■新潮文庫20230317
はじめは新聞記者の文章だなぁと思って読みはじめた。ところがしだいに石牟礼道子や渡辺京二が乗り移ったように現実と幻の境をふみこえたり、もどったりする。
正気と狂気、この世とあの世、前近代と近代、陸と海のあいだの渚。 合理主義や大量生産によって失ってしまった、多様性が息づく「あわい」を生きてきた人として石牟礼道子をえがく。
「浜辺に立ちますと、目に見えるものもですが、目に見えないものたちの気配もいっぱい充ちています。それらが混ざり合って浜辺は『生命たちの揺籃』というか、生まれたものもですが、まだ生まれない「未生のものたちの世界」でもあるように思います」
この語りは道子をもっともよくあらわしている。
「苦界浄土 わが水俣病」は、水俣病の悲惨を描くとともに、つつましく義理堅い庶民の感覚を丹念に拾うことで、人と自然が調和していた前近代的世界に光をあて、それを破壊した近代工業社会の残酷さを浮き彫りにする「私小説」だった。
石牟礼たちの水俣病のたたかいは、チッソを自分たちの目の前に立たせ、「近代」の罪をあらわにすることをめざした。だから道子は近代を前提とする「市民」という言葉を嫌った。そのかわり、患者も支援者も「死民」を名のった。おどろおどろしい「死」という文字に、ぼくは1980年代に水俣にかよっていたころ違和感をおぼえた。「公害」のはるか先を道子らが見通していたことを理解できていなかった。
道子らにとって法廷は敵を目の前に引きずりだすための手段にすぎなかった。加害者と被害者が相対で魂のぶつかりあいをしたかったが、司法制度はそれを許さず、金銭の交渉ごとに終わってしまった。
緒方正人は、相手のチッソや行政に人間の顔がなく、すべてがカネに換算されることに疑問をかんじ、「患者ち言われとうなか。チッソは俺じゃったかもしれんし」と語り、「苦海(苦界)の受難の記憶」をとりもどしたいと願った。杉本栄子は「人間の罪、それは患者である私が引き受けた」「憎んでばかりおれば、敵討ちせんならんと思っておれば、きつか。許すことにした。憎めば、きつか。チッソも許すことにした。私たち一家を汚なかもののように差別した人たちも許す」と言った。
道子の生き方をたどることで、裁判の勝ち負けと次元が異なる水俣病の本質が見えてくる。
道子は幼いときから「生きにくさ」をかかえ、何度も自殺をこころみた。人生はつらいもの、と思い定め、「もうひとつのこの世」をもとめてきた。
でも人の苦しみは見ておられない。水俣病患者によりそい、チッソ本社前数人で座りこんだ。勝算などない。患者の積年の怨恨をしめす浪花節的行動だった。いつしか「水俣病闘争のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた。
道子の祖父の吉田松太郎は石工で、天草から水俣にやってきた。新興の実業家で、だれでも迎えいれる自由な家だったが、道子が幼いときに破綻する。道子は、田舎から売られてきた「女郎」たちにかわいがられ、精神を病む祖母の「おもかさま」とすごした。
父の亀太郎が死んだとき、母のハルノは、夫や自分や子どもの生年月日も知らなかった。近代的な「数字」「制度」とは無縁の、万物と交歓する前近代のヒトだった。
旧家の石牟礼家への嫁入り後は、畑仕事がない雨の日に図書館にかよい、高群逸枝の著作に出会う。東京・世田谷にあった逸枝の自宅兼研究所に5カ月間滞在して逸枝の評伝を書いた。
道子は、旧家の次男の嫁の立場から離陸し、水俣病闘争と作家活動に没頭し、夫の住む水俣を離れて熊本市に転居する。息子の道生は「母は父の求める妻としては早くにその役目を自ら放棄していました。……静かで優しい父は黙認しました」とふりかえる。
道子51歳ぐらいからは渡辺京二が、原稿の清書や資料整理だけでなく食事もつくってささえた。
夫の弘が2015年に亡くなるとき、「普通の嫁になれなくて、ごめんね」「あなたと結婚して本当によかった」と言い、意識が混濁しはじめた夫は「うーん」とうなって道子の手を強く握ったという。
原田正純は2012年に急性骨髄性白血病で死去する直前、妻とともに道子を訪れた。「……つくづく庭をながめて、バラの花というのは、こんなにきれいだったのかななんて言いましてね。……ああやっぱりこの世の時間がなくなってきたんだなと私も思うんですよ」と原田の妻は語り、今が幸福だ幸福だと夫妻はくりかえした。その様子を「聖なる時間に私もおらせていただいているような気がした」と道子は表現した。
人の心の琴線をかんじとる感性に圧倒される。たぶんこの感性は彼女の「生きにくさ」から生じるのだろう。だとしたら、「生きにくさ」をかんじながら生きることもそれほど悪くない。
学生時代の自分になにがたりなかったのかもこの本をとおして見えてきた。
水俣とかかわって心が動かされたのは、患者さんの子どものころの話や、ごちそうになった魚や貝のおいしさだった。でも当時はそれらを「勝訴」をめざす裁判闘争の「おまけ」ぐらいに考えていた。
「生きているうちに救済を」というスローガンは、「救済」が患者さんの言葉と思えないなあとはかんじていたが、深くは考えなかった。自分の心を動かしてくれたものを「主」と考えていたら、もっと豊かなものが見えてきたのになあ、と今になって思う。
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▽59 「この世を文字で、言葉に綴り合わせられることに驚いた。文字でこの世が復元できる。生きて呼吸する世の中をその内部から復元できる。世界がぱーっと光り輝くようでした」
▽75 道子は自分の書いたものを蒸し返すことをしない人である。周囲の人が彼女の発言や書いたものに気をつけていて「発掘」するしかない。……渡辺京二が道子との会話の途中、「ちょっと待って。今の話は何? そういうものを書いていたの?」と気色ばんで道子に迫るのを、私はたびたび目撃している。
「不知火」「森の家日記」……など、多くの文献が渡辺京二の献身的な努力の成果として、発掘されてきた。
▽82 実家の吉田家は新興の実業家。だれでも親しく迎え入れる自由な雰囲気があった。……嫁入り先の石牟礼家は水俣の旧家だ。……嫁は、起きているあいだは働きどおし、明るいあいだは畑にいなければならぬ、というのが当時の封建的農家の常識である。
▽94「葭の渚」 代用教員になった18歳のとき、理科室にあった亜砒酸で自殺を試み……3回目の自殺未遂は47年7月20日、結婚してから4カ月。……1955年10月28歳の道子は夫宛の遺言を書く……子どもが病気になって自殺を思いとどまる
▽88 「死にたかった。……この世が嫌でね。……悲しい。苦しい。それを背負ってゆくのが人間だと思う。嫌でたまらないから、ものを書かずにいられないのでしょうか」
▽93 志賀狂太は夫のいる道子に恋心を抱いていた。26歳で服毒自殺。
▽98 亀太郎のような前近代の民にとって、自分の住まいを自分で作るのは,至極、自然な行いだった。水俣川の河口の村には、流木を積み上げた「寄り木」の山があちこちにあった。……集めておいて自分の家の材料にする。
▽110 六畳一間の石牟礼家を集会場として「トントンの会」ができた。職業、性などを超えた「精神の共同体」を求める「サークル運動」は戦後すぐ全国で活発になる。
▽113 「サークル村」発刊直前に谷川雁と森崎和江の同居生活がはじまる。上野英信・晴子夫妻の家は軒つづき。
……1年後、上野夫妻は福岡に転居。上野と谷川の決別で「サークル村」は機能不全に陥る。……理論的指導者で知識人の谷川と、民衆に寄り添う記録文学志向の上野は肌が合わなかったのだ。
▽131 原田正純(〜2012)「最初は保健婦さんかな、と思っていました。だって、私らが患者の家を回るのについてくるというのは、……しかし、それにしては家のなかに入ってこないのです。戸口のところで静かに立っていて……。優しい目つきをして、にこにこして……」
道子「(原田は)いつも子どもたちと遊んでおられましたね。どんなときも常にニコニコして怖い顔を見たことがありません。……子どもは原田さんの白衣の裾をつかんではなさない」
▽133 「サークル村」は「集団創造」を理念とした。その実践として「聞き書き」があった。……無名の人々の声をできるかぎりそのままの形で記す……
▽139 ろうそくは明るいですけれども高いですから、なたねの油で灯心をつくって、小灯という、そういう明かりで、みんなが寝た後で水俣病のことを調べに行ったことを書きつける(菜種を明かりにしていた江戸の文化が戦後まで〓)
▽148 1959年、熊大研究班が有機水銀説を公表。漁民は工場に乱入。「漁民騒動」
▽157 橋本憲三は、妻・高群逸枝を看取ったあと、故郷水俣にもどって、「高群逸枝雑誌」の編集に専念していた。
▽158 大宅壮一ノンフィクション賞を辞退。選考委員たちはルポルタージュと思っていた。
▽163 この私が……きのうまで他人だった男の「所有物」とはどういうことであろう。個性を尊重してくれたはずの実家の親たちでさえ、「結婚」の前にひれふしてしまう。
……雨が降る日だけ、家事労働も畑仕事も休みになる。……図書館に行った。……高群逸枝「女性の歴史」にであう。
……高群の夫の橋本憲三は、家事一切を引き受け「高群逸枝全集」などの執筆や研究をサポート。
……「森の家」世田谷の森の中にあった逸枝の自宅兼研究所。
……道子は66年6月から11月まで森の家に滞在。逸枝の評伝の構想を抱き、序章として憲三を書くつもりだった。「男の一章を棒に振って女房につくした」
▽175 「サークル村」 「聞き書き」の手法に得るものはあったが、会員らとのやりとりでは失望させられることが多かった。[革命」を語る男性も女性に向き合うと「体制」そのものにしか感じられない。]
▽憲三「私はあなたによって救われてここまできました。無に等しい私をよく愛してくれました。感謝します」。逸枝「われわれはほんとうにしあわせでしたね」……最後の2人。
▽179 憲三は逸枝のいない家を引き払って水俣にもどる。家や蔵書の始末は痛みを伴った。逸枝の蔵書が3軒の古書店に引き取られていく。……森の家は解体され、公営の公園になる。世田谷区桜2丁目7の3の区立児童公園「桜公園」になった。「高群逸枝住居跡の碑」
▽182 憲三が逸枝につくしたように、道子も渡辺京二という編集者を得て、清書や資料整理だけでなく、台所もまかせることになる。
▽187 道生「母は父の求める妻としては早くにその役目を自ら放棄していました。……静かで優しい父は黙認しました。……父は善き夫の役割を果たしてきたと思います……」
▽190 水俣病闘争 NHK職員も熊本日日新聞記者も加わる。
……チッソの存在は強大だった。数人で座り込みをしたところで事態が動くとはだれも思わなかったろう。渡辺「告発する会をつくるのだから、つくる前に自分でやってみせるという気持ちでした。座り込みが一番直接的に自分の気持ちを表現できることでしたから」
▽200 道子は、同時代の市民運動家らが偏愛する「市民」という言葉を忌み嫌う。「市民」は近代を前提にしている以上、道子が拒絶するのは当然だろう。……水俣病のなかでは「市民」はわたしの占有領域のなかには存在しない。いるのは「村のにんげん」たちだけである。
患者も支援者らもみんな「死民」である。。おどろおどろしい「死」という文字が人々を震撼させた。
▽203 「石牟礼道子の考え方、理念が『告発』の考え方,理念になった」と渡辺。「苦界浄土 わが水俣病」は、水俣病の悲惨を描くとともに、近代的価値観とは無縁の場所で充実した生を営む前近代的生活民に光をあてた作品である。
▽210 患者の積年の怨恨を占めそうとした支援者の浪花節的行動は、一定の支持を得た。占拠後、京都、大阪、名古屋、福岡など各地に告発する会ができた。
▽222 法廷は生活民が敵チッソを引きずり出すためにやむを得ずえらんだ場にすぎぬという、この裁判の本質を、……「(法など介在せぬ)あいたいの話し合いのなかにしか真実は成立しない」という生活民の感覚と論理を、みじんも変えはしなかったのである
▽225 加害者と被害者の相対というしあkたで魂のぶつかりあいをしてみたかったのだが、近代の司法制度はそれを許さず、金銭の交渉ごとに終わってしまった。
▽239 細川医師はチッソ退職後、故郷愛媛の三甁病院内科などで。新潟水俣病の現地調査に宇井純らと参加。末期の肺がんに。1970年、第一次訴訟の臨床尋問。
▽267 古老と向き合う際、道子はメモをとらなかった。
▽269杉本栄子について「憎んでばかりおれば、敵討ちせんならんと思っておれば、きつか。許すことにした。憎めば、きつか。チッソも許すことにした。私たち一家を汚なかもののように差別した人たちも許す。涙ばいっぱい浮かべてそげん言いなさった」
▽269 「私が体験している病気はたいそうつらいのです。……しかし他の人には感じとれないことを、感じます、考えます。いわば人間としての資格を得ている。病気は神様からのいただきものと思うことがあるのです。だからこそ、生きている時間をおろそかにしてはいけない」
▽273 カリガリ 告発する会の拠点として名をはせた……2014年3月の閉店まで42年間余り、「文化とジャーナリズムのるつぼ」として存在感を放つことに……1年半ぶりに復活。。
▽283 チッソ本社前泊まり込み 「人や風景を下から見上げますから。目線がひとさまのひざから下にしか行かない。ひざから下の東京を体験しました」
▽298 伊藤比呂美「とげ抜きーー新巣鴨地蔵縁起」
▽327 「(座り込みで)地べたに寝転がったとき、思いましたね、天草・島原の乱の原城の人たちも同じ気持ちではなかったのかと。私たちは子孫。つながっておるのだ。先祖たちの霊がきて乗り移ったのだ。これから先、命があったら、天草・島原の乱を書きたい……」「春の城」
「近代」を根こそぎ問うはずが、金銭の交渉ごとに終わってしまった水俣病闘争。一方、乱を起こした一揆衆の目的はパライゾをこの世につくることではない。「この世の境界を越えたところにいまひとつのこの世が在るということでございます」と四郎は言う。
▽336 (苦界浄土を)「誰も彼も、もうすっかり聞き書きリアリズムだと思いこんでいる。あんまりおもいこまれると、つまり私の方法論にこうもすっかりみんな完全にだまされてしまうと、がっかりする」
……渡辺京二が文庫版解説で、「あの人が心のなかで言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」という道子の言葉を紹介するなどして道子の「方法論」の一端を明かし、「『苦界浄土』は石牟礼道子の私小説である」と断じた解説は、読書界の見方を一変させた。
▽339 鶴見和子(1918〜2006)らの不知火海総合学術調査団は道子の懇請にこたえてできた。……色川はじめメンバーへの不満はない。が、日を重ねるほど、何かがちがう、何かが足りないとの思いを払拭することができなかった。
▽353 渚「浜辺に立ちますと、目に見えるものもですが、目に見えないものたちの気配もいっぱい充ちています。それらが混ざり合って浜辺は『生命たちの揺籃』というか、生まれたものもですが、まだ生まれない「未生のものたちの世界」でもあるように思います」
▽360 あの世とこの世の境が渚である。
「患者ち言われとうなか。チッソは俺じゃったかもしれんし」という緒方正人や、「人間の罪、それは患者である私が引き受けた」と語る杉本栄子の存在感。
▽362 「付き添い」と称しつつ、チッソの株主総会乗り込みや本社占拠の実質的原動力となった道子のパワーは、地元の妖怪ガーゴを飛び越えて、異国の妖怪を思わせた。
▽363 緒方は、……チッソや行政と激しくやり合ったが、やがて向き合う相手に人間の顔がないのに気づく。すべてがカネに換算される。「チッソは私であった」と思う。「苦海(苦界)の受難の記憶」を取り戻したいと願った。
▽367 夫の弘が体調を崩したのは2015年。(2006年に直腸がんの手術)
「普通の嫁になれなくて、ごめんね」道子は涙をこぼした。「あなたと結婚して本当によかった」意識が混濁しはじめた弘は「うーん」とうなり、道子の手をいっそう強く握った。
▽376 原田は2012年6月11日、急性骨髄性白血病で死去した。77歳。……亡くなる前、道子の仕事場へ。「今まで原田が元気で、外に行っているときは、何をしているのだろうと思っておりましたけれども、このごろはいつもそばについておりますのよ。……つくづく庭をながめて、バラの花というのは、こんなにきれいだったのかななんて言いましてね。……ああやっぱりこの世の時間がなくなってきたんだなと私も思うんですよ」……今が幸福だ幸福だとご夫婦で言い合われているのをうかがっていて、聖なる時間に私もおらせていただいているような気がした。
▽380 美智子皇后とは2013年、鶴見和子をしのぶ山百合忌で隣同士になった。「今度水俣に行きます」
▽400 渡辺京二が道子の飯をつくる。1978年、道子が51歳のとき、真宗寺の脇に居をかまえた。遅くともこの年には食事作りがスタート。
……「道子さんは贅沢な人でねー、猫と一緒なんです。……私が自分でおいしくできたと思ったものはぺろっと食べちゃう。きょうは今ひとつかなと思ったときは案の定、食べない……わがままといえばわがままですよね……まずいものは食べないという精神がすごいよ」
「自分でも料理がお上手だから、見た目重視。彩りが豊かだと、『わー』と言って食べてくださる」
「京二先生は石牟礼さんから教えてもらって料理をするようになったのですよ」
「京二先生は煮染めをを毎日つくります。里芋、ゴボウ、ニンジン、コンニャク、シイタケは定番。……あらかじめ皮をむいてある野菜など絶対使わない。冷凍も使わない……いためて蒸す。一回火を止める。こうすると野菜の旨みがぐっと出てくる」
▽413 道子は、オーラのように身にまとったカリスマ性から「水俣病闘争のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた。
……「渚は海の呼吸が陸にあがるところ。陸の呼吸が海に行くところ。渚は行き来する生命で結ばれている。コンクリートでは生物は息ができない」
▽421 水俣の人情の厚さ、つつましく義理堅い庶民の感覚を丹念に拾うことで、人と自然が調和していた前近代的世界を破壊した近代工業社会の残酷さが浮き彫りになるのだ。
▽423 「石牟礼さんがいなければ水俣病事件は”損害賠償請求事件”の域を出なかったでしょうね。幻想的詩人でシャーマンの石牟礼さんだからこそ、反近代にとどまらず、人類史的な長い射程で水俣をとらえることができた……その思想をディレクションしたのが渡辺さんだった」
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