガメ研究班 後藤清 千里浜は屋久島の永田浜などとともに知られるウミガメの産卵地。
▽71 人形研究家・三谷弘(上富田町岩田在住) 戦争経験。代用教員に。
▽73 近野獅子舞団 岡上哲三 父は小さな散髪屋をしていた。店は将棋の道場。客は山で生きる人ばかり。熊野高校林業科を卒業。営林shおから森林組合へ。後継者不足の獅子舞を守ろうと獅子舞団を結成。中辺路町森林組合長。
▽81 鈴木和男・ふるさと自然公園センター。田辺市朝日ヶ丘在住。アライグマ対策を。田辺市内だけでアライグマ1300匹を捕獲。すべて解剖し記録。
▽85 梅料理の岩本直子さん。みなべ町西本庄。旧南部川村の女性グループで健康推進活動をしていた。みんな梅栽培農家。活動が一段落して、「梅のことをもっと勉強を」。梅料理のレシピづくり。裏ごしした梅肉で砂糖とみりんを加えて煮た調理梅「梅びしお」を考案。200種のレシピをつくった。(生活改善運動や公民館活動の影響?〓)
▽87 大辺路刈り開き隊長 上野一夫(串本町中湊)。田辺-勝浦92キロ。世界遺産になったのは大辺路の1割にとどまった。ルートを年寄りから聞き取り、荒れた山道を掘り返すと、下から石畳や石段の一部がでてくる。祖父の代からの洋服仕立業。…隊が切り開いた古道は串本町和深、田並など10カ所、延長約10キロ。人が歩かなければ道は荒れてしまう。
▽89 庚申さん研究家・堀敏実さん(上富田町朝来在住、郵便局勤務) 13年間で1200基。水田があるところに多く、漁師町には少ない。田辺では、三栖谷や芳養谷、秋津に多いが、万呂や市街地にはない。「稲作の神ではないかといわれており、武士階級が済んでいた地区では信仰がなかったのではないか」
▽91 松本学・遠泳指導者 大学卒業後、海外を1年間旅行。JICAのシニアボラでベトナムへ。すさみ町在住。
▽97 写真家・楠本弘児(新宮市在住、那智勝浦町観光協会理事)10年前に大学教授らと3人で国際熊野学会を設立。メンバーは全国に400人。「熊野は一見、悠久の時に包まれているように見えます。しかし…杉、檜への植林もあって保水力が落ち…」
▽101 ルアー釣りメーカー「GAN CRAFT」平岩孝典(田辺市宝来町)。S字形ルアー
▽104 Iターン料理家・竹内雅一(龍神村西) 古民家風の茶房「樹樹庵」をたて、季節限定の隠れ家的フレンチレストランとして営業。
▽107 ユズのプロデューサー倉岡有美 「古座川ゆず平井の里」統括責任者 平井集落(78戸140人)は県内トップのユズ産地。ユズ農家のおばちゃんたちが30年前、自家用ユズに着目してユズ栽培を広げた。ユズの搾りカスが「もったいない」と、20人ほどで「古座川ゆず平井婦人部」を結成。コンロや鍋を買ってマーマレードづくりをはじめた。従業員20人、販売額1億2千万。(22歳でUターンし役場職員に。退職してから平井の里に再就職)
▽109 梅の「紀州ほそ川」細川清 産廃同然だった梅酢の再利用を研究し、飼料用添加物を開発。採卵鶏への投与実験をすると、産卵率が高まり、味がよく…と04年にわかった。ブロイラーでも効果。05年に7業者で紀州うめどり・うめたまごの協議会設立。
▽111 ブラッド・トウルさん 独自の予約システムづくり。10年に予約サイト「熊野トラベル」を開設。ツーリズムビューロー職員。
▽115 カタツムリ研究家・湊宏(白浜町中在住。元町教育委員) 国内の850種のうち88種を八軒。
▽117 合気道田辺道場長・五味田聖二 植芝盛平は大本教の影響を受け〓、武道を通して和合をとく合気道、争わない武道を生みだした。植芝に中1のときにはじめて稽古をつけてもらった。
▽121 皆地笠の名匠・芝安雄(本宮町皆地) 平安時代末期から熊野詣でに使われた笠を編んできた。ヒノキ選びと材料づくりがすべて。
▽123 民俗研究家・杉中浩一郎(田辺市あけぼの」 祖先は江戸中期から大正時代の祖父まで6代にわたって逢坂峠で茶屋をしていた。
▽127 B29墜落事件を記録 古久保健さん(龍神村殿原) 乗員11人のうち7人が死亡。村人が埋葬し、戦争中に木製の十字架をかけて供養した。4人も移送先で処刑された。
▽131 いちいがしの会2代目会長・竹中清さん(新聞販売店、文具店経営、中辺路町出身) 「山崩れが起きた場所の8割程度が植林地だった」。初代会長は「カメムシ先生」の後藤伸さん。植林地を自然林にもどす植樹や巻き刈らし間伐など。〓家の近くを流れる富田川の水量は子ども時代の3分の1に。
▽141「木の家」の建築家・中村伸吾(田辺市新万) 現在の住まいの悲劇は地域性を失ったこと。地方地方にあった建築法が姿を消し、画一化された。「その結果、国産材が使われず、環境・経済の両面で循環が破綻し山が荒れた。どんなテクノロジーもアートも地域固有の文化、伝統、風土に適合しないと根付かない」
▽145 那智黒硯の山口光峯さん(那智勝浦町那智山在住) 最高級品のすずり。那智黒石の硯職人は県内で山口さん父子2人だけ。
▽147 「紀州梅の郷救助隊」尾崎剛通隊長(みなべ町西岩代の梅農家、消防団副団長) ナホトカ号の重油流出事故で初出動。中越、能登半島、佐用町水害、東日本、台風12号などで活動。「災害現場に入るたびに政治、行政の想像力のなさと無策ぶりにあぜんとします。科学、技術の限界、落とし穴、専門家と称する一部の人たちのいい加減さ…を痛感します」
▽151 田辺観光ボランティアの会・畑上守世さん(下屋敷町、食料品卸販売業、闘雞神社の総代長) 闘雞神社の価値に誇り。弁慶も自慢。神社境内の「弁慶社」をアピール。
▽157 脇口光太郎(那智勝浦町築地)ヤマサ脇口水産と南紀勝浦鮪販売の社長で、観光協会理事。マグロは海からわき出る原油。画期的な冷凍技術で「海桜鮪」と鮪の燻製「海の生ハム」を開発しヒット。「絶えずエコを念頭に」
▽159 林業のフロントランナー榎本長治・山長商店社長(田辺市新庄) 江戸中期からつづく林業の名家の10代目。自社所有林は5000ヘクタール。
▽161 花の里づくりの山中茂 古座街道沿いのすさみ町佐本は紀伊半島固有の「キイジョウロウホトトギス」の郷。町内の道路わきで40年前に見附、一株もらって自宅裏の石垣に植えてはじまった。2000年「生産組合」を結成。花が咲く10月の週末2日間、祭りを開いている。(大西山のような話〓)
▽163 北山の筏師 山本正幸(北山村竹原) 筏師は20~40代の14人。村外からの移住者が大半。10月から4月は「ジャバラ」の栽培や加工、林業で働き、夏は筏。
▽165 新庄漁協組合長 谷本晋一 新庄漁協は西牟婁地方の漁協の大合併に加わらなかった。
▽167 那智黒総本舗 坂野日出夫
▽173 佐藤春夫記念館・辻本雄一 大逆事件。新宮市民というだけで就職や結婚、商売などで差別を受けた。戦争が終わるまでつづいた。犠牲者の名誉回復と顕彰を目的に2001年に「顕彰する会」を設立。大石誠之助を名誉市民にする活動。えん罪が明らかに。非戦や平等を訴える反体制派を封じ込めるため政府が捏造。
高校教諭のころ、佐藤春夫記念館設立にかかわり、06年から館長に。中上健次が開設した「熊野大学」にもかかわった。高校では健次の一年先輩。佐藤春夫も中上健次も西村伊作も誠之助の思想に影響を受けている。「大石の思想は新宮において近代文化の原点」
▽177 積み木遊び普及活動。田辺のトイランド・ヨネクラ 米倉千景 木でできた積み木やこまなどの玩具がならぶ店内。
▽183 アマチュア天文家 田阪一郎(新宮市で農業) 反射鏡を手作り。望遠鏡メーカーや各地の天文台からも注文。
▽187 元京大瀬戸臨海実験所 荒賀忠一(白浜町才野在住) 「魚類図鑑 南日本の沿岸魚」1975が、魚類学の歴史を変えた。9年後には3200種を収録した「日本産魚類大図鑑」。
▽191 田辺の女性林業経営者・藤本花子(上屋敷2丁目) 教員だったが、すさみ町の50ヘクタールを地力受け継ぎ、52歳から林業家に。
▽193 竹田愛子(新宮市熊野川町田長、生活研究友の会の会長) 熊野川町田長の国道168号沿いに「かあちゃんの店」。台風12号による氾濫で店も流された。メンバー1人も犠牲に。
▽197 ミカン農家・原拓生 上秋津野。直売所「きてら」専務。
▽199 熊野修験・高木亮英(青岸渡寺副住職) 荒れていた大峯奥駆道を再興。

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