MENU

須賀敦子全集 第1巻<河出文庫>20210903

■「ミラノ霧の風景」「コルシア書店の仲間たち」ほか
 須賀は20代終わりから40代の初めの13年をイタリアで過ごした。カトリック左派の人々が運営するコルシア書店と出会ってミラノに住み、書店の中心メンバーだったペッピーノと結婚する。
 登場人物はカトリック左派の神父や貧しいけど愉快なインテリたち、その活動をサポートした旧貴族や大金持ちもいる。
 どれも魅力的な人たちだ。ナチスの強制収容所を体験した人、ファシストやナチスとたたかった人々、それに憧れた世代……。1950年代初頭の希望にあふれる時代背景もあり、理想をめざす青年たちの共同体だった。
 だが1967年になると、中国の文化大革命の影響で、若者たちが既成秩序をくつがえすことに狂奔し、政治が友情に先行する悪夢の日々になっていく。仕事の帰りに立ち寄って無駄口をたたく友人たちの姿も見られなくなった。
 夫のペッピーノはその混乱の最中の1967年に41歳で急逝する。
 その他の関係者もしだいに衰え、一人二人と欠けていく。
 たとえば編集者のガッティは、夫を亡くした須賀を「睡眠薬をのむよりは、喪失の時間を人間らしく誠実に悲しんで生きるべきだ」とさとしてくれたが、「……ガッティの精神があのはてしない坂道を、はじめはゆっくり、やがては加速度的に下降しはじめ……」最後は友人の顔も忘れてしまう。
「書店の仲間みんなが、晩い青春の日に没頭した愉しい「ごっこ」の終わりだったように思えてならない」と須賀は振り返る。
 物語が終わると消えてしまう映画の人物のように、遠い国の遠い時間の人になってしまう。霧の向こうの世界に行ってしまう。「霧の風景」とは死者の世界の入口を暗示している。

 楽しく力強く向こう見ずな日々があったから、その喪失が胸に迫る。でもそんな日々があったから、今は亡き愛すべき仲間を須賀は詩情あふれる文章でつづることができた。
 須賀はサバの詩「人生ほど、生きる疲れを癒やしてくれるものは、ない」を引用し、次のように記す。
 「若い日に思い描いたコルシア・ディ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う」
 須賀を含め、登場人物のほとんどは敬虔なカトリック教徒だ。だれもが「よりよく生きよう、より御心にかなうように生きよう」と努力している。脱落もあるけれども「よりよく生きる義務を神に負っている」という原則は変わらない。
 神は土地を造って祝福し、人を造って試練を与えた。
 生き生きした青春の日々があったからこそ、老いと死と、それにともなう孤独という試練をも肯定的に受け止められる。夫の死すらも、人生の大切な要素として受け入れている。
 ビクトル・フランクルは「輝ける日々ーーそれが過ぎ去ったからといって泣くのではなく、それがあったことに、ほほえもう」と記した。
 須賀のたどりついた精神の高みはフランクルのそれとよく似ている。

=====================
■ミラノ 霧の風景
▽グライダー事故で友人の弟が亡くなる掌編からはじまる。
▽夫が死んでしばらくのころ、菓子店の女性「いい方でした。私はほんとうによくしていただいた。一度あなたにお目にかかってそれを言いたかった」
▽ガッティ 編集者 オリベッティのアドリアーノが死んで……ガッティの精神があのはてしない坂道を、はじめはゆっくり、やがては加速度的に下降しはじめたのと、ほとんどおなじころだった。
▽ガッティは精神を病んで、耄碌して……夫を亡くして現実を直視できなくなっていた私を、睡眠薬をのむよりは、喪失の時間を人間らしく誠実に悲しんで生きるべきだ、と私をきつくいましめたガッティは、もうそこにはいなかった。
▽マリア・ポットーニ パルチザン 抵抗の英雄とされ、ひとりで暮らした老嬢。80歳前のマリアが日本に来てくれた。栄光の日々を追憶して。普段着の生活を大切にして。
▽鉄道員の家 夫の父は鉄道員
▽舞台の上のヴェネツィア 
▽夫の最晩年になった1967年、中国の文化大革命に刺激された若者たちが体制を批判して立ちあがり、ミラノの学生たちも既成秩序をくつがえすことに狂奔した。青年層の顧客が多かった夫の書店もその波に巻き込まれ、もっと若者を理解すべきだという意見と、書店を政治の場にするなという意見が対立するようになった。つらい時代だった。
 そんな混乱の最中に夫は病気になり、あっという間に死んでしまった。棺が教会から運びだされるというときに……アントニオが汗びっしょりになって、立っていた。手には半分しおれかけたエニシダの大きな花束をかかえていた。きみが好きだったから、そう言ってアントニは絶句した。
 それがアントニオと会った最後だった。……ある日、彼が心臓発作で急死したという知らせがとどいた。
 ……物語が終わると消えてしまう映画の人物のように、遠い国の遠い時間の人になってしまった。
▽ いまは霧の向こうの世界に行ってしまった友人たちに、この本を捧げる。

■コルシア書店の仲間たち
▽貴族のパトロン女性 ねえ、アイスクリームって、どうしてこんなにおいしいのかしら。私はアイスクリームさえあれば、なにもいらないと思うくらいよ。いちどでいいから、はじめからおわりまで、アイスクリームだけっていうディナーを食べてみたいわ
 マリー・アントワネットみたい。
▽…文化大革命の余波をうけてヨーロッパの若者を揺りうごかした革新運動が、書店にも津波のように押し寄せて、あっというまにすべてをのみこんだ。……政治が友情に先行する悪夢の日々がはじまった。……もう、仕事の帰りに立ち寄って無駄口をたたいていく友人たちの姿も見られなかった。マルクーゼやチェ・ゲバラの理論がうずまくなかで、だれがツィア・手レーサのしずかで控えめな勇気を憶えていただろう。
▽入口のそばにだれかが置き忘れた椅子にすわって、ぼんやりとほほえんでいた。それがさいごに見た彼女だった。……きらめきを失った大きな目が、宙をまさぐり、……骨太の手が、ひざのうえでかすかにふるえていた。
▽ダヴィデ・マリア・トゥロルド神父 詩人。ファシスト政権とドイツ軍による圧制からの解放を勝ち取った。……身を賭してたたかった世代の男女と、彼らにつづく「おくれてきた」青年たちを、酔わせ、揺り動かしていたのが、1950年代の前半。
▽ごったまぜの交流の場。1950年から70年代までの20年間に、多くの若者が育っていったコルシア・ディ・セルヴィ書店は、ほとんど定期的に、近く教会の命令で閉鎖されるという噂におびやかされ……
▽ダヴィデは、共同体の理想が捨てきれなかった。書店のようなパートタイムの共同体ではなくて、それは生活をともにする運命共同体でなければならなかった。
▽私のミラノは、たしかに狭かったけれども、そのなかのどの道も、だれか友人の思い出に、なにかの出来事の記憶に、しっかりと結びついている。通りの名を聞いただけで、だれかの笑い声を思いだしたり、だれかの泣きそうな顔が目に浮かんだりする。11年暮らしたミラノ、とうとう一度もガイドブックを買わなかったのに気づいたのは、日本に帰って数年たってからだった。
▽結婚のお祝いにともらった5枚の古い手ぬぐい。使い古したくないけれど、しまいこみたくもない。
▽病院で亡くなった夫の遺骸が教会に運ばれたあと、彼女は私を自分の家に連れていった。私をひとりでムジェッロ街の家に帰すわけにはいかない、と彼女が言い張ったからだ。……
▽ナチスの収容所で家族を失った人。
▽ガッティ ちくはぐになっていく仲間たち
▽ガイドブックにたよる旅行は、知識は得ても、心は空っぽのままだ。友人といっしょに見たあたらしい景色には、その友人の匂いがしみついて、ながいこと忘れられない。
▽ペッピーノのあとには「思想のある人間」をもってこなければならない、というのがルチアのたどりついた結論だった。そうしてやってきたミネッティの過激な路線が、やがて書店の理想をじょじょに侵蝕していく……
▽戦後の混乱のなかで、ダヴィデの発想で出発し、仲間たちが引き継いだコルシア・ディ・セルヴィ書店は、思いがけない終焉をむかえることに……私にはこれが、ルチアだけでなく、書店の仲間みんなが、晩い青春の日に没頭した愉しい「ごっこ」の終わりだったように思えてならない。
▽書店に思い描く理想 それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しようとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣りあわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。
 若い日に思い描いたコルシア・ディ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う(B亡きあともけっして荒野ではなかった、ということ、死の世界とのつながり?)
 パルチザン 解放され、晴れやかな時代。共同体をつくる。多くの人が集まる。

■旅のあいまに
▽ユルスナールの詩
 死ぬすこまえ……母は……なにもしないで、しずかにじっとしていることがあった……無為の時間に、あるいは闇に、自分を馴らそうとしているみたいにも見えた

■■須賀敦子全集 第1巻<河出文庫>20210903
■「ミラノ霧の風景」「コルシア書店の仲間たち」ほか
 須賀は20代終わりから40代の初めの13年をイタリアで過ごした。カトリック左派の人々が運営するコルシア書店と出会ってミラノに住み、書店の中心メンバーだったペッピーノと結婚する。
 登場人物はカトリック左派の神父や貧しいけど愉快なインテリたち、その活動をサポートした旧貴族や大金持ちもいる。
 どれも魅力的な人たちだ。ナチスの強制収容所を体験した人、ファシストやナチスとたたかった人々、それに憧れた世代……。1950年代初頭の希望にあふれる時代背景もあり、理想をめざす青年たちの共同体だった。
 だが1967年になると、中国の文化大革命の影響で、若者たちが既成秩序をくつがえすことに狂奔し、政治が友情に先行する悪夢の日々になっていく。仕事の帰りに立ち寄って無駄口をたたく友人たちの姿も見られなくなった。
 夫のペッピーノはその混乱の最中の1967年に41歳で急逝する。
 その他の関係者もしだいに衰え、一人二人と欠けていく。
 たとえば編集者のガッティは、夫を亡くした須賀を「睡眠薬をのむよりは、喪失の時間を人間らしく誠実に悲しんで生きるべきだ」とさとしてくれたが、「……ガッティの精神があのはてしない坂道を、はじめはゆっくり、やがては加速度的に下降しはじめ……」最後は友人の顔も忘れてしまう。
「書店の仲間みんなが、晩い青春の日に没頭した愉しい「ごっこ」の終わりだったように思えてならない」と須賀は振り返る。
 物語が終わると消えてしまう映画の人物のように、遠い国の遠い時間の人になってしまう。霧の向こうの世界に行ってしまう。「霧の風景」とは死者の世界の入口を暗示している。

 楽しく力強く向こう見ずな日々があったから、その喪失が胸に迫る。でもそんな日々があったから、今は亡き愛すべき仲間を須賀は詩情あふれる文章でつづることができた。
 須賀はサバの詩「人生ほど、生きる疲れを癒やしてくれるものは、ない」を引用し、次のように記す。
 「若い日に思い描いたコルシア・ディ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う」
 須賀を含め、登場人物のほとんどは敬虔なカトリック教徒だ。だれもが「よりよく生きよう、より御心にかなうように生きよう」と努力している。脱落もあるけれども「よりよく生きる義務を神に負っている」という原則は変わらない。
 神は土地を造って祝福し、人を造って試練を与えた。
 生き生きした青春の日々があったからこそ、老いと死と、それにともなう孤独という試練をも肯定的に受け止められる。夫の死すらも、人生の大切な要素として受け入れている。
 ビクトル・フランクルは「輝ける日々ーーそれが過ぎ去ったからといって泣くのではなく、それがあったことに、ほほえもう」と記した。
 須賀のたどりついた精神の高みはフランクルのそれとよく似ている。

=====================
■ミラノ 霧の風景
▽グライダー事故で友人の弟が亡くなる掌編からはじまる。
▽夫が死んでしばらくのころ、菓子店の女性「いい方でした。私はほんとうによくしていただいた。一度あなたにお目にかかってそれを言いたかった」
▽ガッティ 編集者 オリベッティのアドリアーノが死んで……ガッティの精神があのはてしない坂道を、はじめはゆっくり、やがては加速度的に下降しはじめたのと、ほとんどおなじころだった。
▽ガッティは精神を病んで、耄碌して……夫を亡くして現実を直視できなくなっていた私を、睡眠薬をのむよりは、喪失の時間を人間らしく誠実に悲しんで生きるべきだ、と私をきつくいましめたガッティは、もうそこにはいなかった。
▽マリア・ポットーニ パルチザン 抵抗の英雄とされ、ひとりで暮らした老嬢。80歳前のマリアが日本に来てくれた。栄光の日々を追憶して。普段着の生活を大切にして。
▽鉄道員の家 夫の父は鉄道員
▽舞台の上のヴェネツィア 
▽夫の最晩年になった1967年、中国の文化大革命に刺激された若者たちが体制を批判して立ちあがり、ミラノの学生たちも既成秩序をくつがえすことに狂奔した。青年層の顧客が多かった夫の書店もその波に巻き込まれ、もっと若者を理解すべきだという意見と、書店を政治の場にするなという意見が対立するようになった。つらい時代だった。
 そんな混乱の最中に夫は病気になり、あっという間に死んでしまった。棺が教会から運びだされるというときに……アントニオが汗びっしょりになって、立っていた。手には半分しおれかけたエニシダの大きな花束をかかえていた。きみが好きだったから、そう言ってアントニは絶句した。
 それがアントニオと会った最後だった。……ある日、彼が心臓発作で急死したという知らせがとどいた。
 ……物語が終わると消えてしまう映画の人物のように、遠い国の遠い時間の人になってしまった。
▽ いまは霧の向こうの世界に行ってしまった友人たちに、この本を捧げる。

■コルシア書店の仲間たち
▽貴族のパトロン女性 ねえ、アイスクリームって、どうしてこんなにおいしいのかしら。私はアイスクリームさえあれば、なにもいらないと思うくらいよ。いちどでいいから、はじめからおわりまで、アイスクリームだけっていうディナーを食べてみたいわ
 マリー・アントワネットみたい。
▽…文化大革命の余波をうけてヨーロッパの若者を揺りうごかした革新運動が、書店にも津波のように押し寄せて、あっというまにすべてをのみこんだ。……政治が友情に先行する悪夢の日々がはじまった。……もう、仕事の帰りに立ち寄って無駄口をたたいていく友人たちの姿も見られなかった。マルクーゼやチェ・ゲバラの理論がうずまくなかで、だれがツィア・手レーサのしずかで控えめな勇気を憶えていただろう。
▽入口のそばにだれかが置き忘れた椅子にすわって、ぼんやりとほほえんでいた。それがさいごに見た彼女だった。……きらめきを失った大きな目が、宙をまさぐり、……骨太の手が、ひざのうえでかすかにふるえていた。
▽ダヴィデ・マリア・トゥロルド神父 詩人。ファシスト政権とドイツ軍による圧制からの解放を勝ち取った。……身を賭してたたかった世代の男女と、彼らにつづく「おくれてきた」青年たちを、酔わせ、揺り動かしていたのが、1950年代の前半。
▽ごったまぜの交流の場。1950年から70年代までの20年間に、多くの若者が育っていったコルシア・ディ・セルヴィ書店は、ほとんど定期的に、近く教会の命令で閉鎖されるという噂におびやかされ……
▽ダヴィデは、共同体の理想が捨てきれなかった。書店のようなパートタイムの共同体ではなくて、それは生活をともにする運命共同体でなければならなかった。
▽私のミラノは、たしかに狭かったけれども、そのなかのどの道も、だれか友人の思い出に、なにかの出来事の記憶に、しっかりと結びついている。通りの名を聞いただけで、だれかの笑い声を思いだしたり、だれかの泣きそうな顔が目に浮かんだりする。11年暮らしたミラノ、とうとう一度もガイドブックを買わなかったのに気づいたのは、日本に帰って数年たってからだった。
▽結婚のお祝いにともらった5枚の古い手ぬぐい。使い古したくないけれど、しまいこみたくもない。
▽病院で亡くなった夫の遺骸が教会に運ばれたあと、彼女は私を自分の家に連れていった。私をひとりでムジェッロ街の家に帰すわけにはいかない、と彼女が言い張ったからだ。……
▽ナチスの収容所で家族を失った人。
▽ガッティ ちくはぐになっていく仲間たち
▽ガイドブックにたよる旅行は、知識は得ても、心は空っぽのままだ。友人といっしょに見たあたらしい景色には、その友人の匂いがしみついて、ながいこと忘れられない。
▽ペッピーノのあとには「思想のある人間」をもってこなければならない、というのがルチアのたどりついた結論だった。そうしてやってきたミネッティの過激な路線が、やがて書店の理想をじょじょに侵蝕していく……
▽戦後の混乱のなかで、ダヴィデの発想で出発し、仲間たちが引き継いだコルシア・ディ・セルヴィ書店は、思いがけない終焉をむかえることに……私にはこれが、ルチアだけでなく、書店の仲間みんなが、晩い青春の日に没頭した愉しい「ごっこ」の終わりだったように思えてならない。
▽書店に思い描く理想 それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しようとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣りあわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。
 若い日に思い描いたコルシア・ディ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う(B亡きあともけっして荒野ではなかった、ということ、死の世界とのつながり?)
 パルチザン 解放され、晴れやかな時代。共同体をつくる。多くの人が集まる。

■旅のあいまに
▽ユルスナールの詩
 死ぬすこまえ……母は……なにもしないで、しずかにじっとしていることがあった……無為の時間に、あるいは闇に、自分を馴らそうとしているみたいにも見えた

■解説 池澤夏樹
▽アツコは幼児の積極性でイタリアを学び、溶け込み、結婚という究極の祝福まで行ってしまった。この喜びと興奮に満ちた日々の記憶が、後の須賀敦子の文業すべての基礎であり駆動力である。自分に合った世界にもういちど生まれなおして、日の光を浴びながら言葉と習慣を学んでゆく喜び。幸福な体験の記憶が本を書く動機。
▽マリア・ポットーニも幸福とは言えない人生だったろう。ひとり暮らしのさびしい老嬢。ガッティも衰退の物語
 元気で覇気にあふれていた仲間たちが少しずつ力を失っていった話を、20数年ちかくたってから書く。
 須賀敦子の書いたものの一番底のところには青春がある。コルシア書店に集った仲間は要するにみんな若くて、元気で、世間知らずで、向こう見ずだった。
 ……どこか悲哀が漂うのは、イタリアで暮らせたという喜びと同時に、若くて元気だったみんなの共同体が結局は失われてしまったという哀惜の念が根底にあるからである。
▽人々はよりよく生きよう、より御心にかなうように生きようと努力している。それはむずかしいことだから失敗もあるし脱落する者も出る。それでも生まれた以上はよりよく生きるという義務を神に負っているのだという原則は変わらない。
 神は土地を造って祝福し、人を造って試練を与えた。だから須賀敦子のイタリアは美しく、そこに住む人々は苦難にみちた衰退の人生を送ったのではないか。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次