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南方熊楠 地球志向の比較学<鶴見和子>

■南方熊楠 地球志向の比較学<鶴見和子> 講談社学術文庫 20150609
□南方熊楠の世界
南方は文系・理系にとらわれない巨人だ。ヨーロッパの学問のまねではなく、ヨーロッパと日本とアジアの学問と格闘するなかで、大乗仏教を基礎に置いたみずからの理論をつくりあげていった。西欧の科学の呪縛にもとらわれなかった。
小さな文章でも、参考文献の数がすさまじい。たとえば「十二支考」の「蛇」では、引用書目およそ142種、英54、日50、漢26、仏6、羅2、伊2、独2という。なみの博覧強記ではない。
それほどの巨人なのに数えるほどしか著書がない。さらに、現場を徹底的に調査をする人ではあるが、理論をつくりだしていない、と評されてきた。
鶴見はそれに異を唱える。論文や多くの書簡のなかで南方は、時代を先取りする方法論を駆使し、その後の理論につながる枠組みを提示していたと主張する。
柳田国男との比較もおもしろい。柳田は「内発的な社会変動論」であり「一国民俗学」だった。日本にある習俗が、世界でどんな位置づけにあるかを比較検討する視点がなかった。
一方南方は「内発的な比較の学」であり、国際比較の民俗学だった。民俗を特定の地域の土壌に根ざした固有の生態系の一部とみなしたが、同時に「日本にあるほどのことはヨーロッパにあり、ヨーロッパにあるほどのことは日本にもある」という人間の普遍性についての信念があった。
発生・生成の土地において見るという、地域性の強調は粘菌研究に根ざしている。地球的規模の広がりをもって、共通の事象があるかどうかを調べ、相関関係のあり方を探求することは、真言密教の独自の解釈である「南方曼荼羅」が基礎になっていた。地域への求心性と地球的規模への遠心性との緊張関係が、南方の比較学の特徴という。これを鶴見は「地球志向の比較学」と呼ぶ。

□南方熊楠の生涯
奇人としての熊楠ではなく、ずばぬけて独創的な学問の方法と思想がどのようにしてつくられたかを論じる。
子どもの頃に、真言大日如来の信仰や心学の教えを深く植えつけられたから、西欧の科学・合理主義と火花を散らしてたたかうことができた。勉強好きだが学校ぎらいで、大学に行かなかったから「専門バカ」になることをまぬがれたという

孫文との交友を通して、日本人の醜さも容赦なく指摘している。孫文が逆境にあるときは無視あるいは侮蔑していた人々が、権力を握ると昔からの旧知であったごとく振る舞っていた。南方はその反対の交わり方をした。中国との戦争にも反対だったが「なにかいうとぶちこまれる。ぶち込まれる時間がおしいから、できるだけ官憲にたてつかないことにした」と言っていた。

柳田との絶縁は柳田の女性問題をきっかけだったが、それがなくても、二人の意見は次第に離れていたという。
南方は、世界・地球の一部としての地域(エコロジーの単位)を考えたのに対して、柳田は日本国の一部としての地域(政治的単位)を考えた。神社合祀問題で南方が外国の研究者に訴えようとしたとき柳田は「国辱を外にさらすものだ」と猛烈に反対した。
また柳田は「常民」を造語したが、南方は集合名詞として人々をとらえず、あらゆる職業の人々と、個人としてのつきあいを重んじた。

□南方熊楠の仕事
鶴見は、比較民俗・比較民話・比較宗教・神社合祀反対運動という4つの意味で、南方の仕事を「比較の学」と位置づける。
南方の議論は、仮説をたてそれを検証するという「検証の理論」ではない。データの観察と収集から始めて、異なる属性をもつカテゴリーの事物の間の関係を調べ、しだいに抽象度の高い「形式理論」へと研究を進めるという帰納的な「生成の理論」に似ているという。
「検証の理論」は数学と理論物理学をモデルとするのにたいし、生成の理論は生物学がモデルとみられる。南方の時代は生物学が先進科学だったが、後に理論物理学が花形になり、現在ふたたび生物学・生態学が脚光を浴びている。南方の学問スタイルは現代を先取りしていた。

「人柱」をめぐる柳田との見解の違いも興味深い。
「人柱」について南方は、江戸時代どころか明治までおこなわれていたことを示した。柳田は人柱はごく少数だった、と考え、柳田の弟子は説話流布の姿だけに焦点をあてるようになった。血なまぐささが消えていった。そうした人間感覚の喪失が、資料を集め分類するばかりの昨今の民俗学を生み出したのかも知れない。

南方の「比較宗教」の根底には社会進化論批判と、進歩史観の否定があるという。
南方は、信仰の優劣の基準を、その時代までの科学の成果に合致するかどうか、人類あるいは生類のあいだの差別をなくす方向にむかっているかどうか、の2点に求める。
「輪廻因果」で物事を説明する仏教のほうが、「神意」によって説明するキリスト教より科学に近いと見る。一方、人間の平等という意味ではキリスト教が上まわると判断する。さらに、生類の無差別を主張するジャイナ教はよりすぐれていると評価した。
ウェーバーが、「合理性」を尺度として、プロテスタンティズムのキリスト教がもっとも「合理化された」形態だとしたのに対し、南方は科学との一致を尺度として、大乗仏教をもっともすぐれた宗教原理と判断した。

神社合祀は市町村合併と同時並行で進められた。神道の国教化政策の一環だった。明治政府はこれら2つの合併によって、地域の自然とその上にきずかれた共同体を崩壊させ、中央集権化を急速に実現しようとした。1906年から11年末までに、全国でおよそ8万の村社が合併もしくは廃止された(〓文化大革命)。合祀件数は、和歌山県は三重県についで高く、三重県は6.8分の1になり、和歌山は4.7分の1になった。
神社をこわすということは、それをとりまく神林を伐採することになる。南方は、それによる珍奇な植物の滅亡を憂え、寄り合いの場である神社を壊すことによって自治を阻むことを怖れ、森林を滅ぼすことによって鳥類を絶滅させ、害虫が増え、農産物に害を与えることを心配した。海辺の樹木が切られ、魚がよりつかなくなることをなげいた。宗教心が衰え、連帯感がうすらぐことを悲しんだ。
植物生態学だけではない。生態系を破壊することによって人間の生活が壊され、人間性そのものが荒廃することまでも言及した(神社合併反対意見)。いま、公害反対を唱えるときエコロジーの助けを借りるが、南方は20世紀初頭に生態学の発想で自然破壊政策に抵抗していた。すでに「エコロギー(エコロジー)」という言葉も使っていた。権力による強制的な町村合併によって、小地域ごとの社会生態系を見出すことにも反対した。かれは今日の「地域主義」の先駆的思想家だといえる。
神社合祀反対運動に修羅のようにとりくんだからこそ、比較の学としての南方の学問は地域に根を下ろせた。まさに「生きている学問」だった。
植物学・生物学・民俗学・宗教学への関心と、農民漁民職人ら日頃つきあってきた人々への共感が、この1点に集中するのが合祀事件だった。
鶴見によると、南方とソローは似ている。二人とも、考えたことや言明したことを実践したという意味で「思想家」だった。ソローも南方同様、投獄を体験している。米墨戦争に反対して人頭税を払わないことで一晩つながれた。その経験をもとに「市民の不服従」を書き、ガンジーやキングなどの非暴力不服従運動の世界史的な潮流をつくったという。

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▽熊楠の娘婿で日本大学水産経済学教授の岡本清造氏と文枝夫人
▽ 柳田は庶民を「常民」とひとくくりにした。南方は、近所の床屋や銭湯で長時間にわたり古い話を聞いていた。南方についてこれらの人々は「常民」といった集合名刺ではなかった。
柳田は「性」の問題をとりあげるのをいやがった。民俗学を上品な学問にしたがった。これは武士階級の禁欲の伝統にとらわれていたともいえる。南方は性にたいしておおらかだった。日本の庶民伝統に直結していたのだろう。
▽90山の神にオコゼをちらりと一部だけ見せる。山の神はその全体を見ようと、熱望のあまり、いろいろ与えてくれる。紀州の漁師は山神を大変好奇心に富むものとして扱っている。日本人の好奇心が「のぞき」によって象徴される。「のぞき文化」の好例。(山の神をだます=男根を見せるという発心門の話)
▽117 南方は生涯妻以外の女性を知らなかった。みずからの行いがさわやかであったからこそ、自信をもっておおらかに性を語ることができた。性を語ることを避けた柳田が、おこないにおいてだらしないことがあったために、後年になって、南方は柳谷絶交状をたたきつけた。
▽133 孫文にはじめて会って以後、孫文がロンドンを去るまで、ほとんど連日会い…。
…和歌山での孫文との会見には尾行がついた。しかも、南方の旧友の密告によるものだった。
▽146 中屋敷町に、400坪の土地と家とを常楠名義で買い入れた。
…闘鶏神社神主の四女松枝と結婚。熊楠40歳、松枝28歳。
…1925年、熊弥発病。…岩倉病院に入院。1937年に退院して、海南市に家を借り、看護人をつけて療養生活に。53歳で亡くなるまで快癒することはなかった。
… 大酒飲みだったが、50歳で禁酒。
▽164 神島に天皇は行った。合祀反対運動は反政府運動だったが、天皇が、熊楠のその働きに脱帽したのは皮肉だった。
粘菌標本を進献した。ふつうは桐の箱に入っているものだが、すべてキャラメルの空き箱に入れてあった。
▽167 昭和16年父の死と共に、遺構書籍等、数多の買い手が訪れはじめたが、母は保存しておけば、いつの日か日の目を拝むこともあろうと、とその散逸をおそれ、頑として聞き入れなかった。
いつまでも父の霊が書庫の中に生き続けていると信じてか、お盆が来れば迎え火をたき、第一に書庫を開き、眼鏡を添えて「さあ、おはいりなさいませ」と挨拶する母であった。昭和30年11月6日、77歳の生涯を閉じた。
▽175 南方は、どんな小さなことを引照するときも、一般向けの読みもでも、必ず原典にあたってたしかめ、出所を本文中で明らかにしている。厳密な出典明示。
… 桑原武夫は「学問が今日のごとく細分化されぬ前の全人的なもの、今日もはや呼びかえしえぬ健康なものがみとめられる」と記す。
▽183 「古代の伝説や俗信には間違いながらもそれぞれ根拠があり、種々の学術材料を見出しうる」
▽188 形而上学的概念である十二支を、実態である十二禽と混同することによって、年齢や方角についてさまざまな迷信が生じたと論じる。
▽193 下野屎子とか、森蘭丸とか、穢れのものを名前につけたのは「邪鬼を避けるため」「まる」とは不浄を容るる器なり(おまる)
▽194 節分にマメをまくのは、鬼が豆の数を数えているうちに邪視力を失うから。インド女性が眉間に黒い星をつけるのも、汚点をつけることで、羨望の視線を防ぐため。…アイシャドーやほくろは、もともと邪視をさける手段だったのが、かえって、人目をひく方法に転化したといえよう。
…邪視とは、差別されるものの側からの、不平等への異議申し立ての原初的形態。(狐憑きの話〓)
▽民話についてはシンデレラが中国起源である可能性を示した。似たような話を比較検証して、相互の関係を考察する。伝播説あるいは独立発生説のいずれも前提にするべきではないきとを論証した。
▽225 神島伐採に反対し、保安林にするよう奔走した。
▽237 地球上共通の問題に対して、世界の世論をおこして反対しようという発想は、今日の民際交流のはしり。柳田国男らが猛反対したため思いとどまったが。
▽男の研究者や作者は、南方の奇行に注目しがちだが、鶴見はふつうの人として熊楠の姿も描く。たとえば、渡米を誘われたとき、「妻は肉類を食べられない。妻なしで一人で行ったら、大酒を飲んで人を傷つけるぐらいのことに終わる……」と断ったという。

□神社合併反対意見
▽260 合祀は敬神の念を減殺する…人民の融和を妨げ、自治機関の運用を阻害す。合祀は地方を衰微せしむ。…氏子みな応分の入費を支出し、社殿の改修、祭典の用意をなし…(パブリックなスペース。公共的なスペース、入会地や森があることで地域の絆を育むことを指摘する〓)
▽266 英国のパサー氏は、野外博物館を諸村に設けようと主張。それは実は神林のある神社のようなものだ……(イフガオの「ミニ博物館」。民俗資料館の意味〓)
▽274 合祀することで、神林の材木を争って名木が伐採されつくされ、土砂崩壊して小川を埋めて、年々洪水…(欲のぶつかりあい。私利私欲が山をダメにする。戦後の植林も、パブリックな公共的利益を無視することで山をダメにした〓)
▽280 八上王子、田中神社、岩田王子社…も、きりつくさんと村長、村吏らは計画せり。

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