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最後の人 詩人・高群逸枝<石牟礼道子>

■藤原書店202303
 高群逸枝と石牟礼道子は出会ってはいない。でも石牟礼は高群を母か姉のように思い、逸枝とその夫の橋本憲三は石牟礼のことを後継者のようにかんじていた。
 逸枝が亡くなった2年後の1966年、道子は逸枝と憲三の住まいだった東京・世田谷の「森の家」に数カ月滞在する。
 「先生」と呼ぶ憲三とくらす日々の描写からはじまる。
 理解できない表現が多い。途方に暮れながら読み進めると少しずつ、道子の心の森にわけいっていくような錯覚をおぼえる。道子は「森の家」で憲三と交流することで、逸枝の心と同化していくのだ。
 この本は最初から順番にすべてを読む必要はない。わからないところは飛ばせばよい。ところどころ、道子=逸枝=憲三の宇宙につながる穴があいている。「評伝」ではなく、3人の宇宙につながるバイブルか経典のようだ。 
 高群逸枝と橋本憲三は熊本に生まれる。逸枝は、観音様の生まれ変わりと呼ばれ、みずからもそうかんじていた。24歳で遍路をした「娘巡礼記」はみずみずしく若々しい感性があふれている。女性としても魅力的だったらしい。婚約者の憲三とほかの男性との三角関係に悩んだ末の巡礼だった。
 教師をやめて26歳で上京すると、憲三もそれを追って東京にでて、平凡社の創業にかかわる。当時の左翼の文化運動などにもかかわり、2人の家はたまり場になっていた。それがいやで逸枝は家出をするのだけど、その時に憲三にあてた手紙は、「あなたをとても好きです」というラブレターだった。それを見て憲三は飲み友だちをつれてくるのをやめ、平凡社をやめ、逸枝のための専属編集者になった。
 そして、鹿鳴館の材料を活用したという「森の家」を入手し、「面会お断り」の看板を掲示する。家事を担い、逸枝の研究生活をささえることに献身する。
 逸枝は、日本の婚姻は「嫁入婚」ではなく招婿婚だったことをあきらかにする。だから嫁姑の問題などはなく、女性が死んだとき、夫の実家ではなく自分の実家の墓にはいった。皇后は、女御や内侍として入内し、事後的に選ばれて立后するが、死ねば氏族の墓地に葬られた。天皇家に厳格な意味で嫁取婚が発生したのは明治以後だという。
 政治的にリベラルな男でも家ではいばることは多く、「共産党、家に帰れば天皇制」といわれるが、逸枝と憲三の関係は日本的な「家制度」とは正反対だった。
「男の一生を棒に振って女房につくした」と言われても憲三は気にしない。それどころか「日本の家庭の爆破にいささか協力しただけですよ」という。
 憲三は心から逸枝を愛し支えていた。こんな人はもう二度とあらわれない。石牟礼はそう確信して「最後の人」というタイトルをつけた。
 1964年、逸枝は重い病で入院する。ある夜、「われわれはほんとうに幸せでしたね」「手をにぎってください」。そう言ってわかれた夜に亡くなった。
「私がいかにあなたを好きだったか、いつでもあなたが出てくると、私は何もかもすべてを打っちゃって、すっ飛んでいった。『火の国』はあなたにあとを委せてよいと思う。もう筋道はできているのだし、あなたは私の何もかもをよく知っているのだから、しまいまで書いておいてください。ほんとうに私たちは一体になりました」
 そう言い残した逸枝のために、憲三は「火の国の女の日記」にとりかかる。泣きながら浄書するあいだは、さびしさをまぎらすことができた。
「世にもすばらしい女性でした。70歳になって病気になるまで、彼女の魂も女体も少女のようにつつましくきよらかで、完璧でした。…僕でなくても他の男性であっても、彼女は相手にそのような至福をあたえずにはやまないものを無限に持っていた女性でした」

 主がいなくなった「森の家」で憲三は、「火の国の女の日記」をしあげ、「高群逸枝全集」を編纂する。それが完成して「森の家」を手放すことになった。膨大な本を古書店に売り、逸枝のマンドリンを焼く。跡地は児童公園になった。その最後の日々を石牟礼はともにすごした。1966年末、憲三は水俣にもどった。
 逸枝よりも憲三の思いを描いているのだけど、その後ろにシャーマンのような逸枝の存在をかんじられる。それは道子自身の姿でもある。道子は逸枝であり、逸枝は道子なのだ。

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▽憲三は逸枝のことを「逸っぺ」と呼ぶ
▽13 平安時代までは、男は、結婚とともに女の家か、あるいは新しい住居化へ「外住み」をしたようにみえます。……したがって嫁姑の争などという家族制度的な説話はほとんど見当たりません。
▽14 「ボクはね、男の一生を棒に振って女房につくした、という風におもわれているのですよ。僕は家庭爆破に、いささか協力しただけですよ。……」
▽22 平塚らいてうさんは……80歳を超した老女である。
▽27「それは世にもすばらしい女性でした。70歳になって病気になるまで、彼女の魂も女体も少女のようにつつましくきよらかで、完璧でした。…僕でなくても他の男性であっても、彼女は相手にそのような至福をあたえずにはやまないものを無限に持っていた女性でした」〓
▽43(道子銭湯へ)東京の女性たちのかぼそさ、白さは尋常のものではない。あきらかにこれは画一的人工的なやせ方というものではあるまいか。…鏡の前にかがみこんで体を洗う彼女らのしぐさは,脱衣のときのしぐさとはまた異なり、異常に入念である。洗うというよりそれは、文字どおり、磨きこむ、というにぴったりする。
▽44 古事記の美の基準 「胸幅の拾い、腰の切れた軽快な姿」…「胸幅の広い」などという条件は、生産者以外の美ではない。…女の胸の広くて健やかなのを貴んだ。
…美の条件の範囲がひろく、寛やかで、豊かであったが、後代になると、いわゆる「女らしさ」というようなせまい枠がつくられ、女性美は萎縮し「ひなにはまれな美人」というようなことばがあらわしているように、美女は都会と貴族にだけ存在するとされ、爾余のすべての世の人たちの審美眼までが曇って消えてしまった。
▽56 死にかかったのら猫にでもひたすらな愛情をかたむけて、溺れこんでいくようなひと、人間との関係では溺れこんで、死ぬような思いをして、なかなか回復しない、そんな彼女にとって「面会謝絶」「門外不出」は必然の措置だった。
▽60 豪徳寺界隈 雲水たちが竹箒ではいていたり…大杉やけやきが山内にあって、うっそうとしていたものでしたよ。
▽68 天皇は母の家で育った。そこがそのまま皇居になった。だから古代の皇后は一定の場所ではなく転々として移ったという説(古事記伝)がある。推古の言に「自分は蘇我氏の出身だ」とあるのも、欽明皇女ではあるが、母族の蘇我氏に育ったことをいうのであろう。
▽69 わが国の皇后は、嫁取婚ではない入内の仕方をしている。皇后としてではなく、女御、女官職の内侍…として入内し、事後的に選ばれて立后するが、…死ねば氏族の墓地に葬られる。天皇家に厳格な意味で嫁取婚が発生したのは明治以後であると私は思っている(日本婚姻史)
▽82 逸枝は1964年6月7日没。…玄関にはまだ、女あるじの「面会お断り」のちいさな札がかけられてあった。
▽102「ああ、もういよいよ、この家もなくなります。12月15日には引きあげです。(彼女の遺影むかって)きみ、われわれの家ももう、なくなってしまうことになりましたよ、うん。
▽104 「火の国の女の日記」を書き上げてから、…全集の話が出て、全集発行の途中で家の話がでて、しかも児童遊園地になるという話をむこうから持ってこられて、全集完了と同時にここを引きあげることになる。
▽105 「ここの馬糞をねぇ、石油缶をもってね、拾いに来たんですよ、戦争中ーー」
▽113 あれほど片時も離れまいと思っていっしょにいたのに、肝心なとき、いっしょにいなかった。共にいることができなかった。失敗した—。
完全看護制などということがわかっていれば、入院などさせなかったのです。ここで、彼女が求め続けていた森の家でのいとなみを終わることができたのに、僕がうかつにも気づかなかったから、彼女のいとなみを絶ってしまった…。
▽115 とてもおばあさんだなんてひとではなかったなあ。終生、乙女のようなひとだった…。むしろ年月と共にわかわかしくさえなってゆくような、まったく不思議きわまるひとでしたよ。
…やっぱりあれは天才だっというべきで、そんなひとが全感覚では、知覚していたかもしれない障害の終わりのときを、いっしょにいたならば、ぼくは多分、感受できたかもしれなかったが、それが凝縮される唯一のときに、共にいることができなかったとは、残念だなあ…
▽117 「火の国の女の日記」の浄書があるので、どんなにさびしさをまぎらしているかわからない」(泣きながらでもいっしょにいる思いで〓)
▽118 「私がいかにあなたを好きだったか、いつでもあなたが出てくると、私は何もかもすべてを打っちゃって、すっ飛んでいった。…火の国はあなたにあとを委せてよいと思う。もう筋道はできているのだし、あなたは私の何もかもをよく知っているのだから、しまいまで書いておいてください。ほんとうに私たちは一体になりました」…
「われわれはほんとうにしあわせでしたね」「われわれはほんとうにしあわせでした」
▽129 あなたと共にそれがあったときは、この世の無常というものさえ甘美だった…ぼくたちのベッドが、いかに広々としているか。いかにそこが冷たいか。…
▽135 あなたの感性は年々脱皮して瑞々しくなるばかりで、年輪を増す木蓮が、ようようとした花を全開させるように、花咲いていた。
▽145 「あたたかいところへ行って、しあわせに暮らしましょう。そこで最後の詩篇を書きましょう」(松江はきれいだったねぇ…〓)
▽148 あなたが世俗の慣習に従おうとして、やり出すことといったら、することなすことアホらしいからとうとう目が放せなくなった。こと洗濯のことではない。マッチ売りをして暮らしましょうだなんて、大真面目に考えて言っていた。
…あなたの一見おろかなほどの、…優柔不断さ、あいまい模糊さ、無節操なほどの無限のサービスぶりを見ていて、不思議な、無私のものを見る気がしていた。
▽155 男という存在は、その論理の組み立て方、構築のしかたがおおかた欺瞞的暴力的で、ある場合にはもう、まるまる自己顕示欲そのものにほかならぬ。
▽177(逸枝誕生)村落によっては、女房たちによる「乳付け」は、筆者がおぼえているだけでも、ここ10年くらい前までは生きていた風習で…共同体の母たちは、そこに生い育つ子どもたちに対して、すべて、乳の母、でありえた時代なのでした。(みんなの子〓)…聖観音の申し子。「あたい観音さまの子よ」
▽192 詩歌の題材として切り取ってこられる花鳥風月ではなくて、下層の、代表的生活者の魂に全的に生きていて、その生命の源泉であった風土とは左のようなものでした。…全生活をそこで生み養う風土であったからこそ、この生活者の魂によって、渡良瀬川河畔の生きていたときのありさまは、切ないかぎりをもって生き返ったのでしょう
…彼女を育てた風土のこころが、たぶん一生欠損することなく彼女自身の世界観をなしていたのでしょう。真の生活者たちは、自然を部分的な表現形式として切り取ってくるあそびなどは思いもよらず…
…逸枝は、わたしたちの時代の前の、まだ夢見てさえもいた時代の、いわば終わりのときの揺籃として育てられたのでした。自然の心を受け持つ一因として、生かされていたころの総意を体現しうる資質者として。
▽210 この国の近代詩人たちの出発はまず、大部分、故郷や家との絶縁を契機とし、それをくびきとしてひきずってゆく、という深い動向が見られます。…島崎藤村や樋口一葉らに代表される生き方の屈折とその作品群となってあらわれ…

「とうとう乞食とまでもなって 国を出たことの面白かったこと」 出郷者の解放感のようなものが、虚無の歓喜、虚無のひろがりをこめて表現されています。「石もて追はるるごとくふるさとを出でしかなしみ消ゆる時なし」などとならべると、虚無の質がちがうのに気づきます。男性詩人たちの方が屈折度が深くて、逸枝の故郷観が楽天的かというとそうでもなく、たぶんこれは、はるかな世からの性のちがいから来るように思われます。
▽215 逸枝において、その学問も、詩も論文も、中心テーマは愛、とくに恋愛、そのモラルでした。もっと切実には、1日1日の生き方のなかに、あるべき愛を求めていて、そのためにこそ彼女の芸術も学問も発露してやまず、愛しあうことができるかという一点にしぼられて、全世界は彼女のほうへ向いていました。
▽218 逸枝27歳。母の登代子が、ついの別れとなってしまった娘の上京のとき、丈高い女郎花の花のなかに立って「出世しなはりえ」とはげましたとき、彼女も「出世します」とつつしんでおじぎして答えたとあります。このやりとりは、父母の言葉でも自分の言葉でもなく、村の言葉、世間の言葉であったろうと彼女はいいます。…この出京によって、「千の矢を放ってくる、汚辱の沼熊本」から一応故郷離れができたにちがいありません。
▽228(夢で)あの、全裸でね、彼女がこのベッドの中に訪れたのです。…じつにふくよかな、あたたかい肉体をしていましてね、ああ生きているときのまんまでした。
▽231 遺骨になったあなたを、可愛く、かなしくおもいながら、骨壺をベッドの上で抱きながら全集の仕事をやっていました。
▽234 男には、女どもよりは世の中の枠組みが見え、その内容の構成が見え、いやみえずともそれらしきものを、いやがおうでもつくりあげることに甲斐性をおぼえ、その瞥見や創見のはやさを誇るのが類型のようで、それこそが男性的生き方として自らもって任じているかのようにみえます。
 けれども女は、まず自然としての自分の内部から世の中を見てゆくのです。自分の声に自分の耳でおどろき、その発する声をたしかめ言葉と倫理にして、自分自身が、ものごとの内部、内奥であることの自覚から、外界というものとかかわりを持ってゆきます。逸枝はことにそのような感性の典型でしたから…
…ぼくは彼女を通じてですね、はじめて人類を見たのです。人類というものの間にある愛というものの意味をはじめて知ったのですよ。彼女にあわなければそれはわからなかったなあ…
▽239 八代から人吉までのあいだの、川船の行程の、船泊りにあたる一勝地に、「橋本屋」という大きな船宿をひらいていました(〓〓ダムの反対運動の旅館?)
▽278 彼女に捧げた花と栗とお茶みて、先生、「逸っぺごろ,お花もろうて、お茶もあげてもろうて、よかったね、んーん、今はいい顔しているね、ヨシヨシ」とおっしゃる。わたしは涙ぐむ。
 お化粧、世界一の美人になったと先生に褒められうれしい気持ちで東京へ。…
▽290 本を積んだトラックが角をまがって行ったとき先生を見たら、先生は古賀さんの後ろ姿にていねいにおじぎをされていた。道子問にかけこみ、涙わく。大型トラックいぱいの本。競りに出されるとか。
 先生、貴女がいてくださって助かりました、とおっしゃる。握手。おいたわし。
…たいへん苦しくさびしい、死んでしまったがよいなどおっしゃり、びっくりする。本の整理のことがよほどこたえていらっしゃるのである。
▽299 私は、自分でも両手を上にふりあげて、つまりウルトラ大の字にならないとねむれぬのを承知しているので、見られたか!とおもうが、…(バンザーイの寝相〓、石牟礼さんが…意外)
…「私は彼女に言うんです、私の右足の指が一本はみだしたよ。左足におはきなさい、と彼女は言いますよ」
▽300 森の家は彼女がしつらえた幻の家であった。擬制の共同体。…二人の共同生活は、あきらかに幻の共同体であり、晩年にいたるにつけ、二人とも言葉に出して「われわれは今がいちばんしあわせですね」とたびたび確認しあっていた。
▽「あのこはほんとに天才でしたよ。…あれは原始人でもあり、未来人でもあり、したがって現代人であるわけだが。」
▽312 三笠宮からの弔電
▽ああ、もういよいよこの家もなくなります。12月15日に引きあげですよ。(彼女の遺影にむかって)きみ、われわれの家はもうなくなってしまうことになりましたよ。いっしょにかえろうね。
▽332 故郷の巷を歩けば「千の矢が飛んでくる」とも感じていた。大正9年26歳で出郷以来、その間三度ほど帰省しているが、昭和15年、父母の墓参に帰った以後は70歳で没するまで、彼女は故郷に帰ることがなかった。
▽336「僕がいきている間に、書きあげて、読ませてくださると、ありがたいのですがねえ」
▽337 森の家には「ポポ-」も〓。
▽343 彼女が目黒の国立第2病院で死んだあかときも氏はこの部屋のベッドの上でめざめておられた。
「朝は起き抜けにね、彼女は質問ぜめにするのですよ」「僕は鉢巻きをしめてね、耳をふさいで、この吸血鬼め、というんです。ひとのねむい時間を搾取するのですかと言ってね」
▽344 森の家が建てられて、研究生活がはじまる日のことについては彼女みずからが書いている。それによると、夫がこう言った。
「もう私たちも30歳をいくつか越した。ここらで性根をすえてかからねばならない。…私はあなたのもっともよい後援者になろうと思うのだ。…」「でも私には長所なんてものはないの…ただ私の希望を率直にいうなら、それは将来有名学者になることではなく、生涯無名の一坑夫に終わることなの。…こんな私をタダ一人で保護してくださるあなたをまでもたぶんまきこんでしまうことになるでしょう」「いいよ、二人でやろう」
▽350 平凡社の創業に参画。「婦人戦線」をへて…
 土地は無償で、あるとき払いでということで使わせてくれるし、鹿鳴館の門だけとか、窓だけとか、売り物に出していた。いい材料だもんで一山だけでもというわけで、軽部家でも一山買っていたんですよ。
▽353 関東大震災後の逸枝の家出。
▽357 逸枝があてもなくひとりで上京して、つづけざまに詩集出版となったころ、球磨の山のなかで教員をしていた作家志望の憲三…ひと月たつかたたぬうちに彼も上京し、手紙いっぽんで代用教員をやめ、逸枝を故郷近くの海岸まで「掠奪」して来て隠したりしている。逸枝の妊娠を知ってあらためて上京し(死産)、ようやく新居をもつのだが。
▽359盛りの家は、見たこともない一大書庫で
…書斎、茶の間はいうにおよばず、湯殿の横の小部屋、化粧部屋、寝室も踊り場も、壁面という壁面はすべて天井までとどく書誌類で埋まり…「古事記から織豊時代までの、この国で印刷されたほとんどの文献を集めたのですよ」
▽365 「森の家を維持してゆくのに、排他的な面会謝絶を行いました。友人、親類の冠婚葬祭いっさい、謝絶して過ごしました。(ぼくが重態になっても)絶対に知らせてはいけません」
▽380 逸枝のまなうらには、自分ら亡きあとに朽ちてゆく森の家のたたずまいが、重なって見えていたことであろう。夫憲三が妻の勉強のために、この国ではじめて建てた女性史学事始めの家も、それを護り包んでいた森も朽ち果てる…
森の家とは…高群逸枝とその夫憲三の住んでいた、最初のクニというか、祭祀所を意味していた。
…逸枝が現代人、知識人にまれに見る霊威(沖縄あたりの女性たちに保たれていて、おなり神であるとされるセジ)
逸枝の詩業は、琉球あたりの神女たちによってうたい残されてきたオモロなどに似ていると思う。現代語が衰微してゆくなかで、いよいよ詩の輝きを失わぬそのオモロや上代叙事詩の、現代への復活を希うものではなかったか。
オモロの生きていた時代は、その霊力と感応しあう人々の宗教共同体があってのことだった。今や、その相感能力を失った現代社会における、悲劇としての聞得大君の精神の継承者が、高群逸枝ではなかったろうか。
▽388 森の家をめぐる聖と俗とを考えようとして久高島を訪ねた。久高島の描写(たしかに独特の空気感がみなぎっていた)
不知火海海域の各地に「あのひとはまんまんさまぞ」「悶え神さま」と称ばれる人美とがいる。現代のまっただなかにつれてくるならば、うすらバカといわれそうな生まれつきの人は「まんまんさま」と敬い…この気風とて、水俣病事態でいっきょに粉砕されつつある。
▽390 脱落者とされる人びとを、目ざわりとして葬りはじめたのが、近代市民社会であった。非情の時代になってきたとき、絶対弱者たちの意識の表現者、聖痕を負う者の悶えの表現者は詩人でなければならないと彼女は考えていた。なぜなら詩人たるものの唯一の取り柄といえば、「巷を歩けば千の矢が突きささ」り、風にも耐ええぬ魂を抱いていることだけである。
▽392 「彼女はとても悲惨でした。僕は気の毒で気の毒で見ていられませんでした。彼女が機嫌よくしていればいるほど…」
 四国巡礼 最下辺にうごめいている者たちと接し、…彼女を観音の化身に見立てて慕い寄っている。
▽394 逸枝の家…学校長の家というものは、村における最高の知識人であったと思われる。
▽396 巡礼にでるときの憲三のはなむけの言葉「丈夫なズロースをはいておいでなさいよ」
▽402 「戸口に立って物を乞い、川原に行き暮れて野宿し、暗い夜道を峠へ越える、馴れてみれば、これらのことも、一つの動作にすぎない」という心境に達し…「私の心のなかには、泥まみれな無数のものや、ありとあらゆる悪罪が、すこしも傷つけられないではいっている」というのを読めば、(仏やドストエフスキー文学にみる)普遍の領域を把握しつつあったのだろう。
▽407 校長先生の「ご令嬢」である村の貴種から、流離する貴種となったのである。
▽408 恋のはじめのころ、婚約のあかしを早く見たくて、彼女は憲三に遠慮がちな声で申し出た。「父に、あなたから、手紙を書いていただけませんでしょうか」…「あの、面倒ならば…わたしが替わって書いてもいいのです。熱烈に、書きますから」
▽418 久高島のイザイホーの秘儀 逸枝の推定した上古の姫彦制と母系社会がうつつにここによみがえっている。…上古の男たちは、懐胎し、産むものにむきあったとき、自己とは異なる性の神秘や奥深さに畏怖をもち、神だと把握した。そのような把握力のつよさに対して女たちもまた、男を神として崇めずにはおれなかった。
…憲三はその妻を、神と称んではばからなかった。
▽428 日本共産党熊本県芦北地区の、非合法の主婦党員でした。サークル村に参加することと、入党することは、いまだ書かれざる近代思想史がどうあれ、私にとっては突然湧いてきた美学でした。
▽436 水俣の栄町の同じ町内に、橋本商店という食料品のお店があったんです…そのお店が橋本憲三さんご姉妹の家とは知るよしもなく…。
▽441 (1958年ごろ)サークル村に行ってみたら、当時の観念語がはやっているんです。谷川雁さんの観念語を炭鉱の坑夫たちまで真似をして。水俣でも「統一」や「団結」という言葉を使いはじめて…
▽443 平塚らいてうさんは逸枝さんのことを「お化粧が好きな方で、大きな鏡があって、いつもきれいにおめかしをしておられました」…らいてうさん、実際お目にかかったら、たおやかな女性で、とても好意をもちました。
▽446 森の家の前身は梁山泊状態。憲三さんがいろいろな人を連れてきて、料理が増えてな逸枝さんを働かせて、大変にぎわっていた時代がつづいて。それだもんで逸枝さんが家出をなさった。その家での手紙が…「あなたをとても好きです」というような逸枝さんの憲三先生にたいするラブレターなんです。それを見て憲三先生はきっぱりと飲み友だちを連れてこられなくなった。…しばらくして平凡社を…退職なさった。逸枝さん一人のための、専属編集者になられました。
▽454「最後の人」 こういう男の人は出てこないだろうと。高群逸枝さんの夫が「最後の人」でした。
▽457 私は、谷川雁さんの思想を、自分の最終の思想にしてしまってもよいとそれまでおもっていた…日本の近代の思想は挫折派の系譜であり谷川雁さんを最後の人として凄絶な終焉をみた、と思っていたので…
 …高群逸枝の思想は、日本近代思想の終焉にあたり、思想史的にみても、人類史がもちうる希望への予言にみちてゆるぎない。彼女の思想は彼女自身が女体である故に顕現するほかなかった菩薩行ではなかったか。
〓石牟礼道子は、西川祐子先生の本を読んでいた。

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