ちくま文庫 20060514
演歌や懐メロは子どものころ聴かされた。だが興味はない。聞きたいとも思わない。
でもよく考えると、古賀メロディーや美空ひばりはなぜあれほど人々の心をとらえたのか。若者から老人まで夢中になったのか。
戦後直後、「日本人はフンドシをしていたから戦争に負けた。パンツのように文明的なものをはいているアメリカ人にかなわない」「下駄は野蛮な国の履物であり……文明の恥であり」といった滑稽な言説がまかりとおるほど、旧来の日本の文化や風俗が全否定された。そのなかで七五調の音楽も、「軍歌と同じ」と批判され、歌謡曲は「低俗」とされた。
だが、そんな「低俗」な歌が大衆の心をがっちりととらえる。
竹中は美空ひばりに熱狂する民衆を、ひばりの音楽を全面的に肯定し、ひばりこそが民族の心に根づいたフォルクローレだと位置づける。
キューバ訪問(67年)にひばりのレコードを土産にもっていくと、同行した音楽家から「もの笑いの種になる」と批判された。だが外国の音楽家はそんな「低俗な音楽」に感動し、評価した。中南米では「古い」と言われるフォルクローレを聴いて私たちが感動するかのように。
50年代の革命の機運に参加した若者たちがいた。一方でひばりに熱狂する若者がいた。その両者の熱狂の間に橋をかけられなかった、と竹中は嘆く。
僕らの世代は、演歌や懐メロでは心は動かされない。
今の若者世代では七五調で感情移入する感覚すら失われてしまったろう。敗戦さえも乗り越えて受け継いできた民衆の音律を失ってしまったのだろうか。
と思って好きな歌を口ずさんでみる。
たとえばフォークには、けっこう七五調が多いことに驚く。さすがに尾崎豊には七五調はなさそうだが。
七五調という定型は、心にうかんだ言葉をはめこみさえすれば歌になった。人から人へ共通の情緒をつたえてゆくために「うたいやすい」一定のリズムが必要だった。短歌から民謡が、俳諧から俗曲が発生したように、貴族階級や武家階級の音律を、民衆がうばって、感情表白の手段としたと、竹中は見ている。
戦前から戦後にかけての世相と流行歌の変遷を追った第二部の「歌ごよみ」を読むと、戦前の軍国主義にさえ、大衆は諷刺の歌をうたうことで抵抗していたことがわかる。
古賀政男は抒情の歌をぎりぎりまでつくりつづけた。川田とミルク・ブラザースは1942年に警視庁から解散を命じられるまで、「笑い」の歌をうたいつづけた。
「国家権力の弾圧に抗して、最後まで自由のトリデを守ろうとしたのは、獄中の壁に自らを孤絶していた左翼エリートではなく、市井の大衆芸術家たちだった」
歌の威力を知っているからこそ、時の権力は、七五調という音律を民衆からもぎとって戦意高揚の「新民謡」を粗製濫造した。だが権力が強制した「民謡」はまるで流行しなかった。
戦後、七五調は徹底的に批判されるが、古賀メロディが復活し、美空ひばりが大ヒットする。この動きを、真の大衆民主主義への流れといったニュアンスで竹中は評価した。
だがその後どうなったのか。七五調は消え、商業主義的な音律ばかりになってないか。
私小説のように「自分」に閉じこもった歌ばかりになってないか。
現代の音楽事情を竹中ならどう斬るのだろうか。
---------抜粋・要約----------
▽1940年、皇紀2600年の前夜、復古調の波にのって、百人一首が流行した。
素朴な七五調の叙情は古来、民族の情動を支配してきた。祭文、浄瑠璃など、さまざまに分化した「語り」の音曲の原型である。日本人の哀傷、詠嘆、かいぎゃく、などの詩的感情を表白するのに、もっとも適切な音律だ。
それがひばりの周囲にいつもあった。
▽1941年、「夜霧の馬車」は美しき時代の挽歌であり「古賀メロディ」の終止符だった。子がは戦争中も抒情的小曲をつくって抵抗したが、けっきょく屈服して「勝利の日まで」のような歌曲を製造しなければならなくなった。
▽戦後、知識層は「日本人は4等国民である」「精神年齢12歳である」と大衆を蔑視した。左翼を自称するエリートたちが「大衆が理解しない」という。冗談じゃない。そういう指導者づらが、日本の「民主化」をあやまらせたのだ。庶民大衆は瓦礫の街に生き残って、人間としての矜持を失いはしなかった。(ひばりの父のつくった)青空楽団もそうだった。
焼け跡から歌はおこる。人々には、歌うことだけが残されていた。どんなに悲惨なまずしい状況の中でも、人にいのちと希望があるかぎり歌はほろびない。知識費との慨嘆とかかわりのないところで、日本の民衆は廃墟から立ち上がり、自立更生の道をあゆみはじめていた。
▽ひばりは「紅白歌合戦」をのぞいて、自分のワンマンショーでなければNHKの番組に出演しない。庶民の子ひばりの権威に対する抵抗であった。
▽「彼女の歌はおぼえやすく楽しく、しみじみとしたものをもっていた。誰でも、どこでもうたうことができた。・・・」NHKの「素人のど自慢」は美空ひばりをしめだしたが、庶民大衆はひばりの歌声を愛した。小さなひばりの歌には、大人の職業歌手よりも大きな拍手があつまった。
▽1949年、戦後はじめて日本の大衆が占領軍に対して公然と敵意を示した。アメリカの言う「民主化」が、日本人を奴隷にし日本列島を軍事基地化する方便であることを民衆はようやく見ぬきはじめた。古賀メロディーなどの復活はこうした世相を背景に準備された。大衆の心は民衆の歌を、日本の音律を求めていた。
▽1950年、千円札が発行され、歳を「満」でかぞえるようになり、社会党が左右に分裂する。すさまじいレットパージの嵐が吹きすさんだ。
▽血のメーデーに傷つき倒れた全学連の若者たちと、美空ひばり後援会の働く男女。2つの若い集団には、連帯の橋がかけられなかった。美空ひばりが資本に奪取されていったように、メーデーに集中した革命の情熱も、やがて分裂と相克をくりかえし、資本主義社会の雑食の風景に埋没していってしまったのでは・・・。
▽小林旭との結婚と離婚の経緯を書いた手記。
▽母親の存在
▽「ことしの母の誕生日、私たちきょうだいが贈ったのは、感謝のことばをサインした100円のビニールのタコ人形でした。それでも、母は、涙を流してよろこんでくれました」
▽美空ひばりほど、飾らず、あけすけに、プライバシーを語るスターに私は会ったことがなかった。
▽クラシック中心の「労音」の舞台に。1952年、歌舞伎座とメーデー広場と二つに分裂した民衆の情熱は、そこで一つになり・・・・私は確信している。美空ひばりは本質的に大衆の歌い手であり、彼女の歌声は私たちが芸術的植民地主義を打破するための強力な武器になっていくにちがいない。
■歌ごよみ30年
▽関東大震災の前年、不景気風のなかで、売春婦の悲哀をうたった「籠の鳥」。くちびるに載せたのは紡績女工たちだった。
▽1937年日中戦争勃発 生活苦と失業の不安のなかで民衆は労働組合もつくれずストライキも組織できなかった。34年には東北地方を大飢饉がおそい、娘の身売りが盛んだった。朝鮮民謡をアレンジした「アリランの歌」の切ないメロディが流行していた。
「高い木はよ 斧できられて電柱になるよ 目立つ娘は 女郎になるよ」
▽発売されては禁止されたいわゆるナンセンス歌謡の流行は、しだいに重圧を加える戦争政策への民衆の屈折したしかし精いっぱいの反抗であった。……民衆はしだいにみずからの無力を感じた。……天皇のために死ぬことが至高の倫理であるというファナティックな絶叫が、民衆を戦火の地平にかりたてた。流行歌の世界でも「股旅もの」がナンセンス歌謡を圧倒していく。昭和初期まで、流行歌にヤクザモノは登場しなかった。無頼の徒は浪曲の世界にとじこめられていた。
戦火の谷間に傾斜する時代の中で、民衆の魂は「任侠」の情緒に回帰した。……1937年という辞典で、退廃の極北から、聖戦の修羅に突入していった。任侠精神の復活。
民衆は、国家権力の戦争政策は「そんなテはない」と批判する理性も、パピプペポと茶化す風刺精神も持ちあわせていた。しかし状況がどたん場にきていると悟ったとき、死への跳躍をためらわなかった。
▽「地球の上に朝がくる その裏側は夜だろう」 川田とミルク・ブラザースは1942年に警視庁から解散を命じられるまで、うたいつづける。陰惨な時代からの「笑いの突破口」だった。戦前、民衆の笑いを受けとめていた大衆演劇は、きびしい検閲のため生彩を失い、諷刺精神は衰弱していた。ムーラン・ルージュが「作文館」と改称させられ、ラッキー・セブンが「楽喜・世文」と改名させられるありさまだった。……国家権力の弾圧に抗して、最後まで自由のトリデを守ろうとしたのは、獄中の壁に自らを孤絶していた左翼エリートではなく、市井の大衆芸術家たちだった。
▽いわゆる進歩的文化運動から乖離している民衆の無関心を、戦前は国家権力、戦後はマスコミの責任に転嫁して事足れりというのではあまりに安直であり、無責任ではないか。日本の進歩的文化人は、偏見とエリート意識をすてて、俗流なるもののなかに歩み入らなくてはならない。「真の大衆路線」を底辺から発掘していくのでなければ、民衆との断絶はますます……
▽戦後、進歩派を自称する知識人は七音五音を攻撃する。……民謡、俗曲、歌謡曲は低俗の代名詞であるかのように唾棄された。
北原白秋や山田耕筰らによって開拓された民族歌曲の電灯は、戦後1958年深沢七郎の「楢山節考」があらわれるまで不毛の時代を通り抜けなければならなかった。その時代に、日本の音律を守りつづけてきたのは、歌謡曲の歌い手たちであった。
▽ひばりに対する左翼インテリの差別は尋常でなかった。およそインテリと称する人々にとって、ひばりは文化・芸術とは無縁だった。
▽戦後の日本 浪花節を封建の遺物と切り棄て、流行歌を俗流と文化のらち外に置き、民謡を五線譜に乗せてしまったときに、「古典」と称する停滞した、形骸化してしかも権威的な音楽しか、我々には残されなかった。