MENU

街道をゆく 熊野・古座街道<司馬遼太郎>

■街道をゆく 熊野・古座街道<司馬遼太郎> 朝日文庫 201506
古座川沿いの古い街道を旅しながら、「若衆組」をテーマに話を展開する。東日本は家父長制・封建制が根強いが、西日本の農村社会には、「若衆組」という身分や家柄に関係ない組織が存在した。儒教で固められた朝鮮や中国の漢族社会にはない。ということは南方から伝わってきた習俗ではないか、と司馬は推理する。
古座街道周辺では、「戸締まりをしたら若衆に迷惑がかかるから」と家のかぎを開けていた。娘をもつ家が戸締まりをしようものなら若衆組から総スカンをくった。若衆は、夜這いに行った帰りに腹が減ると、どの家の台所にでも入っておひつのめしを食った。「お供物のような感じ」であり、「若衆」という語感は、古代の(たたり)神に近かったという。
薩摩藩は居住区ごとに「郷中」という南方的な若衆組織をもっていた。郷中頭という若衆頭がいて、西郷もその役割を担った。征韓論にやぶれて帰郷すると、西郷は郷中組織を復活し、鹿児島私学校とした。
若イモンタチは、平時にあっては鹿児島でいう大人衆(おせんし)に従順だが、いったん正義としての暴力(戦争)を思いたつときは、大人衆は無力だった。オセンシである西郷は蜂起に対して反対意見をもちつつも、「俺の体をやる」と、かれらに担がれざるをえなかった。
同様のことは、昭和初年の軍部の下剋上でも起きた。青年将校は若衆組そのものであり、荒木はオセンシの代表だった。平素ならばオセンシに従順でなければならない。しかし若衆組が政治的正義を共有し暴力を志向したとき、オセンシである荒木は若衆頭である青年将校の代表と対等に話し合わざるをえなかった。オセンシは若衆組に従うべきだという古代以来の法則が作動した。その時期がすぎると、軍部そのものが内閣に対して若衆組になってしまった。
さらに、戦後の革マルとか中核といった過激団体も、太古以来日本社会に引き継がれてきた若衆宿ではないか……と、司馬は論じる。
農村の若衆宿は、旧制中学という存在によって少しずつ崩れていった。昭和期というのは、若衆組や田掻きだけでなく、日本の多くの遺俗を容赦なくほろぼしてしまったという。
若衆組などの古代以来の風俗がほろびることで、若者を団結させる原理じたいが滅んでしまったのではないか……と思わされた。

=================
▽若衆組 西日本全般の農村社会を特徴づけてきたというのは、日本人の先祖もしくは日本の古代文化の一源流が南方にあるという証拠になっている。儒教でかためられた朝鮮や中国の漢族社会においては存在しなかった。

▽紀州方言に敬語なしといわれている。温泉宿の女中さん「あのにぃよ」(あのねえ)。
熊野へゆくたびに、島尾敏雄氏の造語であるヤポネシアということばを思いだす。
…Kさんは「若衆」という語感に一種神聖語にちかい感じを幼時にもっていたという。
…戸締まりをしたら若衆に迷惑がかかるから、戸締まりをしない。娘をもつ家でもし戸締まりなどしようものなら、若衆組から総スカンをくらってしまい…。Kさんの幼時の印象では、「若衆」という語感は、古代の(たたり)神に近かった。…若衆は、よばいに行った帰りに腹が減ると、どの家の台所にでも入っておひつのめしを食うのである。「お供物のような感じでした」
▽薩摩藩は居住区ごろに「郷中」という南方的な若衆組織をもっていたことで特異だった。郷中頭という若衆頭がいて、西郷は何度もつづけた。…征韓論にやぶれて帰郷すると、かれはこの郷中組織を復活し、私学校とした。その私学校がやがて暴発したが、西郷でさえ、それをおさえることにはまったく無力であった。
▽20 旧制中学という存在は若衆組が崩れてゆく要素のひとつだった。
▽21 新宮の中学へ行ってしまえば、共同体の若衆組とは無縁になる。上代以来の村落の土壌から切り離され、根無し草になってしまう。
▽22 明神だけで13個の字がある。「少年時代、新宮がニューヨークか東京のようにきらびやかだった」
▽24 備長炭は松炭などよりはるかに低温で600度しかでない。ウバメガシは堅くて水に沈む。木炭になると金属音を発する。木琴になる。ドングリはほかのドングリに比べてしぶみが少なく、縄文時代ではむしろ主食というべき存在だった。〓
…古座川筋の農家では干しアユ〓が料理のだしに使われてきたが、干しアユをつくるのに、備長炭が必要。
▽27 昭和期というのは若衆組や田掻きだけでなく、日本の多くの遺俗を容赦なくほろぼしてしまった。(網野)
▽以前の白浜は、客が来れば湯に入れるというだけの素朴な時代がつづいた。昭和29年。
▽39 登りきった峠が、地図によると、獅子目峠だった。
…古座川。七川という山間の村で、七川ダム。ダムで下流の水害はへったが、いまはどうやらダムをつくったことに村々では後悔しているむきがあるらしい。…水が濁るようになった。ダムの底の水が流れるから、水温も低くなり、魚が減った。
▽46 真砂を衰えさせたのは、昭和のはじめに開通した古座からの道路。大屏風は幅250メートル、高さ200メートル。「一枚岩」
「クサギの虫」 味は蜂の子に似ている。生で食っても美味、串に刺して焼いても美味。〓
▽60 若衆組の内部では、家柄や村落秩序のなかでの身分の上下関係はいっさい通用せず…若者頭の権威は、しばしば村長さえ遠慮するほどのもの。
古代社会では遠方から客人が神に近い感じで印象されていたように、若衆というのもやや似たような感じで遇されていたのではないか。
…若衆組というのは、南方的なものなのではないか。
▽71 郷土史家の橋詰氏。後南朝の皇子の末裔の家があって名家とされている。…朝里(あさり)家
▽76 川舟で、榊の竿をつかっているのは熊野以外にはなさそう。〓
…熊野・古座川筋の旧七か村というのは、ほぼ身分的に平等意識を持った社会である。方言のなかに敬語が発達しなかったという紀州一円の特徴。「あそこの家はいい家だからといって、特別なあつかいをしたり、言葉をあらためたりするということは、なかったようだし…」
(〓金蔵や曽良、国重などとは正反対)
▽84 土佐の郷士階級では、よばいもあったらしい。
▽85 古座川筋にも「若衆宿」「私の在所の明神にもあります」
▽92 小川(こかわ) 古座川本流にはダムがあるから濁ってしまったが、支流の小川は以前の清らかさがわかるという。
▽100 明治9,10年ごろの鹿児島私学校、昭和初年の陸軍の軍人社会、こんにちの革マルとか中核といった一種の左翼的な過激団体。それらは、太古以来、日本の社会に有形であれ無形であれ、ひきつがれてきた若衆宿ではないか。
…若イモンタチは、平時にあっては鹿児島でいう大人衆(おせんし)に従順である。ところがいったん若者団体が正義としての暴力(戦争)をいっせいに思いたつときは、大人衆は無力このうえない。私学校が暴発して、オセンシである西郷がそのことに反対意見をもちつつも、「俺の体をやる」といって、かれらにかつがれざるを得なかったのは、朝鮮にも中国にもヨーロッパにもないふしぎな政治的奇習ではないだろうか。
昭和初年の軍部の下剋上。…若い少尉は軍人というよりも若衆組そのもの。荒木はオセンシの代表。平素ならばオセンシを尊び、それに従順でなければならない。しかし若衆組がいったん政治的正義を共有し、…暴力へ志向した場合、逆にオセンシは、若衆組に従い、それに乗っかるべきであるという古代以来…の法則が、露骨に作動するのではあるまいか。
▽105 青年将校は若衆組であり、荒木のようなオセンシが、若衆頭である青年将校の代表たちと対等で話し合ったりしていた。その時期がすぎると、軍部そのものが内閣に対して若衆組になり…
▽111 平安初期か奈良期に西アジアからキュウリが伝わってきた。暑気よけによいとされ、疫病ばらいにも効くとされた。八坂神社の定紋がキュウリを輪切りにした断面を模様化したもの。
▽112 高池をすぎると古座の町に入る。街道沿いの家並みは、大正期から時間が停止しているかのように古寂れている。「サンパツ屋というのは大変な文明機関でした」。その散髪店「浅利理容所」がそのまま残っていた。松場所は上げ床がつくられ、畳が3畳敷かれている。順番を待つ客はここで碁や将棋をして…この感じは江戸時代の床屋とほぼ変わらない。(〓今は?)
▽116 日本の原社会像としての若衆組・若衆宿の存在はすでに消滅したこんにちでも、社会心理の上で、日本の社会においてはあらゆる面で生きているように思えるのである。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次