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新版 死を想う われらも終には仏なり<石牟礼道子、伊藤比呂美>

■平凡社新書 20230319
  シャーマンのような石牟礼と、娘世代の詩人伊藤の「死」をめぐる対談。
 いつも「死」の隣にいて、死のうとする人によりそい、自らも自殺未遂をくりかえした石牟礼だからこそ、伊藤の「死」についての直球の疑問に真正面からこたえる。
 石牟礼は生涯、生きにくさをかんじて鬱状態だというが、ひょうひょうとして、「それまでの耐えがたい苦しみが消える……最後の、とっておきの最大のたのしみ。終りの刻が、必ず来ると思えば、何という救いであろうか」「現世はどっちみち苦しい。誰でも苦しい。だからせめて、後生を願いに行く」と死を心待ちにする。現世を苦ととらえると、重いはずの死が軽くかんじられる。
 鶴見和子が2006年に死ぬ直前に弟の俊輔にのこした「死ぬというのは面白い体験ね。こんなの初めてだワ。こんな経験するとは思わなかった。人生って面白いことが一杯あるのね。こんなに長く生きてもまだ知らないことがあるなんて面白い!! 驚いた!!」という言葉もすばらしい。

 人が死ぬと、身内が風呂にいれて、一人ひとりどこかを洗って(湯灌)、「良か所に行きませな」と言って拭いてあげた。そうやって石牟礼は父母を送った。それが近代以前の「死」の形だった。
 「いつお腹を減らした若い人が来るかもわからん、足らん足らんで炊くな。4、5人分くらいは多く炊け」と石牟礼の母は、いつも来客にそなえていた。
乞食のような人を「勧進どん」と呼び、「弘法大師様の生まれ変わりであんなさるかもしれない」「粗末にするとちゃんと見ていなさる」「(米などを)差し上げる役目は子供でなくちゃいかん。大人が出ていくと、乞食さんが気兼ねをなさる」と大切にした。
 ぼくの熊本の祖母も見知らぬ旅人(巡礼や物乞い)にふるまい、「客が来てくれないような家にしていかんばい」と言い、毎朝仏壇の前で法華経と祖先の名をとなえていた。それが近代以前からつたわる倫理だったのだろう。
 そういう倫理も、故人を家で見送る習慣も消えてしまった。ぼくの祖母の最期は病院だった。
 近所の若い女郎が殺されたとき、みんなが「南無阿弥陀仏」ととなえたという。「かなしいね」「かわいそうに」ではぴったりこない。南無阿弥陀仏にかわる言葉は意外に見つからない。簡単な経文が「救い」をもたらしてくれる。それもまた前近代の知恵なのだろう。
 石牟礼はアニミズムを体現している。
「アニミズムの根本は生命ですね。……風土に満ち満ちている生命、カニの子供のようなのから、微生物のようなものから、潮が引いていくと遠浅の海岸に立てば、もうそういう小さな者たちの声が、ミシミシミシミシ遍満している気配がするでしょう」
 後白河方法が編纂した「梁塵秘抄」や「日本霊異記」、世阿弥の「風姿花伝」などの話も興味深かった。

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▽死ぬというのは面白い体験ね。こんなの初めてだワ。こんな経験するとは思わなかった。人生って面白いことが一杯あるのね。こんなに長く生きてもまだ知らないことがあるなんて面白い!!驚いた!! 二〇〇六年七月三十一日に逝去された、鶴見和子さんの最期のお言葉である。
▽それまでの耐えがたい苦しみが消えるのである。最後の、とっておきの最大のたのしみ。終りの刻が、必ず来ると思えば、何という救いであろうか。
▽ それまでの耐えがたい苦しみが消えるのである。最後の、とっておきの最大のたのしみ。終りの刻が、必ず来ると思えば、何という救いであろうか。
伊藤 やっぱり浄土ですか。なるほど。「良か所」って、いい言葉ですね。最近、なんでもかんでも「天国」と言うでしょう、天国のお父さんへとか。
▽ 祖父は四国遍路に行ったりしていました。ごんさいさんと別れてからですね。四国遍路に行って、だから長い間、金剛杖が家に置いてあった。
▽(近所の女郎が亡くなったとき)ふつうの言葉では何を言っても、表現できないです。「可哀そうに」というのももちろんあるでしょうけど、哀れというか、殺されてしまってとか、いろいろあるでしょうけれど、何を言ってもやっぱり「南無阿弥陀仏」が一番ふさわしいんじゃないでしょうか。(たしかに〓)
▽ 死んだときも、お柩に納めるまでは、死んだ人をとても丁寧に扱いますね。身内が体を清めてあげるんだけど、お風呂に入れて、最後に一人ひとり、どこかを洗ってさしあげる。「湯灌」の儀式。伊藤水で?石牟礼お湯で。それで洗ってあげながら、前にも申し上げたと思うけど、「良か所に行きませな」と言いながら拭いてあげる。父のときも母の時も……
▽ 「いつお腹を減らした若い人が来るかもわからん、足らん足らんで炊くな。四、五人分くらいは多く炊け」と。いつ人が見えても食べさせてあげるようにと。(〓阿蘇のばあちゃん。ゴッドマザー。法華経をいつも唱えていた)
▽「梁塵秘抄」には、人はいかに生きてきたという手がかりがあるんです。つくった後白河法皇は、詩や和歌は後世に残せるけど、声わざ(技)は残らない。それが残念で、自分は今様その田を集めて口伝をつくった、と書いている。声を出して歌うことが、まだ芸術表現として社会的位置を与えられていなかった(それだけ声楽や歌に自信をもっていた)
▽「日本霊異記」のエロとグロにひかれる(伊藤)
▽アニミズムの根本は生命ですね。……風土に満ち満ちている生命、カニの子供のようなのから、微生物のようなものから、潮が引いていくと遠浅の海岸に立てば、もうそういう小さな者たちの声が、ミシミシミシミシ遍満している気配がするでしょう。
▽ 現世では、どっちみち苦しい。誰でも苦しい。だからせめて、後生を願いに行くって。願いに行くんですからね。
▽ずーっと小さいときから鬱だった。……じわじわひどくなっている。ちっちゃいときから早く死にたいと。
▽7つか8つから、自殺をしようとしたことは何遍も。
▽弟が29歳で汽車にひかれて死んだときも「これで弟も楽になったな」と。
▽ かねがね母が、乞食のような人たちがたくさん家には来てましたけど、家では「特に大切にせんといかん」と言っていました。やってくる乞食さんを「弘法大師様の生まれ変わりであんなさるかもしれない」「粗末にするとちゃんと見ていなさる」と。それで、もらいに来る人たちに差し上げる役目は子供でなくちゃいかん。大人が出ていくと、乞食さんが気兼ねをなさる、と。
……乞食さんは「勧進どん」
▽ この現世の悲しみもいつかは終わるんだって。そして終わった先には浄土があるんだって。「いつかは浄土へ参るべき」と思って、救いの道はある、いつかは浄土に参るんだと。
▽村々には、ひょいっと舞いだす人がいるんですよ。……大地が舞わせるという感じ。大地が興に乗ってそこにいた人をさっと舞わせる。水俣の患者さんにもそういう人がいますよ。舞神さんといわれてね。

世阿弥の「風姿花伝」

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