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恋と日本文学と本居宣長<丸谷才一>20210815

 中国の文学は恋愛は描かれず猥談も嫌がる。結婚制度を乱さない妓女への執着を歌うことが許された程度だ。詩歌の主流は友情の歌だった。
 なのに日本文学では源氏物語や万葉集のころから恋愛が取りあげられてきた。歌の主流は相聞歌だ。柿本人麻呂も紀貫之も西行も藤原定家も恋歌の名手だった。
 日本の文学は、公私双方を押さえられず、「平家物語」など数少ない例外を除いては、「私」の世界を偏愛し、男女の仲を描くことに熱中した。
 実は日本でも江戸時代は、日本にとって唯一の先進国だった中国由来の漢詩などが格が高いとされ、日本の古典は大衆文化の題材としてしか見られていなかった。百人一首は歌かるたであり、平家物語や太平記は歌舞伎に仕組まれた。「文学」という地位ではなかった。
 そんな時代に本居宣長は「みんな恋愛は大好きなのに、中国で恋愛を描かないのは、もともとが汚く淫らで、美しくならないからだ」とこき下ろし、日々の暮らしで重要な色恋を描く日本文学の「もののあはれ」を評価した。「もののあはれ」によって中国文学の方法とは異なる、人間の感情の直截でしかも美的な表現を宣揚しようとした。
 中国的価値が至上とされる時代において、その主張は革命的な日本文学独立宣言だった。
 宣長は、政治や倫理の価値に邪魔されない文学それ自体の価値を想定した。それによって「万葉集」以来の文学をきれいにすくい上げた。
 そして宣長の理論の浸透によって明治以後の西洋文学の摂取が可能になった。自然主義が短期間に流行したのも、国学の思想が浸透していたからでという。
 ただ西洋文学は、男女の愛欲だけではなく、社会を描いたものが多い。近代日本文学はそうはならなかった。社会が未成熟で、人間のなかに公と私が確立していなかったからだ。あえて社会を描こうとすると、明治の政治小説や昭和のプロレタリア文学のように破綻した。公と私、社会と恋をふたつながらにとらえることが日本文学の宿題になっていたという。

■女の救はれ
 建礼門院徳子は高倉帝の后だが、義経や、さらには舅の後白河院とも色事にふけり、それどころか、宗盛、知盛という兄二人との近親相姦まで疑われていた。その彼女が死ぬ際に仏によって救われる場面で平家物語は終わる。
 その姿は、罪深い女人さえも救われるのだというエピソードになっている。
 13世紀前半にあらわれた法然上人は、すぐれた者だから往生できるのではなく、阿弥陀仏の名号を唱えれば劣った者でも救われると説いた。当時の劣った者とは「女」だった。
 1371年、沙門覚一が平家物語の覚一本を書く際、法然の女人往生の思想に影響を受けていた。それによって建礼門院徳子の説話を得て、平家物語は、怨霊慰撫の祭祀であると同時に女人往生の宣伝という二重構造をもつことになり、女性のファンを増やすことになった。
 日本の文学が女に甘い理由は、中国にはない女人往生という考え方が出てきたことのほかにもある。
 妻問婚、さらには女系中心だった古代社会の名残りを筆者は指摘する。
 素戔嗚尊は、出雲に出ていって女系の有力者を見つけて安住した。ヤマトタケルはそれを求めたが果たせない悲劇のヒーローだった。
 母系制社会の祭祀では月が太陽に対して優位に立つ。竹取物語は、往古の女系時代に対する女たちのあこがれが主題なのではないか、と推測する。
 日本文学が中国文学の弟子でありながら、じつに頑強に、中国文学の恋愛否定を拒否してきた理由は「もののあはれ」「色好み」だけでなく、女人往生と女系家族的なものの記憶もあるのではないかと丸谷は見ている。

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▽27 詩歌の主流は、日本は「相聞歌」、中国は「友情の歌」とする論者もいます。
▽32 日本文学では、代表的な作中人物がいる。……でも光源氏が何をした人か……ただ、ほうぼうの女と関係して、死んだ、それだけのことです。……われわれの文学の代表者は恋が専門でした。
▽39 勅撰集 王朝のころは神も恋歌を詠んだし、勅撰集では神祇の歌にも恋歌がすべりこませてあった。
▽43 新古今 1979首、このうち恋歌は446首、これに四季歌その他の巻にある恋歌が加わる。……王朝のころ恋歌が下手な歌人は意味をなさない存在だった。柿本人麻呂は相聞の名手。紀貫之も西行も藤原定家も、まづ恋歌によって重きをなした。
 俳諧においても、芭蕉の名声のかなりの部分は、恋の座の付けとそのさばきとによるものだった。
▽47 折口信夫 恋歌中心の王朝和歌は、わが太古の民の豊穣信仰に由来した。わたしは、日本文学の核心にあるものは、天皇が貴女たちに言い寄る恋歌であると思っています。(実りを求めてセックスという文化は世界各地に。人間の交合が植物に作用して多産豊穣をもたらすという思いこみ)
▽52 源氏をはじめ……日本の叙事文学は、公私ふたつながらを押さえかねる、私に片寄りがちのものになりました。かろうじて双方をとらえている例外としては「平家物語」と丸本歌舞伎時代物だけではないでせうか。
 ……日本文学は私の世界を偏愛し、その結果、男女の仲を描くことに熱中したのです。
▽57 契沖「詩人ハ酒ヲ愛シ、歌人ハ色ヲ愛ス」。杜甫や李白は酩酊している様子を、わが歌人の色ごのみと並べてゐるわけだ。
 日中両国の文学の対立を重大問題としてとらへた人が本居宣長。恋という1点にこだわることによって日本文学の宣揚に成功した。
▽62 【宣長】人間が好色なのは、日本も中国も同じだが、中国は、倫理善悪のことだけを言いつのるのがくせになっていて、好色のことは、憎々しい口調でいやらしそうに書き記す。詩にしても、堂々たる男子の雄々しい心構えについて言うのが好きで、それだけを扱う。めめしくてみっともない恋慕の情など口にしない。表面をとりつくろい、偽る態度で、人情の真実ではないのに。
……わが国の人は何につけても寛大で利口ぶらないため、道徳をうるさく言い立てることも市内。人生の姿をありのままに表現した本のなかでも、「もののあはれ」を大事にしているので、色好みの人々の感情を率直かつ流麗に書き記す。
A 中国人は道徳論が好きで、好色をとがめる。詩も武勇を歌い、恋を詠まず。これはうそをついているのだが、日本人はうそに気づかず、事実だと取る。
B 日本人は道徳を言い立てないたちで、「もののあはれ」を重んじ、小説に恋愛感情を率直に書く。
C 日中とも歴史を読めば違いがない。詩歌でくらべるから話がおかしくなる。
D 一体に中国には悪人が多い。悪い國なのである。日本は悪人が少ない。神国だからである。
Dのところが唐突で理解しにくい。
▽66 西洋文学という権威を知らず、宣長は自分の頭だけで、中国文学という唯一の先進国の文学と対立しなければならなかった。。18世紀後半の日本では中国文学の趣味が圧倒的に支配的だった。
……普通、日本の古典は大衆文化の題材としてしか見られていなかった。百人一首は歌かるたでさり、平家物語や太平記が歌舞伎に仕組まれる。そういうものだから、文学などという、そんな面倒くさい物ではなかった。
▽68 雪の光やホタルの光で読書……という中国文学。……中国人は偽善者で嘘つきだ。それが中国文学の原理である。と説く。……中国文学は美談が好きだったし、美談でないとなると今度は極端な醜聞になってしまうせいで、小説が亜hったつしなかったのじゃないか。
 日本人はその点、うるさく道徳を口にしない。感情を偽らずに本当のことを書くし、しかもそれを優美に書く。それが宣長の次の論点。「もののあはれ」という彼の用語はこれを一語に集約したもの。
……宣長は「もののあはれ」によって中国文学の方法とはちがう日本文学の方法、人間の感情の直截でしかも美的な表現を宣揚しようとしたのである。
 文学的先進国の理念と真っ向から対立するこの主張は、日本文学の独立の宣言であった。
 この考え方がゆっくりと浸透していった後だからこそ、明治以後の西洋文学摂取は可能になったのだとわたしは思う。
▽71 日本は神国だから悪人が多くないという理屈。この考えを延長していくと誇大妄想的な……国粋主義的な外交論の本ができる。
 漢文学が支配している江戸後期の日本で、源氏と新古今を擁護しなければならなかった。擁護には見事に成功したけれど、そのついでに変なことを考え、その線をたどってゆくうちに妙な案配になったわけだ。その功のすばらしさに免じて、罪は見逃してやりたいとわたしは思うのです。
……宣長は、文学の本質を精密に考えていって、政治的価値にも倫理的価値にも邪魔されない文学それ自体の世界を想定し、それを顕揚することができた。それによって「万葉集」以来の文学をきれいにすくい上げた。……彼以後の日本文学は彼のこの理論のおかげで成立したと、わたしは思っています。
▽80 宣長みずから苦しい恋を生きた。
 ……どうして宣長はあんなに和歌が下手だったのか。
 敷島のやまと心を人とはば朝日ににほふ山桜花
(〓右翼っぽい、気持ち悪さの謎が解けた。へたなだけだった)
 石川淳は「山桜はおれだ」といっているだけのこと、とばっさり。
 わたしの解釈は……日本文学は、中国文学が闇の中で香りを放つだけでちっとも見えない夜の梅さながらに、恋をはっきり書かないのとちがって、朝日を受けて色美しく映える桜の花のように明白に恋を書く文学なのさ。
▽87 西洋文学は、日本文学の実質的な教師となるよりもむしろ、それが中国文学から離れたことを正当化する役目を果たした。樋口一葉も与謝野夫妻も藤村も宣長の学問に親しんでいた。……人の心のまことを書くのが文学という文学論だけを受け取って、その土台の上に舶載の感覚をのせたはずである。
……自然主義が短期間に制覇することができたのも、国学の思想が浸透していたからではないでしょうか。……虚偽と闘い偽善と争うことを日本人に教えていた。
▽88 西洋文学は、男女の愛欲のことだけではなく、それと同時に社会を描いたものが多い。近代日本文学はそうはゆかなかった。社会が未成熟で、人間のなかに公と私の双方があるのではなかったから。私があるだけだったカラ。それなのにあえて社会を描こうとすると、明治の政治小説や昭和のプロレタリア文学のような強引なことになって、破綻するわけである。こうして、公と私、社会と恋をふたつながらにとらえることは、日本文学の宿題になっている。……戦後、高度成長以後、社会が成熟し、人間の内部に公と私との両方があるといってもいい状況に近づいた。恋と日本文学との関係は新しい時代にはいりそうになっているのかも……

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