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世界遺産 熊野古道と紀伊山地の霊場<五十嵐敬喜、岩槻邦男、西村幸夫、松浦晃一郎>

■世界遺産 熊野古道と紀伊山地の霊場<五十嵐敬喜、岩槻邦男、西村幸夫、松浦晃一郎>ブックエンド 20170116
世界遺産の制度のなかで、「道」が選ばれるのは、サンティアゴ・デ・コンポステーラの霊場が最初だった。
もとは文化遺産は姫路城など「点」でとらえられていた。サンティアゴ・デ・コンポステーラの霊場もそういう視点で1985年に世界遺産になった。その後「Amigos de pasos」という団体が、「文化の道」も大事にするべきだと欧州評議会に提案し、93年に「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」が「文化の道」という概念とともに世界遺産になった。熊野古道もその流れによって世界遺産に登録されることになった。
熊野古道は、民衆が開いた聖地だから開祖も特定の権力者もいない。三不浄といわれる死穢・産穢・血穢も許されている。差別の思想がここにはなかった。これこそ平和の象徴ではないか、と書いている。
歩くことで異なる文化を知り、相互理解が深まり、平和ともつながるとも表現していた。古来の「石畳」の再現と文化的景観の保存は、近代化に対抗する新たな価値の提言にもなりうるという。
実際に歩いても、たしかにそう感じる。頭ではなく体で自然のマンダラを感じ、現代の日本社会に足りないものを漠然と感じとることができる。だが、平和の発信や、新たな価値の提言にまで昇華させるには、その価値を総合的に調査し、研究し、実践する組織が必要だろう。熊野古道は観光面では成功しつつあるが、価値の創造にまでは到っていないように思える。
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▽47 サンティアゴ・デ・コンポステーラの霊場は、1985年に世界遺産に、87年に「Amigos de pasos」という団体が、「文化の道」も大事にするべきだと応酬評議会に提案した。フランコ独裁が終わり、78年に民主化の時代を迎えるなかで、自分たちの文化の復興、文化のルネサンスのようなものがその背景にあった。こうして93年に「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」は「文化の道」という概念とともに世界遺産になった。
▽49 市長 3つの霊場には独特の宗教観−−日本人の宗教観があり、平和の表現であると思う。民衆が開いた聖地だから開祖もいない。三不浄といわれる死穢・産穢・血穢がすべて許されている。特定の権力者もいない。いわゆる差別の思想がここにはなかった。これこそ平和の象徴ではないか。
▽52 辻林 もともとは石敷きだったが、抜かれてしまったため、それをもとにもどそうと近年になって整備事業で修復した。その結果、滑りやすくなってしまった。…この整備をした昭和50年代は、文化庁の「歴史の道事業」が指導したばかり。復元よりも整備として修復してしまった。悪い修復例に。
▽55 辻林 傷んでいる道の修復と普及啓発という課題の解決方法を2年間考え、3年目にまず手がけたのが道普請。…毎年40~50団体。人数にすると、年間700~2000人。
…中辺路の湯川王子を拠点とする湯川氏。…今でも年に1回、無尽の集落に集まり祭祀を行っている。湯川王子社があり、集落跡に代々の墓があるからだと思います。
▽61 辻林 時代とともに河床が上がってじょじょに水害が大きくなり、回数も増え、明治の大きな被害に遭遇したので移転したのではないでしょうか。
▽62 西村 歩くことでちがう文化を知ることができ、相互理解が深まり、平和ともつながってくるはず。
岩槻 共生、共生きの思想があるから、3つの霊場がひとつにまとまっている。
▽辻林 子どもを招き、座学をしたあと現地を歩き、…ユネスコ憲章の一番大事なこととして、必ず平和の話もしている。
□75 岩槻 南方熊楠は在野の自然探求者。牧野富太郎が、77歳まで半世紀近く東京大学の禄を食んでいたのとはちがっている。
□115 五十嵐 「道」の文化的景観の保持、古来の「石畳」の再現は、近代化に対抗する新たな価値の提言であり全世界の「蟻」は道普請と県の世界遺産条例を支持していかなければならないのではないか。
□132 速水亨(速水林業)
吉野林業は古くは城や寺社仏閣の建築に使われ、その後は醸造のための樽生産に使われた。
1ヘクタール(3000坪)に1万本(1メートルに1本の間隔)の苗木を植えて…
尾鷲林業も1ヘクタールに1万本以上の密植を行った。
…紀州藩は、木材と炭を大坂と江戸に送り届けることで、商材と燃料の両方を得ていた。このような藩の政策と、吉野の下流資本の受け入れなどにより、紀伊半島の森林所有は中大規模が多いという特徴があった。つまり、古道が通る森林地帯の多くは歴史的に産業として利用されており、人工林化が進んでいた。
…「古道」として意識されるようになったのは1999年からの「東紀州体験フェスタ」。これは和歌山県での「南紀熊野体験博」に呼応したもの。前者が伊勢道整備のきっかけとなり、後者が、熊野古道や熊野三山を世に知らしめた。
▽137 県幹部から「古道沿いの森林は人工林ばかり」と批判的な発言もあり、尾鷲にできた「熊野古道センター」アクセス歩道は檜の林にするはずだったが、県幹部は広葉樹林に変えてしまった。古道本来の自然環境を見誤らせた結果である。
…林業活動がつづいていかなければ、古道周辺の文化的景観の完全性や真正性は失われるのではないかと考えている。
▽140 人工林でも、光を積極的に入れることで、下草が生え、中層に広葉樹、上層にはスギやヒノキと同時に広葉樹も割って入ってくる。そのような森林を育てることで、多様性が…このように育てた森林の植物種は243種類で、速水林業が生態系保護林に指定している地域で数えられる植物種が186種であることを考えると、人工林は管理次第で多様性の高い森林も育てられることがわかる。
尾鷲林業は近年まで、1ヘクタールに1万本のヒノキ苗木を植えて、森林を暗いままに維持することで、枝が太くならないようにして柱や板に製材したときに大きな節が出ないようにしていた。
▽151 ユネスコがめざす「人の心の中に平和の砦を築く」

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