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須賀敦子全集2

■河出書房新社
 須賀敦子は1953年に24歳でパリに留学したが、パリでの暮らしはつらいものだった。帰国して一時NHK国際局で働いたあと、29歳のときカトリック留学生としてイタリアに向かった。イタリアにどっぷりつかり、貧しい鉄道員の家で育った夫ペッピーノを得た。だが彼は早世してしまう。
 みずからと周囲の人々の喪失体験を軸に、死んだ人も生きているかのように、透明感のある筆致でつづる。どれも彼女が60歳になってからの作品だ。喪失体験が死の世界の水に洗われて透明感が出るまでに時間が必要だったのかもしれない。
 細やかな情景描写が独特の空気をかもしだす。エッセーではなくこれは文学だ。

 筆者の父親は1930年代に欧米旅行をしたおぼっちゃん。その父は家の外に愛人をつくり、須賀は父の入院していた病院でその愛人を目にする。家族に迷惑をかけた父だが、亡くなるときはオリエント・エクスプレスのカップと客車の模型をほしがった。
 母は、 「終点にだれもいないより、神さまがいたほうがいいような気もするわ」と言って洗礼を受けた。そんなやわらかな母の信仰を筆者はうらやましく思った。
 両親の反対を押し切って結婚したペッピーノは、ひとつちがいの兄を21歳で、妹を18歳で失い、2年後には父親を失った。
「私たちがそれぞれ抱えていた過去の悲しみをいっしょに担うことになれば、心細かった人生を変えられるはずだ……」と結婚したが、結婚で幸せな日々が訪れると、「理不尽な別離が……ある日、自分にもなんらかのかたちでふりかかるかもしれない」という怖れが芽ばえた。友人のロサリオが30すぎで急死した3カ月後、ペッピーノは肋膜炎になって41歳で死んだ。
「その病名を知ったときから、私は夜も昼も、坂道をブレーキのきかない自転車で転げ降りていくような彼をどうやってせきとめるか、そのことしか考えなかった。死に抗って、死の手から彼をひきはなそうとして疲れはてている私を残して、あの初夏の夜、もっと疲れはてた彼は、声もかけないでひとり行ってしまった」
 20年後、夫が好きだった詩人サバが住んだトリエステの町を歩く。「20年前の6月の夜、息をひきとった夫の記憶を、彼といっしょに読んだこの詩人にいまもまだ重ねようとしているのか」という一文は、智恵子抄をつづった高村光太郎と重なる。
 「若いころ私たちは、自分の選択が、人生の曲がり目を決定していくと信じていた。……ある年齢になると、自分の選択について説明することをしなくなる。説明するにはあまりにも不合理なところで人生がすすんでいくことを、いやというほど知らされるからである」
 喪失を経験しないと実感としてはわからない言葉だろう。
 共同体や家の崩壊を描くエッセーは、高度成長以降の日本の農村で起きたムラと家族の崩壊を想起させる。
 私のごく身近な農民一家も、少しずつ崩壊し、何百年つづいていた耕作をやめてしまった。
 明治生まれのおばあさんは「人の来てくれない家が栄えるわけがない」と語り、ゴッドマザーのように大家族の心の柱になっていた。高度成長と彼女の死によって家は衰退し崩れてしまった。そんなことを思いだした。

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■ヴェネチアの宿
▽ 言葉の世界に近づけば近づくほど音楽からは遠ざかった。
▽ 1935年の暮れ、父は家業のために視察という名目で、ヨーロッパからアメリカにかけての1年近い大旅行に出かけた。……
▽ 父がふたつの家庭をもっているのを知ったのは、私がはたちのときだった。……
▽ いとこの子のかずちゃんが2歳で亡くなる 死んでいく親類 死の影
▽フランス留学から帰って3年つづけた放送局をやめて29歳でローマへ
▽父を無理矢理母に会わせてが帰ってきた。
▽サン=テグジュペリ「自分がカテドラルを建てる人間にならなければ、意味がない。できあがったカテドラルのなかに、ぬくぬくんと自分の席を得ようとする人間になってはだめだ」
▽巡礼に参加する 平和行進のよう 討論しながら歩く 体を使うことで、映像のように記憶が残る。ラスマノスを思いだす。その意味をしっかり描く。
▽「ミラノにはもう来ないの?」……「ほとんど行かない」私は言葉をにごした。あの頃のことを思いだすのがいやだから、とまでは説明しなかった。
▽両親の反対を押し切って結婚。
▽「北京語は、フランス語のつぎぐらいに、うつくしい言葉なんですって」と母。……「のらくろ」や「少年倶楽部」には、シナの言葉は滑稽で、ろくなものではないというふうにだけ書いてあったのに……
▽洗礼を受けた母 「終点にだれもいないより、神さまがいたほうがいいような気もするわ」。やわらかな母の信仰がうらやましかった。
▽ペッピーノ ひとつちがいの兄は21歳で結核で死に、妹もおなじ病気で翌年の春に18歳で死んだ。2年もしないうちに父親が死んだ。ペッピーノ自身も丈夫なほうではなかった。
……私たちがそれぞれ抱えていた過去の悲しみをいっしょに担うことになれば、心細かった人生を変えられるはずだと私たちは信じようとして、ひたすら結婚に向かって走った。
……理不尽な別離が、もしかしたらある日、彼だけでなく自分にもなんらかのかたちでふりかかるかもしれないという怖れが私のなかに芽ばえたのは、結婚をとおして手に入れた静穏と充足の日々を、かけがえのないものとして意識するようになってからだった。
▽ 友人のロサリオが30すぎたばかりで急死。それから3カ月経つか経たないうちにペッピーノが死んだ。一月前から肋膜炎で床についていたのだったが、その病名を知ったときから、私は夜も昼も、坂道をブレーキのきかない自転車で転げ降りていくような彼をどうやってせきとめるか、そのことしか考えなかった。
 死に抗って、死の手から彼をひきはなそうとして疲れはてている私を残して、あの初夏の夜、もっと疲れはてた彼は、声もかけないでひとり行ってしまった。
▽病気になった父 死の床で、おみやげにオリエント・エクスプレスのコーヒーカップと客車の模型を求めた。
若いころのオリエント・エクスプレスの旅のことを死にのぞんでも考えている。

■トリエステの坂道
▽たとえどんな遠い道のりでも乗物にはたよらないで、歩こう。それがその日、自分に課していた少ないルールのひとつだった。
……サバにこだわる……20年前の66月の夜、息をひきとった夫の記憶を、彼といっしょに読んだこの詩人にいまもまだ重ねようとしているのか。(詩人と夫と重ねる旅、智恵子抄のよう)
▽331 ペッピーノの実家3人の家族が死ぬ。ロウソクの匂いをいやがる。本人も41歳で急死。……弟夫婦が古い家具を壊してしまう。憤りながらも「不幸」を追い出してくれるのではないか、と
▽347 そのころのイタリアの庶民は、銀行預金などあたまから信用しなかった。義父のルイージ氏は、娼婦たちのカネをあずかり、封筒に名を書いて保管していた。
▽355 以前、この地方の若い娘たちにとって、田植えは大切な行事だった。夜は、奔放な性の解放区が待って居た。彼女たちは喜々として田植えに雇われていき、短い労働の季節が幕を閉じると、何人かは身ごもって村に戻った。……たいていは警察にしれないようにそっと始末した。
(〓田植え、が、イタリアでもあった。しかも出会いの場として)
▽365 夫が死に、私が日本に帰って5年目にしゅうとめも死んだ。

■エッセイ
▽472 外国語はその国に行って覚えるべきだ。大都会ではなく、その国の特色が一番残っている地方の田舎町で覚えるべきだ。
▽504 あのころ、伝統的な家族というものは、私たちを縛りつけるだけの、ただ生物的で強制的なだけの体制として、ひたすら退けられ、われわれは自ら選んだ家族としての、友人の、友人だけの共同体を選択しようとして、やっきになっていた。
▽508 わかいころ私たちは、自分の選択が、人生の曲がり目を決定していくと信じていた。……ある年齢になると、自分の選択について説明することをしなくなる。説明するにはあまりにも不合理なところで人生がすすんでいくことを、いやというほど知らされるからである。
▽514 (共同体が家が崩壊する。高度経済成長時代の日本で起きたムラの崩壊と家族の崩壊 哲学があったばあちゃん、人が来ないような家は……と)〓
▽534 16世紀の反宗教改革の時代、宗教裁判でも悪名高いパオロ4世というナポリ人の教皇が(ユダヤ人の)地区を城壁で囲んで、門をもうけ、ユダヤ人が自由に出入りできないようにしてしまったようです。その地区が「ゲット」と呼ばれるようになったのですが……
▽543 ジェノワ ジーンズは、ジェノワのフランス語読みジェーヌが語源で「ジェノワ綿布」を意味し、むかしジェノワからアメリカに輸出された木綿地だった。
▽550 スラブという言葉は英語のスレイブ奴隷の語源でもある。イタリア語でも奴隷はスキアーヴォで語源は同じ。ヴェネチア弁のスチャオが、私はあなたの奴隷ですという忠誠の表現の一部で、それがチャオという挨拶に変わったという話を聞いたことがある。
▽568 ユダヤ人をひとつ処に閉じ込めてしまうゲットの習慣はヴェネツィアからはじまったという。
▽572 アッシジ 大修道院

■解説
 1953年、24歳でパリへ。敦子の父は、ハイカラな「洋行」世代の最後。1936年に「世界一周実業視察」というツアーに参加し5カ月かけて欧米を旅行した。
 敦子にとって最初の留学体験は、つらく重かった。ヨーロッパに近づこうとして拒否された。
 パリから帰国して一時NHK国際局で働いたあと、カトリック留学生として58年、ローマに行く。

喪失の体験

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