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神と自然の景観論 信仰環境を読む<野本寛一>

■講談社学術文庫20210803

 島や岬、洞窟、岩などの自然の地形と信仰のかかわりを論じる。以下に紹介するようにその具体例はいちいち興味深い。でももう少し「意味」の体系を教えてほしかった。

  三宅島は「御焼島」であり、伊豆東海岸の白浜は、御焼島の遥拝の地だった。
 「伊豆」は「斎つ(いつ)」であり。対馬一宮を祭る山が居津山(伊豆山)で、「厳原」も同系の地名だ。
 琵琶湖を近江(淡海)と称したのに対し、浜名湖は遠江(遠つ淡海)と称されていた。淡水湖の時期があったからだ。
 熊野川河口は、両岸から砂嘴が突出し、水路はわずか15メートルほど。砂嘴が河口閉塞を起こすと氾濫が甚大な被害を及ぼした。蓬莱山下の熊野阿須賀神社は河口の閉塞を司る神であり、熊野速玉大社も熊野川のデルタである現新宮市域を熊野川の猛威から守る神社だった。
 能登半島先端の禄剛崎と金剛崎から陸に向かって線を引いた交点に山伏岳があり、須須神社の奥宮がまつられている。珠洲、須須は本来「禊ぎ」にかかわる語だった。
 岬は神の寄りつく場で、神が旅立つ場でもあった。少彦名命は潮岬から常世に旅立ったとされる。
 竹富島のコンドイ岬と西桟橋の中間の「ニーラン石」は、神が船に乗って竹富島に着き、この石に綱を結びつけて上陸したと言われる。新城島や竹富島、黒島、鳩間島の人々は、西表島から飲み水を運び、水田をつくり、建材を切りだした。波照間島の人も西表島に水や土を求めた。西表島は八重山離島の島人の世界観の中核であり、古見岳はその象徴だった。ニライカナイは観念ではなく、離島の人々の命をつなぐ「水」「木」の豊かな西表島という現実をステップとして、その彼方に想定された。
 加賀の潜戸(島根町)の新潜戸の天井から落ちる水滴を「乳の水」と呼び、乳の出ない女性はこの水にコメを浸して粥にして食べるとよいと伝えられた。「新婚旅行にゃ潜戸へ参り、受けておきましょ乳の水」と安来節にも歌われる。「新婚旅行」の時代まで、習慣が生きていた。宮崎県日南市の鵜戸神宮の洞窟でも「乳飴」が売られている。 洞窟は「生命を生み出す不思議な力をもつ」とされ、女陰の力を象徴する聖なる場でもあった。
 また、峠が現実世界の境界であったのに対して、洞窟は他界への入口だった。このような場で境神に手向けられた石がやがて賽の河原での積石となった。
 中津川近くの神坂峠にある神坂神社の球状石は「日本武尊の腰掛石」で、古代東山道「須波(すわ)の山道」雨境峠の「鴨石」では峠神の祭りがおこなわれた。小夜の中山の「夜泣石」、日本坂の「旗懸石」、宇津ノ谷峠の「猫石」、足柄峠の「新羅三郎笛吹石」など、東海道の著名な峠には必ずといってよいほど伝承石がある。
 女人禁制の山があるのは、山の神が女性だから。はじめて大物を仕留めた若い猟師が自分の男根を山の神に見せるという習慣がある。山地の焼畑農民のなかには、山で落とし物をしたとき男根を露出して祈願すれば出てくるという信仰が生きている。山の神への奉仕者として男は女に優先していた。
 補陀落渡海や、跡の浦の「人捨場」と呼ばれた海岸、三輪崎沖の「鈴島」の伝承など、熊野灘には水葬の伝承が分布している。
 新宮の「ごとびき岩」、滋賀県日吉神社の「金大巌」、赤城山の「櫃石」、春日大社の「赤童児出現石」などの磐座は信仰空間の要だった。鹿島神宮や香取神宮など各地の「要石」は、地震を鎮め、軟弱な大地を固定化し安定させる石だった。
 三保の松原や島根の美保関の五本松(現在は3本)など、樹木も信仰対象になった。椎や橡は、実を食用としたため祀られた。折口信夫はタブノキにこだわる。能登ではタブの木が神木として崇められていることが多い。タブは海岸沿いに寒冷地まで深く食い込んでおり、北の人々は、常緑のこの木を大切にした。
 アコウの木は、琉球弧に多いが、愛媛県三崎町や和歌山県御坊市にも見られ、黒潮に運ばれたことを実感させる。
 椿や柊は山から里や町へ広がった。八百比丘尼は、椿の枝をもって諸国を巡ったと伝えられる。若狭を起点として、椿の自生しない雪国を中心に椿の実を配ってまわった。その実のもたらす油による黒髪の喧伝こそ常乙女八百比丘尼伝承のポイントだった。
 甲斐の道祖神は丸石を神体とする場合が多い。祭りでは小屋がけして道祖神を覆い、藁製の男根を突き出す。長野市塩崎でも、男根を飾り。オンマラ様とも呼ばれる道祖神をつくる。巨大な男根をつけ注連縄を飾り、完成したところで焼く。石の男根を道祖神の神体として祭るところもあり、抱擁や交合の状態を刻んだ双体道祖神像も多い。こうした習俗は、縄文時代の地母神祭祀に端を発すると推測できるという。

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▽5 一般に徒歩時代に栄えた門前町は電車・自動車の普及によって衰退する事例が多いが、東大阪市の石切神社の場合、近鉄電車の開通によって独自な門前町を形成するにいたった。
▽15 三宅島は「御焼島」であり、これがやがて御島、三島と呼ばれるにいたる。伊豆東海岸の白浜こそ、御焼島の遥拝・祭祀をおこなう最適の地だった。
▽22 「伊豆」は「斎つ(いつ)」とみるべき。対馬一宮を祭る山が居津山(伊豆山)で、その社前の平地を居津原という。「厳原」も同系の地名。
▽26 浜名湖 古くは琵琶湖を近江(淡海)と称したのに対し、遠江(遠つ淡海)と称されていた。淡水湖の時期があった。
▽36 熊野川の河口から1.3キロの円錐形の小山。徐福漂着伝説とからめて蓬莱山と呼ばれる。山の南すそに鎮座する熊野阿須賀神社は熊野速玉大社の摂社であり、祭神も同じ熊野夫須美大神・熊野速玉大神・家津御子大神。境内からは弥生時代の竪穴、土師器・須恵器……が出土。
▽37 熊野川河口に立ってみると、両岸から堆積砂嘴が突出し、水路はわずか15メートルほど。……熊野川の土砂は河口にいたり、川と熊野灘とのせめぎあいのなかで河口に砂丘状の砂嘴を形成したのであった。その砂は河口閉塞を起こし、……氾濫は甚大な被害を与えていた。
……阿須賀神社の須賀は砂丘を意味する。横須賀、藤塚(藤須賀)等も。阿須賀の神は、河口閉塞砂丘の閉塞を司る神。……熊野速玉大社における原初の信仰の柱も、熊野川氾濫を鎮めることにあった。速玉大社の鎮座地は熊野川を背にし、千穂が峰の北東麓に位置している。熊野川と支流相野谷川の合流点を延長すると速玉大社の背に突き当たる。速玉大社は、熊野川のデルタである現新宮市域を熊野川の猛威から守る神社であり、熊野川水霊祭祀を主眼として発生した神社であった。(「熊野山海民俗考」)
▽53 能登半島の禄剛崎と金剛崎が突起。その触角から陸に向かって線を引くとその交点にあたる位置に海抜172メートルの山伏岳がある。須須神社の奥宮がまつられている。……珠洲、須須は本来「禊ぎ」にかかわる語であり、半島先端の地が禊ぎの聖地として重要な役割を果たしてきたことが分かる。
▽54 岬は神の寄りつく場であると同時に、神が旅立つ場でもあった。少彦名命は潮岬から常世に旅立たれたという。……神が寄りつく目標として、岬における「先島」と「当て山」がある……
▽59 竹富島 コンドイ岬と西桟橋の中間あたりに「ニーラン石」があり、……ニーランの国から神たちが数隻の船に乗って竹富島に着いた。この石にとも綱を結びつけて上陸したと言われる。
▽63 新城島の人々は、西表島から飲み水を運んだ。水田をつくり、建材を切りだした。竹富の人も木材を得て水田をつくっていた。黒島や鳩間島も同様。波照間島からも西表島へ水や土を求めに来た。西表島は八重山離島の島人の世界観の中核であり、古見岳はその象徴であった。ニライカナイはけっして観念ではなく、離島の人々の命をつなぐ「水」「木」の豊かな西表島という現実をステップとして、その彼方に想定されたものだった。ニーランの浜、マフネの浜は、このような性格のニライカナイに対する聖なる場であった。
……白良浜
▽67 加賀の潜戸(島根町) 新潜戸の天井から落ちる水滴を「乳の水」と呼び、猿田彦命はこの水で育ったと伝えられている。かつて、乳の出ない女性はこの水を受けて帰り、コメをそれに浸して粥にして食べた。乳が出るようになると伝えられた。「新婚旅行にゃ潜戸へ参り、受けておきましょ乳の水」と安来節にも歌われる。「新婚旅行」の時代まで、この習慣は生きていたのであった。
▽69 宮崎県日南市の鵜戸神宮の洞窟 「乳飴」が売られている。
……「洞窟は生命を生み出す不思議な力をもつ」とする信仰原理を語るもの。洞窟は女陰の力を象徴する聖なる場でもあった。
……わが国における籠りの信仰論理を洞窟とともに支えた土壌は、里芋の種芋を「穴籠め」させる習俗と、熊野穴籠もりにかかわる伝承などであった。
▽72 真鶴岬の付け根の「鵐の窟」は頼朝が隠れた洞窟。能登金剛の洞窟「厳門」は義経伝説。氷見の「雨晴」の洞窟も、義経が雨宿りしたという。
▽73 小浜湾に注ぐ遠敷川上流の白石の「鵜の瀬」。東大寺のお水取りに先立って「お水送り」の祭り。東大寺の若狭井に通じていると伝えられる。
……八百比丘尼の墓。鵜の瀬から500メートルほど上流の下根来(ねごり)にある。
▽88 岡山県勝山町(現真庭市)の「神庭(かんば)」という集落。神庭の瀧の水源をたどると「星山」という部落がある。17戸からなる部落には草屋根の家が多く、桃源郷へ踏み込んだような感じがした。〓
▽96 那智の滝。那智勝浦の漁民は、「山あて」に、那智大滝を使うことがあり、「タキダシ」という。……滝が海のかなたから依り来る神々の目印、すなわち依り代として聖視されてきたことを物語る。
▽100 中津川から1595メートルの神坂峠へ。神坂神社の球状の石は「日本武尊の腰掛石」。峠神の座としてまつられたと推察される。古代東山道「須波(すわ)の山道」の雨境峠の立科町寄りに「鴨石」という鏡餅を二つ重ねたような石。この石を中心に峠神の祭りがおこなわれていた。
……小夜の中山の「夜泣石」、日本坂の「旗懸石」、宇津ノ谷峠の「猫石」、足柄峠の「新羅三郎笛吹石」……東海道の著名な峠には必ずといってよいほど伝承石がある。
▽103 久万と檮原を結ぶ街道の地芳峠。昔からの「魚の境」だった。北は瀬戸内の魚が入り、南は太平洋の魚が入った。ここに直系1.2メートル、厚さ25センチほどの円盤状で真ん中に30センチほどの丸い穴のあいたドーナツ形の石が立っている。石の穴から石鎚山を遥拝する。
▽107 マタギは山では「里ことば」を使ってはならず、里では「山ことば」を使ってはならなかった。おのおのの集落の切り替えポイントが、山と里との聖なる結節点だった。
▽112 津軽の岩木山も女人禁制。
 山の神は女性。はじめて大物を仕留めた若い漁師が山の神に対して自分の男根を露出して見せるという習慣は、マタギにも鹿児島県の猪猟師にも見られた。また、三州・信州・遠州の国境が接する山地の焼畑農民のなかには、山で落とし物をしたとき、山の神に対して男根を露出して祈願すれば、なくしたものが出てくるという信仰が根強く生きている。
……山の神への奉仕者として男は女に優先していた。
▽116 磐座 花の窟
▽118 補陀落渡海や、跡の浦の「人捨場」と呼ばれた海岸、三輪崎沖の「鈴島」の伝承……熊野灘に面した村々には水葬の伝承が点々と分布。
……花の窟が、他界への入口として、さらには水葬の基点として聖視された時代の信仰心意が生動している。
▽120 「ごとびき岩」、滋賀県日吉神社の「金大巌」、赤城山の「櫃石」、春日大社斜頭の「赤童児出現石」などは代表的な「いわくら」。
……磐座は常に風景の核であり、信仰空間の要であった。人々を吸引し、時に厳しく拒む神の座なのである。
▽122 鹿島神宮の奥宮の南300メートル。径30センチほどの「要石」、香取神宮の境内にも「要石」……各地の要石は、地震鎮静の霊威を認める例が多い。……要石は、神霊を負い、地震を鎮め、軟弱な大地を固定化し安定させる石だった。
▽123 立山は「顕ち山(たちやま)」、神顕現のの山だった。
 賽の河原。旧潜戸にも。出雲の猪目洞窟からは舟形の木にのせた人骨が出土。
……峠は現実世界の境界であり、洞窟は他界への入口であった。このような場で境神に手向けられた石がやがて賽の河原での積石となる。
▽132 古座川の川中島の河内様。……藁科川のまんなかの木枯の森。
▽138 
▽149 福岡の沖ノ島。沖ノ島(沖津宮)ー大島(中津宮)ー田島(辺津宮)は一直線。宗像大社の高宮は沖ノ島の遥拝所。沖ノ島から海の神をお迎えして祭る場だった。
▽160 立神・先島・湾口島
 ……海のかなたからやってくる神はまず岬角・湾口などにある柱状岩島(立神・京)によりつく。次にノロを中心とした神女集団が浜に出て、その柱状岩島を拝しながらムラに神を迎える。
▽168 出羽三山信仰の1本の柱は湯殿山の信仰。湯殿山神社の御神体とされる霊巌、その巌からは熱湯が湧きだしている。〓
……この霊巌全体が女陰の象徴。……かつてはこの秘所の様を語ることも厳しく禁じられていた。霊巌と湯を神体とする典型的な無社殿神社。
▽170 湯殿山と羽黒修験、湯の峰と熊野修験、走湯と伊豆山修験のように、温泉と修験道は深くかかわってきた。
▽180 聖樹 三保の松原 美保関の五本松(現在は3本)
▽198 椎の木が神木とされたのは、その重々しい樹相とともに、豊かな実をつけ、食料として与えたこともかかわっている。
 栃の木も、実を食用とするゆえに祭られ守られた。
 タブ 折口信夫がこだわる タブが漂着神の依り代であり、タブは海のかなたから漂着した祖たちの上陸目標となったとする見解。
……能登にはタブの木が多く、神木として崇められていることが多いい。鎌宮諏訪神社の神木、気多大社境外末社「大多毘神社」もタブを神木とした無社殿神社……。
 タブは海岸沿いに寒冷地まで深く食い込んでおり、北の人々は、常緑のこの木をことのほか大切に守ってきた。(藤平さん〓)
▽208 アコウの木 琉球弧に多いが、愛媛県三崎町や和歌山県御坊市にも見られ、黒潮に運ばれたものであることを実感させる。
▽216 椿が山から里へ、里から町へ広がった。柊も同様。
 八百比丘尼は、椿の枝をもって諸国を巡ったと伝えられる。若狭を起点として、椿の自生しない雪国を中心に椿の力を宣布し、椿の実を頒布してまわった「椿の配達人」であった。その実のもたらす油による黒髪の喧伝こそ常乙女八百比丘尼伝承のポイントであった。
▽222 輪島の光浦。集落の背にこんもりとした森のような形状をなして立つタブの木。新左衛門という家のもので、光浦の漁民が日々「山ダメ」(山当て)として使っているものだという。
▽224 川根町家山の野守の池。大井川の流路変更で形成された三日月湖型の池。奇妙な伝説がたくさん。
▽228 天岩屋 谷川健一は宮古島・来間島で「太陽が洞窟」(てだががま)を確認。それに近いものが串本町の潮岬に。少彦名命がこもったといわれる「静の窟」。潮岬の人々はムラの西側に位置するこの洞窟を「入日のガワ」と呼んだ。太陽がガワ・ガマと呼ばれる洞窟に入り、地底をめぐって翌朝東方に再生するという古い認識をとどめる。天岩屋神話には、古層の太陽観が吸収されている。
▽237 高千穂 「チホ」は「霊秀(ちほ)」の意であろう。神威の発現が著しい場を示す語。新宮市の「千穂ケ峯」も。早池峰山も「速霊峯」の意であった。
▽242 鵜戸神宮の洞窟 豊玉姫が海神の世界へ帰る際、我が子のために両乳房をおいていったと伝えられる「お乳岩」。
▽248 御前崎にはアカウミガメが上陸。ウミガメは強い台風が多い年には浜の奥深いところへ産卵し、少ない年には渚近くに産卵すると言われている。……こうした伝承は、遠州灘沿い、熊野王子が浜の漁師からも耳にした。
……浦島伝説伝承地としては、伊根町、香川県詫間町、高松市男木島、鹿児島県喜界町、山川町長崎鼻などがある。いずれもウミガメと人との交流を土壌として成立した。
……海神の世界とこの世を往復するウミガメを据えた洞窟は、海神系の民、漁民にとってまたとない聖地だった。
……「鵜戸八丁坂」ふつうの社寺の石段と異なり、登り438段、下り277段で、石段の峠が俗界と聖地の境をなしている。……鵜戸は洞窟を中心に洞窟を中心として、きわめてすぐれた聖性地形複合をなしており、それは古代海人族の心を強くひいた。
▽251 天孫降臨は、典型的な神の垂直来臨で、アジア大陸のアルタイ系民族の神観に通じるものだと言われている。一方「……海のかなたから笠沙の船ケ崎に漂着された」という土着の神話は意外に古く……笠沙に上陸した神の物語が隼人・海人族のなかに根強く伝承されていて……。……高千穂が天から神を迎え、笠沙が海彼から神を迎える場であったのに対し、鵜戸は、此界から海中・海彼への働きがなされる起点として登場する。……日向神話は、ある体系につながる垂直来臨型と、海人系の水平来臨型を交差させた力動的な神話であり、こうした神話を構成しなければならなかった要因のひとつに、強大な隼人文化の力があった。
……九州における焼酎文化圏は隼人文化圏と重なり、……猪解体に際して毛皮をはがずに毛を焼き、脂皮まで食べる習俗もまた、ほぼ隼人文化圏と重なる。〓
▽253 甲斐の道祖神 丸石を神体として祭る場合が多い。山梨県内には600カ所に丸石道祖神が祭られている。
……道祖神祭りにあたって小屋がけして道祖神を覆う。正面に向かって藁製の男根を突き出す。
▽260 山梨以外でも、長野市塩崎では、道祖神祭りをおこない、男根を飾る。オンマラ様とも呼ばれる道祖神をつくる。巨大な男根をつけ注連縄を飾り、完成したところで焼く。
……石の男根を道祖神の神体として祭るところもあり、抱擁や交合の状態を刻んだ双体道祖神像も多い。
▽264 小正月に、道祖神祭りとして巨大な男根を立てる習俗は、縄文時代の地母神祭祀に端を発するのではないか。縄文時代、きわめて写実的な男根形状の造形石を中心に円形の配石遺構が見られた。
▽265 山梨県における道祖神は、性神・養蚕神・防火神としての側面が強く、道の神としての印象は希薄。
……熊野山中の山の神祭りは11月7日が多く、2月7日にも祭る場合が多い。ヒノキなどで巨大男根をつくったり、小型男根に手向けたりして山の神を祭ってきた。山の神を女性とみる信仰が根強いからである。
▽276 信仰環境論 聖性地形としての岬・渕・磐座……

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