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内灘夫人<五木寛之>

■内灘夫人<五木寛之>新潮文庫 20150318
 主人公の霧子は学生だった1950年代、米軍の射撃訓練場建設に反対する石川県の内灘闘争に参加した。それから15年後、同志だったはずの夫は実業家になった。その裏切りに傷つき、夫婦間は冷え切り、霧子は女友達と遊び狂う。
 そんなとき、昔の夫にそっくりの学生・克巳に出会う。
 克巳もその恋人も学生運動にのめりこんでいる。真剣に革命を起こそうと考えている。「あなたとぼくはおそらく現在の社会機構の中で対立する階層に属しているはずだ」といった会話が当たり前のように交わされる。その青臭さがこそばゆくもあり、うらやましくもある。
 克巳は運動から距離を置き、恋人と離れる。恋人は、図書館を巡る攻防で命を落とす。克巳は彼女を殺された恨みで図書館を放火しようとするが未遂に終わる。それが「過激派の犯罪」と報じられる。「それはちがう」と、自首する。
 霧子は、学生時代の内灘での日々が人生のピークだった。それから離れた自分は「死んでいる」と思っていた。あまりに躍動感にあふれた学生時代だったがゆえに、それから離れられない。
 その感覚、とてもよくわかる。弱者のために生きることこそ豊かな人生であり、そんな生き方こそが自分の幸せなのだと、公害問題にかかわるなかで、私もほんの一時期確信した。
 さらに内戦の国での生活を通して、地位や外聞にとらわれず自由に生きることの楽しさを知った。霧子と同様に、そのころの高揚感と今の生活を比べてしまうこともある。
 霧子は不幸な女として描かれているが、本当に不幸なのだろうか?
 今の自分はだめだなあ、と思ってしまうことは多いのだけど、「参照すべき幸福の時」を持つことは、自分の現在の到達点をはかるうえでの指標になる。それは大事なことではあるまいか。
 霧子は、過去が二度ともどらないことを知り、すべてを捨てて、額に汗して働こうと決意する。
 その結末は安易な気がした。平凡な暮らしを送っていると、何か満たされないものを抱いてしまうものではないのだろうか。
 そう考えてしまう私はまだ青臭いのかな。
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▽内灘の海岸「最近は団地がどんどん建ちまして…アカシア団地とか言うんです」
▽鉄板道路といった。ずっと穴のあいた鋼鉄の板がしいてあった
▽灰色のコンクリートの建物
▽192「日記を読むと、その時だけ、生き返ったような気持ちになるの。…20歳の時分にかえったような。・・・その後、現実にもどると、前よりもいっそう現在が色あせてみじめったらしく見えてくるの・・・」
▽373 プロレタリアートとしての森田克巳

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