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熊野中辺路 歴史と風土<熊野中辺路刊行会>

■熊野中辺路 歴史と風土<熊野中辺路刊行会> 20150610
▽道湯川の廃墟 平家屋敷(本宮町平治川)
▽音無茶の里
▽97 小栗判官 実際には小栗自身が熊野にはきていない。にもかかわらず、湯峰温泉には、回復したので不要になった車を埋めたという車塚や、全快後、力を試したという力石、髪を結んだ藁を捨てたところ自然に稲になり、毎年籾をまかずとも米がとれる「まかずの稲」などの伝説が残っている。
▽102 秀衡桜 幹の周囲4メートル、高さ約15メートル。(平成になって枯れた)
秀衡実際に来たかどうかは明らかではないが、陸奥に新熊野社を建立したという記事が吾妻鏡に見えるから、熊野を信仰していたものとみられる。
▽103 日本人の典型としてもてはやされるものに、男は弁慶、女は清姫。長い時代にわたって、理想像として、熱い思い入れをもって語り継ぎ、創作を加えた結果。
…大蛇が鐘をまき、怒りの炎で僧を焼き殺した。
…最初は安珍はあらわれない。安珍の初見は、鎌倉時代。清姫の名は1742年上演の浄瑠璃ではじめて登場する。これ以後、安珍・清姫の物語として定着する。
…原話と対照的な話が地方に残るのは、清姫びいきのなせるわざ?
▽106 和泉式部 80歳のとき、熊野詣。月のさわりになったため…。一説には80歳というから驚く。
「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず」に通じている。五来氏は、時宗の徒が、熊野詣でをすすめるとき使った有力なキャッチフレーズが、熊野権現は他の神社とちがって、不浄をきらわずということであって、赤不浄とよばれる、産穢、月水の穢をもきらわずとしたのは時宗である。熊野権現が女人の不浄をきらわないことを宣伝するために、和泉式部の話を作為し唱導したのは時宗の徒と考察する。
土地の名も「伏拝」。境内には和泉式部の供養塔も。(中瀬喜陽)
▽107 弁慶 田辺駅に登場したのは〓年?
別当が、熊野修験王国の政治・軍事・経済の実験を握り、主権者であった。別当家を中心とした教団組織そのものが3権を具備した。。社家、社僧、衆徒(山伏)、地方在住の山伏を総括し、山地や海辺の住民をも支配した。
▽110 牛鬼(〓愛媛にも)
▽111 ダル 大雲取などの難所では、ダルにつかれた、という話をきく。熊楠もここでダル(ガキ)につかれたとして「精神茫然として足進まず…それより後は里人の教えに従い、必ず握り飯と香の物を携え、その萌しある時は、少し食うてその防ぎとした」(民族)
ダルのつくところはたいてい塞の神の前とか、餓死者のあった場所などという人もいる。〓
▽112 巨人譚 熊野には弁慶に象徴される巨人譚、怪力譚が多かった。(〓山岳民族、忍者、身体能力の高い人が住んでいた?)(中瀬)
▽119 王子はおよそ2キロごとだが、なかには、その間に新しく設けられたとみられるところも。
…高野山や大峰山など、当時の信仰の山はほとんど婦女子の参拝を禁止していたが、熊野は、早くから女性を寛大に受け入れている。
…承久の乱後、わずか7,8年で甚だしい荒廃ぶり。「…虎狼の栖の如し」
▽122 室町時代  田辺より山路に入る御幸道に対して、海岸沿いをまわる大辺路が開削された。
▽124 近世 江戸時代初期、紀州藩が一里塚の設置と駅制の実施。一里塚は和歌山からはじまり、一里ごとに道の両側に塚を築き松を植えた。三栖で20里、伏拝で30里。
▽126 田辺の三栖口が中辺路の入口。商店街の北新町のこの地点に1857に設けられた「左くまの道 右きみゐ寺」の石標が立ち…(中辺路の起点)
…巡礼は伊勢から熊野、熊野三山から西国の札所をまわった。新宮・那智の方から本宮へ来て、潮見峠を越して田辺に出てきた。(杉中浩一郎=祖先は茶屋?〓)
▽133 斎藤茂吉 雲取を越えて来ぬれば山蛭の口処あはれむ三人よりつつ(ヒルがいた〓)
▽140 南方熊楠
日本国内でありながら、熊野者といえば人間でないように見られる僻地である。しかし、そんな僻地のため和歌山市などとちがって蒙昧であるため、科学上きわめて有用な地方であり…
…明治37年、那智勝浦方面の採集を一区切りつけた熊楠は、大雲取、小雲取を越えて田辺に向かった。途中小口で一泊して川湯へ。藤屋に泊まり、川湯峠、檜葉、皆地、平井河谷を経て近露へ。北野屋に泊まる。栗栖川の紅葉屋泊。〓
…明治41年、中辺路町水上。潮見峠を越えて、水上の中林近蔵〓の離れを借りて3泊。私(中瀬)がはじめて水上に入ったのは昭和54年。中林家は清治氏の代だった。「熊楠のことはよく覚えている」。ここには田辺の多屋氏の持山で、現在自然学習林となっている大内谷原生林があり…
清治「酔っぱらって支離滅裂の話をし、しまいに窓から小便をした。そんなのを見ると、どこがえらい人なのかわからなかった」
…明治43年、中辺路町兵生。
(熊楠の足跡をたどった中瀬喜陽さん〓)
▽144 石仏
生馬の鹿供養塔。奇絶峡の磨崖仏 秋葉権現
▽146 庚申塔 60日に一度の庚申の日は、夜を眠らずにすごして健康長寿を願う信仰を庚申待という。民間信仰のひとつで、源流は中国の道教の信仰にある。
庚申塔の造立は室町時代になってからで、沖縄県を除けば全国にある。〓
▽149 清姫淵の上の真砂の板碑。清姫の墓といわれるが、銘文を見るとまったく関係ない。
▽牛馬童子 「明治24年8月1日尾中勝治」銘の童顔の役行者があり、同じ石工の作だろう。この石像を花山法皇の熊野御幸の姿とするのは近年の付会で、この付近は丹田の丘の水源地をなし、大峰修験の影響を受けた水神信仰から祀られたものと思われる。
▽蛇形地蔵(道湯川) 湯川谷下手の谷間から産する海藻の化石といわれる板石の模様が大蛇の鱗に似ており、この板石を壁に鎮座しているところからその名がある。難所であった岩神付近で、いき倒れる者が多く、その亡霊がダルとなって疲れた旅人に憑き、災厄が絶えなかったので鎮魂のために岩神峠に建立し、のち、街道が廃れ明治22年の水害後この地に移したと伝えられる。
▽空也上人供養塔
▽車塚の板碑
▽156 魚の引き売り〓 田辺のまちで、箱形の手押し車で魚の行商。漁業地の江川〓の婦人たち。魚行商の婦人は、以前は江川に60人ぐらいいたが、いまは20人ほど。…手押しの箱車を使うようになったのは、実は昭和初期から。
▽159 フナダマ信仰 本宮町の三越の舟玉神社。音無川の上流にあたる。熊野川の河口、新宮対岸の鵜殿の船乗り衆があがめた海上安全の守護神。造営や修理は船乗り衆の寄進によったといわれる。いまは県内外の人々が船の神様として信仰し、5月3日の例祭には船舶関係者の参詣でにぎわう。釜石市の御船祭の船歌のなかに「紀の国の音無川の水上に、船玉十二社大明神」とある。江戸末期から明治にかけて流行した端唄「紀の国」からとったものであろうが、この神社が全国的に船の関係者に知られていたことを物語っている〓。
▽162 雨乞い 戦争前まで、雨乞いの法としてよく取り上げられたのは、高野山から火を迎えてのお火焚きと、雨乞い地蔵への祈願。
▽163 皆地笠 軽くて、日よけにも雨よけにもなる。野外で働く者や旅をする者がよくかぶった。農作業には必需品だった。
▽山まつり 山の神は女の神。男根の形にした木を供えることも。…
▽三体月 上田和(逢坂峠の上)で11月23日の夜に催し。熱心な人たちによる実行委員会がある〓(見えるわけがないのになぜ?〓)
二十三夜に月が3体になって昇るといわれているところは、熊野だけでなく、近畿、四国、九州にも見られるようだ。
▽シバマキ(たばこ) ツバキやカシなどの葉にまいて吸う。とくに女性にたしなむものが多かった。歩きながらでも仕事をしながらでも吸えるので、活動する女性に好都合であった。中辺路の山間部では、シバマキの煙は虫除けにもなった。(〓ヒルにも) シバマキを口にしている光景は刻みたばこが売られていた昭和55年ごろまで見られた。長崎の五島列島や淡路島の東南海岸にもこの風習はあった。〓〓
▽168 イチイガシは上質の家具や農具の材料で、漁具にも需要があり、伐採され、姿を消していった。イチイガシの巨木が残っているのは、鮎川の剣神社と本宮大社の森と、その裏にある祓殿王子だけ。
▽170 近露から野中にかけては、古くから開けた農村地域で人家も少なかったと考えられるが…
…照葉樹林に挟まった谷間には、渓流沿い特有の渓畔林と呼ばれる落葉樹林がみられた。渓流沿いに細長く発達した。暗くじめじめした照葉樹林をヤマヒルに悩まされながら抜けてきた人にとっては淡い日光の入ってくる渓畔林は一服の清涼剤だったにちがいない。〓(照葉樹林にはヒルがいた)
▽172 紀南でまとまった広さの植林が一般化したのは昭和に入ってから。現在のように拡大造林が推し進められるようになったのは昭和30年代以降。林道網が整備され、チェーンソーが導入され、広大な植林地が出現。
…昔、大形ほ乳類が多数生息していたためヤマヒルが多く、旅人を悩ませた大雲取越えを最近になって調査したところ、ヤマヒルは全く見つからず…〓
…山の生態系を「完膚なき状態」にまで破壊したのは、昭和30年以降の「高度経済成長政策」だった。しかし基本的には、敗戦によって生じた「日本人の遺産として受け継いできた自然観の放棄」であったと考えられる。(後藤伸)

□たべもの
▽175 南蛮焼=かまぼこ
縄巻鮨 江戸時代末に田辺に生まれ、昭和のはじめに消えた。幸田露伴が絶賛。熊楠も食べた。大阪の栗本圭三氏が復活に成功。その妻と娘が吹田市でつくっている?〓
▽182 サトイモを主食のようにしているところもあった。恵まれた地域でも、毎食水分の多い茶粥を口にしていた。 熊野の山間部の食事は1日の全部が粥食になることが多く…7食ということも。米は水の1割以下(〓伏拝?、大塔?)
昭和8年、高浜虚子は「中辺路」という文章のなかで、「道端に在る井戸の傍らで、桶の中の芋を棒でかきまわしている…女が、口に椿の葉で巻いた煙草をくはえているのを見た」
正月の膳に上るボウリなどは、土地によって餅にかわって重要視されていた。
▽184 高菜 メハリ寿司は、以前は熊野川や日置川の上流付近で、山仕事や川仕事をする者が竹の皮などに包んで弁当として持参した。家では子どもたちのおやつがわりでもあった。
▽187 ボウリ 里芋の煮しめたもの。正月の膳に用いる。正月に餅をつかなかった鮎川のほか、中辺路町の西谷などでも。(杉中浩一郎)〓

□宇江さん紀行文
▽190 秋津川地区は紀州備長炭の発祥地。天神崎のナショナルトラスト。
中三栖に住む友人の重岡美也(朝日新聞の田辺駐在→随筆クラブ?)と、中辺路の野中の家まで30キロに挑戦。
潮見峠 ここで海の見納め。捻木の杉。清姫伝説。
小皆〓の里に小さな小屋の民具館〓 上中道雄さん(明治40年生まれ)がしたという。
三体月 大正時代にいったん絶えたが、最近、里の人が復活させた。近野地区。
逢坂峠には杉中茶屋があった。大正13年に近露に下った。その子息が杉中浩一郎先生。茶屋は和田藤九郎という人が昭和のはじめまでやっていた。
▽200 牛馬童子像と役行者像。どちらもあまり古いものではない。行者像には「明治24年8月1日尾中勝治」の銘がある。
▽204 古道はわが家の10メートル上を通っている。
一方杉。樹齢800年以上といわれ、直径2,3メートルの杉が合わせて9本。熊楠が守った。
…王子社は近野神社に合祀されたが、後に氏子たちが御神体を取り返してきて、、元どおり野中の神社として祀っている〓〓(いつ? だれが)。
▽205 草鞋峠から岩神峠までの8キロばかりは、かつては蛭降峠といわれた。現在そんなところは熊野古道ではどこにもない。山蛭は紀伊半島では大峰山脈の原生林だと少しはいるだろう。
▽207 道湯川 仮御所もあった。明治22年の水害で打撃をうけ、さらに道路が四村川沿いに開かれたためにさびれ、昭和31年に最後の湯川家が差って無住の地に。昭和34年、私たちが植林地の手入れのために借りたのも湯川さんの家だったが、今は倒壊して屋敷跡を残すのみ。
蛇形地蔵。 道湯川から野中の里へ移住した人々が中心になって、今もまつられている。(〓宇江さんも?)ぜんそくに霊験があるともいわれる。
湯川王子。無住になった後に社殿も倒壊していたが、昭和58年に地元出身者たちによって復興された。
▽208 伏拝 ビワやハッサク、茶畑、モグラ追いの小さな風車。
ここから本宮までは、新宮藩主の水野重央が1619年に改修したもので、ところどころに石畳がある。
▽210 熊野川の川船は、昭和30年代まであった。新宮と五条を結ぶ168号が開通したのは昭和34年。
現在、定期的に運航しているのは瀞八丁への観光用ジェット船だけ。志苦が発着場。
紐をつけてポリエステルの容器がたくさん浮かんでいるのは、モクズガニをとる籠を沈めている。
▽212 熊楠は那智の一の鳥居のそばの大阪屋で間借りしていた。2年半那智に住んで生物の研究に没頭。
▽214 青岸渡寺の宇江の阿弥陀寺。人民解放運動の先覚者たちを合祀した「戦士之碑」があり、荒畑寒村の歌碑も。
▽215 ダルに憑かれると空腹を覚えて動けなくなる。熊楠も…
斎藤茂吉、土屋文明、武藤善友も大正14年8月に大小雲取を越えている。
▽218 楠久保 かつては何軒もの茶店や宿があった。昭和30年代から離村が相次いでついに廃村に。
▽220 小和瀬で川を渡る。吊り橋を渡ったところに十数戸の家が散らばっている。〓
▽225 御幸記の藤原定家は、輿にのり、大小雲取を越えて1日で本宮に着いている(背負う人の体力のすさまじさ)
▽226 湯峯神社 小栗判官が再生した。全快したために、照手姫が車を捨てたと伝えられる峠の「車塚」(ちがうパターンの伝説も)

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