■20230225
舞台は道後温泉の宿「さぎのや」。
水害で兄以外の家族を亡くした15歳の雛歩は、お世話になっていたおじの家の認知症のおじいさんを「殺して」家を飛び出し、山でたおれているところを「さぎのや」のおかみに救われる。
さぎのやは、帰る場所のないお遍路を、道後温泉がひらかれた3000年前から受け入れてきた。
底抜けにやさしい「さぎのや」の人たちもまた、恋人や夫や子どもといった大切な人を亡くした経験をしている。
生きる気力をなくした主人公は少しずつ癒やされ、逆にみずから知らぬうちに、子をなくして遍路をしていた夫婦を癒やす……
私は道後温泉のすぐ近くに住んでいたから、道後公園、湯築城跡、椿湯……といった名称がなつかしい。毎日のように温泉にはいり、美味しい魚を食べていた日々。当時はそれがあたりまえで、いろいろ悩みもあったけど、幸せの絶頂だったんだなぁと、うしなってはじめて思う。
当時道後温泉近くの石手寺は、行き場のない人をうけいれていた。弱い人を支え、非戦を訴え、被災地の支援をしていた。さぎのやと石手寺がだぶってみえた。だが加藤俊生住職は2021年に急死した。
底抜けにやさしい人たち。人助けがあたりまえの人たち。そこで育つとそれがあたりまえになる。遍路道では、「お接待」の名のもとにお遍路さんに食べものやお茶などを接待する。それがあるからさまざまな出会いが生まれる。絶望の底にいる人がそれで元気になるわけではないけれど、40日間かけて歩き、人々の親切にふれるとなにかが変わる。遍路道は「つらいときに帰ってこられる場」と思える。さぎのやはそんな不思議な空気がただよう遍路道のエキスをギュッと凝縮した場として描かれている。
クライマックスは秋祭りの神輿の「鉢合わせ」だ。(個人的には思いだすのはつらい。)
みこしの上から「跳びまーす」と、雛歩はみんなの上にダイビングする。「未来少年コナン」で、ラナちゃんが帆船の帆の上から海に飛びこむシーンに感動したのを思いだした。人間への信頼が勇気をうみだすのだ。コナンもこの本も希望と再生の物語だった。
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・ ずっと他人のことには関心を持てなかった。……はっきり言えば、どーでもよかった。どうなろうと、知ったことではなかった。なのに、なぜだろう。まったくの他人なのに、女将さんや飛郎さんのことだけでなく、みんなのこと、……もっと知りたい、という気持ちがこみあげてくる。
・本館前は人々がゆっくり集える空間に。
・人が話したくないことは、あえて聞かないというのがさぎのやの作法だからね。でも話したくなった人の話は、誠実に最後まで聞く、というのもさぎのやの作法だから。
・帰る場所のない人、帰る場所に迷っている旅人たちを、もてなし、いたわり、旅をつづけられるように力づける……という初代の意志というか誓いを、受け継いでいけることこそが、女将の資格なんだよ。
・誰にだって帰る場所は必要なんだ……そのまんまで受け止めてくれる人が1人でもいれば、生きていける。そんな人がいてくれる場所が一番大切なんだ。
・無理になにかを認めようとしたり、逆に否定しようとしたりして、自分を追いつめないで。大事なことを判断するには、時間がかかることを、自分にも、他人にも、許してあげてほしい。『待ってて、もう少し待ってて』……心のなかでそう唱えると、ちょっと落ち着くことがあるの。
・縁もゆかりも無うても、困っとる人のために、汗をかける自分でおられるかどうか
お接待の根っこは、共に悲しみ、共に苦しむ心子よ。共に生きている者への思いやりよ。
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