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森のめぐみ 熊野の四季を生きる<宇江敏勝>

■20230405岩波新書
 大塔山は、古座川町、熊野川町、本宮町、大塔村の4町村(平成の合併以前)にまたがり、ふもとは照葉樹林、頂上ちかくは東北の山のようなブナ林が広がる。熊野の自然の多様性を象徴するような山だ。
 山仕事をしながら山民について多くの小説やルポを書いてきた筆者が1990年ごろに大塔山の周囲の里をくまなく歩いてつづった文章をまとめている。
 江戸時代の「紀伊続風土記」を参照することで江戸末期と今を比較する。ぼくが2015年前後にたずねたいくつかのムラの歴史が見えて興味深かった。
 この地域では、樫とウバメガシで備長炭を焼いていた。伐採後は切り株から芽をだすから20~30年のサイクルで炭を焼けた。ところが戦争で軍用材として伐られ、戦後は復興のために大量の木材が消費され、高度経済成長になると、パルプの用材として、奥地まで丸裸に伐採された。その後はスギやヒノキが植林された。それでも、大塔山周辺には比較的昔ながらの自然林がのこっているという。
 ぼくも取材で大塔山周辺は何度も訪ねた。
 とりわけ山奥の畝畑という集落は強く印象にのこっている。「おめき」という妖怪が、夜間に峠を越える旅人をおそう、とつたえられていた。1960年には30戸の集落だったが、2016年当時、山の管理人が1軒か2軒住んでいるだけだった。
 大塔村は昭和30年代、過疎対策で、辺地の集落から村の中心部に人びとを集めるため、集落を再編した。何度も旧大塔村の中心部は訪ねたけど、そんな歴史もこの本ではじめて知った。

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大塔山は、古座川町、熊野川町、本宮町、大塔村の4町村にまたがる
▽7 備長炭 原木は樫とウバメガシ。伐採の後は放っておいても、切り株から芽を出して2,30年のサイクルで炭に焼けた。
…戦争のさなかに森林は軍用材として伐採され、敗戦後は、復興のために大量の木材が消費された。高度経済成長になると、パルプの用材として、奥地まで丸裸に伐られた。〓
▽女性も米一俵を頭の上において(いただいて)運搬した「真砂へ嫁にいくと首が太うなる、なんてことも言われたね」
▽23 狩川 木材の流送。
▽26 ダムができてからズガニもエビものぼってこられないようになりました」
▽29 杉皮ぶきも熊野地方出は一般的な屋根のつくりだった。
▽35 古座川上流の松根。山林は村が所有していたが町村合併にともなって昭和10年に松根保郷会へ移行。山林を共同管理する。奨学金をしたり、運転免許取得資金を貸与したり。
…栃や樫の実を食用にしてきた。
▽56 黒炭(炭化が完了すると、空気が入らないように釜を密閉する) 白炭(炎を発している状態で、窯の外へ出し、水をふくませた灰をまぶして消す。金属性の音を立てるほど硬い炭に)
▽60 小口は昭和31年の合併以前は小口村の役場があった。昭和25年には1613人いたが、1993年には374人
▽65 畝畑は3軒に人が住んでいる。昭和35年は30戸138人。…林道が通じたのは昭和35年だったという。それまでは小口にむかって標高774メートルの大倉畑山を超えねばならなかった。標高差600余メートル。距離は10キロ。
「富山の薬売りさんはよおきたわのう」
「道路ができたとき、町長が、あんたらが引っ越しの荷物を運ぶためにつけたんやないいぜ、と言われた。そいて、37年に電気がついて祝賀会もしたけど、もう22軒に減っとったな」。現在常住は2戸8人だけだ。
小学校「ことし廃校に。それまでは休校やった」。休校は昭和51年3月という。
…高倉神社 社殿はなく…木が御神体。
藤田観光株式会社(山林の地主)
▽84 正月の門松は、椎と榊だった。
▽91 大倉畑山(おめきの山?〓) ザレ山峠 別名辞職峠。教師や巡査が赴任すると、小口から峠はのぼってくるが、その坂道を思案坂という。…やめようかな、と思案する。そして峠に立ち、さらに剣難な山や渓谷を見て、辞職を決意するというのだ。
「寒川萬七「紀伊路の歴史ロマンを歩く」によれば昭和2年2月26日、北ノ川分校の青年教師根本安太郎は、所用をすませて小口から帰る途中で遭難死したという。…1週間後に北ノ川の支流、東谷で遺体が見つかった。(これがオメキの話?〓)
▽111 大塔川では、大正の末に製材所がなくなり、板筏も姿を消す。…奥地でも運搬に手間がかかるような大木が少なくなったのである。普通の丸太であれば、板にひかなくても運び出せる。河口の工場では電気を使うようになったが、奥地では追随できなかった。
▽115 朝香宮がきたとき…/「宮さまは請川を通るとき、大逆人を出したのはこの川か、って言われたとか、そがな噂もあったわよう」…請川村の成石にすむ成石勘三郎、平四郎兄弟が大逆事件に連座。平四郎は絞首刑。成石橋の近くにふたりの墓がある。
▽133 大塔山の自然保護運動…後藤伸さん(昭和4年生まれ)
▽142 仏壇の樒、神道の榊の小枝を採取する「花切り」は大塔山周辺における最大の産業に。
▽168 米を作るより収益がよい
 旧11月7日は山の神の祭り
 祭りでは相撲大会。テレビなどの影響で、草相撲はすたれていった。そのころ青年たちの多くは山仕事をすてて町へ転職し、力士もいなくなった。
▽177 牛鬼 紀伊半島では熊野川や古座川のお口でも語られてきた。
▽188 大塔村は昭和30年代、過疎対策で、辺地の集落から村の中心部に人びとを集めようとした。集落再編で、役場に近い鮎川下附地区に西大谷から41世帯が入居した。西大谷からは数年後人が消える。「西大谷愛郷会」乳大師の信仰。
▽193 椿の柴(葉っぱ)にきざみ煙草を巻いて吸う「柴巻」。野良や庭で手を休めることができない女の喫煙に向いていた。男性の煙管とともに、明治生まれの人びとを最後に見られなくなった。
▽195 百間山渓谷のカモシカ牧場 今もある?
▽208 あすなろ木守の郷

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