■理想だらけの戦時下日本<井上寿一>ちくま新書 2015/04/06
国民精神総動員運動と大政翼賛会はどちらも日本の全体主義体制の構成要素という認識だった。精神総動員から大政翼賛会への動きは直線的に進行したと思っていた。
だがこの本によると、政党が中心だった前者を、新体制である後者がねじ伏せる経緯だったという。
第一次近衛内閣でこの運動がはじまった。有閑階級を非難し平等を志向した。ある意味で社会主義的な運動でもあった。当初は国民の多くが支持し、とくに農村では活発だったが、都市部では思うように進まない。
日中戦争が泥沼化して次々に傷病兵が帰るようになっても、都会では驕奢な生活をする人が多く、「戦時下」の雰囲気はなかった。外地と国内の都市の意識差は歴然としていた。
内地が「戦時下」となるのは1939年夏にアメリカが禁輸に踏み切ってからだ。だがそれによって質実剛健を旨とする精神総動員が実現したわけではない。物資不足によって売り惜しみや買いあさりが横行した。
総動員運動には、国民の意見を下から反映するために政党が加わっていた。だが思うような成果が上がらない。第二次近衛内閣は「新体制」を標榜し、政党は解散した。同時に総動員運動も解散となり、「大政翼賛会」がつくられた。下からの全体主義を志向した政党側の敗北だった。
ドイツやイタリアのファシズムを目指しながらも、日本にはヒトラーやムッソリーニのような英雄が現れず、精神を総動員する体制づくりは成功しなかったと筆者は述べる。大政翼賛会の時代でさえも、独裁政治よりも政党政治のほうが支持されていたという。
意外な指摘だった。
では、「精神総動員」が失敗したのに、「非国民」を排除し戦争に熱狂する社会がなぜできてしまったのだろう。そのへんの疑問が残った。
不満分子になり得る有閑階級への攻撃が奏功することで、まじめで忠実な農民中心の国家ができた、ということなのだろうか。だとしたら、ナチスドイツよりもポル・ポトのカンボジアに近いのかもしれない。
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▽54 精動運動は、1938年から国旗掲揚運動を展開する。それまでも祝祭日には国旗掲揚が決まりだったが、掲揚率は火受かった。…の沿線の調査では、掲揚率は16%にすぎなかった。
▽80 下意を上達する経路は政党だった。精動運動は官製運動であるかぎり、成功の見込みはなかった。政党の力が必要だった。
▽86 大家の講演は不人気。ラジオや紙芝居を活用。ラジオニュースで、出征兵士の安否情報を求めた。ジオラマや漫画も。
▽93 1939年の記事では、戦争景気にわく人たちが娯楽映画に繰り出していた。「銃後の巷に氾濫する有閑風景」
ハリウッド映画が人気。
1939年の映画法。事前検閲を強化。小津安二郎の「お茶漬けの味」がこれによって日の目を見なかった。
▽108 上流階級は不熱心。熱心だった地方の下流階級は、長期化する戦争の影響を強く受けて運動に疲れが出るようになる。都市対地方、上流階層対下流階層の利害対立。
▽128 国防婦人会の、割烹着とたすきがけは、大阪国防婦人会の発案による、精動運動にふさわしい女性の制服だった。台所に閉じ込められていた過程の女性たちが戦争を通して社会に出るようになった。
▽135 下流階層と上流階層の対立は、国防婦人会と愛国婦人会の対立をもたらす。「愛国婦人会は金品贈与主義」と批判。
▽142 学生の勤労奉仕がヒトラーユーゲントの影響。
ドイツが民族を強調する上からの強制的な国民動員だとすれば、日本は上下の区別なく、共同体を志向する国民動員だった。
▽154 隣組 下意上達の「民主主義」の強調。常会の参加者は戸主が原則だったが、「町会に夫人を参加させよ」と、男女間の平準化圧力が働くようになる。総力戦体制下では、「婦人の力を無視することはできない」
▽163 産業報国運動に参加すれば労組組織率は上がる。国と労組は協調的な関係だった。
▽173 精動にとって、家庭報国運動の模範国はドイツ。伍堂はドイツ国民がヒトラーのもとで平等であることに感心した。精動運動は、ヒトラーのドイツが平等の国であるように、日本も平等な国に作り替えようとする国民運動だった〓。
▽190 贅沢全廃運動 市内の目抜きの場所で「自粛カード」を上流階層の女性に手渡す。「華美な服装はつつしみましょう/指輪はこの際全廃しましょう」。社会の平準化圧力を背景として効果覿面だった。
▽192 農村重視。国民健康保険の普及計画を800万人から1400万人へと拡充する。
▽212 厚生省官僚の村田五郎「日本にはムッソリーニのように国民の全幅の尊敬を受けている人物がいないのを淋しく思った」。日本精神を掲げて国をまとめる政治指導者を欠く日本は、ファシズム国になりたくてもなれなかった。
▽212 ドイツは日中戦争の長期化を憂慮。ドイツの和平斡旋を日本は無にしていた。…
村田「世界各国の対日感情は想像以上に悪く、これには私も心から驚いた」「世界各国からどれくらい嫌われていたか」を痛感した。
▽216 独ソ不可侵条約によって、日独関係はよそよそしくなり、国民の気持ちはドイツから離れていく。
▽220 1940年に再び(精動をはじめた)近衛が首相の座に。今度は、特定の社会階層を狙い撃ちする。富裕層の女性がターゲット。「贅沢全廃」。
欧州の戦争がおこり、戦時下の生活状態が伝えられる。精動運動は息を吹き返す。
▽230 戦時下を忘れさせる銃後の生活も、1939年夏までだった。アメリカの対日制裁が本格化する。9月1日には第二次欧州大戦が勃発する。不安にかられた国民は買いだめに走る。他方で商人は「売り惜しみ」。都市から農村へ、買いあさりが横行する。なりふり構わぬ上流階層の買い占めがはなはだしくなる。
▽235 厭戦気分が国民を圧していく。戦争目的がわからないままに、国民は投げやりになっていた。強力な政治体制と日中戦争の解決が必要だった。
▽242 精動本部の文書は政党を擁護する。「政党が国民の総意を代表するものであるならその権限を絶対に縮小すべき物ではない」「党が真に国民を代表するならば党国家は独裁制ということは誤り」。=新体制否定論。精動運動の推進勢力は政党だった。
だが、近衛の新体制とともに、政党が次々に解党して新体制になだれ込む。大政翼賛会となって、近衛新体制が実現すると、精動本部も解散を決議せざるを得なくなった。
▽250 1941年の思想調査概況によると、「独裁政治がよいと思います」が1.3%、「政党政治がよいと思います」が6.9%。青年層が求めていたのは、独伊型のファシズム国家ではなく政党政治の国家だった。
▽255 戦前昭和の時代においてすでに家族共同体も地域共同体も失われていた。家族の相互扶助は行政が代替する。隣組は新たに作り出す。精動側は「わが国には古来、隣保相扶ける美風がありました」。相互扶助は想像上の精神だった。今の「日本を取り戻す」とのキャンペーン。取り戻すべき日本はどこにあるのか。少なくとも戦前昭和よりも昔のようである。そんな昔の日本を取り戻すことにどれほどの意味があるのか。
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