■左右社250905
方丈の庵のことを知りたくて買ったが、「方丈記」の住まいの描写が現代にいたるまで影響を与えてきたかを紹介する本だった。退屈な部分も多かったが、芭蕉と漱石が方丈記つながることや、鴎外の娘の森茉莉を鴨長明の「真の後継者」と位置づける主張は興味深かった。
「方丈記」は原稿用紙20枚ほどの小品で、仮名で記されている。
鴨長明は下鴨神社の神官の家に生まれ、下鴨神社の河合社の禰冝になれなかったことに絶望して出家する。まず大原へ。約5年後に洛南の日野にうつり、自らの設計した一丈(3メートル)四方の庵に暮らし、「方丈記」を書いた。
方丈記は前半は、安元の大火・治承の辻風・福原遷都・養和の飢饉・元暦の地震といった、鴨長明が20代から30代のはじめにかけておこった「五大災厄」を写実的に描く。都市空間も個人住宅も廃墟になったのに、人びとは立派な住まいをつくろうとあくせくする。それを「空しいことだ」と批判する。前半は「災害記」であり「廃墟論」なのだ。
大きな戦乱や災害を体験した後世の多くの文学者が、自らの体験を「方丈記」に託して記すことになる。関東大震災を体験した芥川龍之介は「本所両国」で方丈記を引用し、堀田善衛も「方丈記私記」で東京大空襲で真っ赤に染まった空を見て「火の光に映じて、あまなく紅なる中に、風に堪へず、吹き切られたる焔、飛ぶが如くして一二町を越えつつ移りゆく。その中の人、現(うつ)し心あらむや」という「方丈記」の一節が脳裏に浮かんだ、と書いた。
「方丈記」は、五大災厄の描写につづいて、幼年期以来の住居遍歴をつづる。幼年期の父方の祖母の家は広大だったが、30代の鴨川のほとりの家は、10分の1の規模になった。方丈の庵は、鴨川の家の「百分が一に及ばず」。
日野の山に建てた「方丈の庵」とその周囲を描写し、閑居生活への満足感と俗世間の人びとの生き方への批判を記す。
自分の体験を「30年前の遠い過去の災厄」「50年以上にわたる人生における住居歴」「現在の住まいと暮らし」という3つの時制を重層させて描いた。社会史と個人史の双方を短い文章のなかに凝縮させている。「行く河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」という書き出しはそうした時間性を表していた。
大災害に遭遇し、家が落ちぶれた経験から、3メートル四方の「仮の庵」こそがもっとも安心で理想的な暮らしなのだという逆転の発想にいたる。王朝時代以来の貴族たちの住居観を視界に入れたうえで、それらの空しさを具体的に実証した。
だが最後は、「理想的な暮らし」と思いこむことじたいがまちがいではないのか、とまとめている。鴨長明のシニカルな魅力だ。
徒然草の吉田兼好もまた、形あるものは、例外なく崩壊へ向かって歩み続けるものであると実感している。
ただ、広大な邸宅と簡素な草庵という二項対立的な視点から「方丈記」が草庵暮らしの理想性を描いたのに対し、徒然草は、庭で薬草を植えるべき……などと、現実的な住まいのあり方もとりあげている。
「方丈記「徒然草」では仏道と結びつく精神性の高い境地であった閑居を描くが、近世では日常的な平凡な暮らしの楽しみをつづるのが「閑居記」となり、薄っぺらになっていく。
そんななか、芭蕉の「幻住庵記」は、閑居生活を通して、自分の生き方を自問自答しており、方丈記の深みを受け継いでいた。
清少納言や紫式部以来、久しぶりの本格的女性文学者である樋口一葉も、現実世界をはかない「浮き世」、苦しみに満ちた「憂き世」と考えた。彼女の没落意識と隠遁志向、厭世観は、「源氏物語」の「夕顔の宿」「蓬生の宿」とかかわりつつ、「方丈記」「徒然草」のような隠遁志向が見られる。古典文学と地続きの文学世界を体現していた。
夏目漱石は「方丈記」を英語訳し、鴨長明の人物像を、シェイクスピアやワーズワスと比較しながら解説を書いた。
シェイクスピアの「テンペスト」の「人間とは/夢が紡ぎ出すようなもの、そして人の生命は/眠りで終わるのだ」と「方丈記」の世界に共通するものを漱石はかんじていた。漱石は「方丈記」を、「この実在しない架空の世界」といかに対処し、いかに生きるべきかを書いた文学作品としてとらえていた。
森鴎外は31歳から61歳で亡くなるまで「観潮楼」で暮らした。漱石も鴎外も、市中の隠者のような側面があった。
鴎外の娘の森茉莉は16際でフランス文学者と結婚するが離婚した。一時再婚して仙台に暮らしたが、再び実家に戻り、母、妹、弟と暮らした。妹の結婚、母の死、弟の結婚をへて昭和16年、38歳から一人暮らしになり、1987年に84歳で没した。
長明は「齢は、歳々に高く、栖(すみか)は、折々に狭し」と書き、一間の草庵暮らしこそが、最高の住まいだと考えたが、森茉莉もアパートで一人暮らした後半生に、文学者として自由な創作活動を展開した。
森茉莉の「贅沢貧乏」は、自分の六畳一間のアパートの室内を詳述する。
茉莉の部屋に取材に訪れた室生犀星は、わずか六畳なのに、記者や写真家ら4人が部屋に入っても、不思議なことに狭苦しさを感じなかった、と記した。
維摩居士の「方丈の室」では一丈四方の部屋に3万2000の「獅子座」=仏や高僧が座る席=を包容したとされる。長明の住まいのモデルであり、森茉莉も、「床板に裂け目があり、ガスも水道も廊下まで出て使わねばならず、北東向きの窓から一日中日光がさしこまない」という貧しいアパートにそれを実現していた。
「贅沢貧乏」は、たった1部屋のアパート暮らしを、王侯貴族の精神で生きる森茉莉の自画像であり、一人の精神の王者であった「方丈記」の鴨長明のまさに正統な後継者であるという。
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▽15 方丈記に内在していた「草庵」「閑居」「廃墟」という3つの観点。
▽23 「方丈記」の5つの大きな災害、安元の大火・治承の辻風・福原遷都・養和の飢饉・元暦の地震は、鴨長明が20代から30代のはじめにかけて次々とおこった。執筆時より30年前のそれらのできごとを写実的に描く。
▽42 長明の住居歴が書かれ、そして現在の理想の草庵生活が書かれる。
……幼年期の父方の祖母の広大な住まい。30代の鴨川ほとりの家は、その十分の1の規模になった。方丈の庵は、鴨川の家に比べて「百分が一に及ばず」。最初の祖母の邸から見れば、千分の一の狭さということになる
長明は自分の体験を「30年前の遠い過去の災厄」「50年以上にわたる自分の人生における住居歴」「現在の住まいと暮らし」という性格の異なる3つの時制を重層させて「方丈記」の中に描いた。
社会史と個人史の双方を書いている。「行く河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」という書き出しによって、時間性を明示していた。
▽47 さまざまな大災害に遭遇し、広大な邸宅で育ったのに大人になって住まいが急速になってしまった、といった前半生の経験から、この頼りなげに見える「仮の庵」こそが、もっとも安心な住まいなのだという逆転の発想にいたる。草庵生活こそが理想の生活であると確信させた。
……「方丈記」は王朝時代以来の貴族たちの住居観を視界に入れたうえで、それらの空しさを具体例によって実証した。
▽60 徒然草 形あるものは、それが発生した瞬間から崩壊へ向かって歩み続けるものであり……兼好は骨身にしみて実感している。
▽67 豪華で広大な邸宅と簡素で小さな草庵という、型にはまった二項対立的な観点以外の新しい視点が徒然草では浮上してくる。機能性や実用性に力点を置く住まいの快適さの追求。現実的・世俗的な住まいのあり方にもかなりの目配りがされている。
▽81 住まいの快適さや、庭を畑にして食用植物や薬草を植えるべきなどとも書かれていた。「方丈記」が出家社の草庵暮らしの理想性を描いたのに対して「徒然草」は住まいへの観点がむしろ在俗的であった。
▽121 芭蕉の「幻住庵記」は芭蕉の俳文のなかでも、最高傑作と言われる。「おくのほそ道」の行脚を終えて、近江国の国分山の八幡宮のかたわらの草庵に逗留した。
……閑居生活を通して、自分の生き方を鋭く自問自答する「方丈記」の世界の後継者となった。
▽126 「方丈記「徒然草」では仏道と結びついた精神性・宗教性の高い境地であった閑居が、近世では日常的な平凡な暮らし方の中に楽しみを見出す傾向が強まり、その楽しさを閑居記として書くようになる。
▽152 樋口一葉。清少納言や紫式部以来、久しぶりの本格的女性文学者。
40冊あまりの日記を残している。現実世界をはかない「浮き世」として、また、苦しみに満ちた「憂き世」としても認識。……24年間の生涯で10回以上も転居。数えの18歳で父・則義と死別した。その後の、母と妹との3人暮らしの時期の住まいが、とりわけ重要である。父の没後は女戸主となった。
▽164 一葉は、現実生活では陋巷の住まいに逼塞していたが、その屈折した感情は、没落意識であり、隠遁志向であり、厭世観であった。……その住居観において、「源氏物語」の「夕顔の宿」「蓬生の宿」と深くかかわりつつ、同時に「方丈記」「徒然草」のような隠遁志向が見られる。……明治20年代後半にあって、古典文学とまさに地続きの文学世界を体現していた。
▽170 夏目漱石が「方丈記」を英語訳し、解説も書いた。……鴨長明の人物像を、シェイクスピアやワーズワスと比較しながら書いている。
▽174 近代人にとっての「方丈記」は、安穏な「閑居の文学」や、狭いながらも満足感に満ちた「住まいの文学」ではなく、リアルな災害描写や社会批判の書としての側面に注目が集まってくる。現実世界の虚妄性を鋭くつく「批判者」としての長明像に力点をおく読み方。
シェイクスピアの「テンペスト」の「人間とは/夢が紡ぎ出すようなもの、そして人の生命は/眠りで終わるのだ」と「方丈記」の一節をほぼ同列として漱石は意識していた。
……漱石は「方丈記」を、住まいの文学というよりも、「この実在しない架空の世界」といかに対処し、いかに生きるべきかを書いた文学作品としてとらえていたことの独自性が浮かび上がってくる。
▽182 森鴎外の家 千駄木の団子坂の「観潮楼」 明治25年、数え31歳の時からここで両親と同居。増築して「観潮楼」を建て、大正11年に数え61歳で没するまでをすごした。
……永井荷風も訪れて……
▽186 「市中の隠者」としての鴎外には、同時に自宅での文学的な交友も楽しんだ。「観潮楼歌会」
漱石にも鴎外も、市中の隠者のような側面がある。市隠への憧憬が、近代を代表する小説群を生みだした文学者の心の奥深くに宿っていた。
▽201 永井荷風の「日和下駄」という散策記。
市中を散歩しつつ此の年代の東京絵図を開き見れば諸処の重立った大名屋敷は大抵海陸軍御用地となってゐる。下谷佐竹の邸は調練場となり、市ヶ谷と戸塚村なる尾州侯の藩邸、小石川なる水戸の館弟も今日吾々の見る如く陸軍の所轄となり名高き庭苑も追々に踏み荒らされて行く。
▽214 森茉莉(鴎外の娘) 16際でフランス文学者と結婚するが昭和2年に離婚し、千駄木の実家で暮らした。一時再婚して仙台に暮らしたが、再び実家に戻り、母、妹の杏奴、弟の類と暮らした。妹の結婚、母の死、弟の結婚をへて昭和16年38歳から一人暮らしに。1987年に84歳で没する。
▽218 長明は「齢は、歳々に高く、栖(すみか)は、折々に狭し」と書いたが、彼にとって一間の草庵暮らしこそが、最高の住まいだった。
森茉莉も、文学者として自由な創作活動ができた一人暮らしの後半生は、50歳で出家して「方丈記」を執筆した鴨長明の生き方とどこか通底するものがある
▽220 「方丈記」の構成 人間と住まいのはかなさを格調高く述べる序文 体験した5つの天災・人災の写実的な描写 幼年期以来の住居遍歴 方丈の庵の立地と草庵内部の描写 草庵周囲の自然環境と四季の情景 近郊への散策 俗世間の人びとの生き方への批判と閑居生活への満足感 自足している現状への反省……とまとめられる。
▽221 方丈記は、強靭な文体によって、自分自身の人生を賭けて、世間の価値観を一気に無化するほどの強烈な価値判断を下した作品であった。それを住まいという観点から描ききった。
わずかに芭蕉の「幻住庵記」以外は、方丈記の真の後継者を見だせないまま現代に至っていた。そこに森の「贅沢貧乏」が現れた。
自分自身の六畳一間のアパートの室内を詳述。
茉莉の部屋に、室生犀星が取材に訪れる。……わずか六畳なのに、記者や写真家ら4人が部屋に入っても、不思議なことに狭苦しさを感じなかった。
維摩居士の「方丈の室」であった。居士は一丈四方の部屋に3万2000の「獅子座」、仏や高僧が座る席を包容したとされる。長明の住まいのモデルでもあった。
……一方、床板に裂け目があり、ガスも水道も廊下まで出て使わねばならず、北東向きの窓から一日中日光がさしこまないという現実をもしっかりと書き留めている。
……「贅沢貧乏」は、たった1部屋のアパート暮らしを、王侯貴族の精神で生きる森茉莉の自画像である。この作品を読んだ目で「方丈記」を読み返せば、鴨長明もまた、一人の精神の王者であったことがわかる。
▽248 人生探究的な「方丈記」の系譜と共に、現実的・日常的な「徒然草」の系譜が、住まいの文学において重要な役割を果たしてきた。
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