講談社選書メチエ 20060520
日露戦争といえば、日本海海戦の鮮やかな勝利が頭に浮かぶ。
意表をつく「敵前大回頭」「丁字作戦(T字ともUターン作戦とも聞いたことがあるが)」によってバルチック艦隊を撃破し、戦争の帰趨を決めたーー
ほとんどの日本人はそう信じてきた。私も信じていた。
戦後、軍神・東郷平八郎の人気が下火になると、司馬遼太郎の「坂の上の雲」によって、秋山真之という天才参謀が人気を博し、「合理主義」の体現者として認識される。
だが、80年ごろようやく閲覧可能になった「極秘明治三十七八年海戦史」(防衛研究所図書館と米議会図書館に1セット残るだけ)を詳細に検討すると、実態はずいぶん異なるという。(これは司馬遼太郎も目を通していなかった)
日本海海戦では、秋山のたてた作戦はことごとく採用されなかった。
海戦当日は、東郷・秋山の率いた第一戦隊は、敵の進路を読み違えて敵から離れてしまう。
後続の第2戦隊が「独断専行」してロシア艦隊に立ち向かうことで勝利した。
ロシア側の記録でも独断で動いた第2戦隊を高く評価していた。
こうした事実は、その後、隠蔽される。
新たな戦史が刊行されるたびに、事実はゆがめられていく。
「敵前大回頭」「丁字戦法」という言葉が流布され、東郷と秋山がたてた作戦がどんぴしゃりと成功した、ということにされていく。
日本海海戦より前、日露戦争の緒戦において、海軍は虎の子の戦艦2隻を一気に沈没で失っていた。
1隻分は発表されたが、もう1隻「八島」の沈没は、完全に隠蔽された。
もしこれが公表されれば、東郷の責任問題になりかねなかった。
どちらも隠蔽された中身は、東郷司令部の面子に関わることだった。
勝海舟を起源にもつ海軍の合理主義の気風は、八島沈没隠蔽を契機にむしばまれ、「白を黒というに躊躇しない組織」に転じた。
日本海海戦の事実がゆがめられて神話化することで東郷は神格化され、軍内での海戦の検証は不可能になっていった。
その後の帝国海軍の腐敗と硬直化のはじまりが、日露戦争だった。
東郷は、気配り調整型で優柔不断だが一方で部下の言葉に耳を傾ける人だったようだ。
秋山は優秀な戦略家だが、策にはしりすぎ、浮いてしまうところがあったらしい。
もし、そうした人間像がきっちりと提示され、事実に即して日本海海戦を検証していたら、精神主義と事なかれ主義に毒されて破滅に向かうこともなかったかもしれない。
朝日新聞や毎日新聞という大新聞、とりわけ朝日新聞が、この戦争を賛美し、「軍神」づくりに邁進し、主戦論を徹底的に唱えることで部数を伸ばしたという事実も興味深い。
戦争が、全国規模の「大新聞」を形成するきっかけになったのだ。
部数を増やすために、世論が求める記事を書く。世間が右傾化すれば、さらにその一歩先を提示することで人気を獲得できる。
第二次大戦で、戦争反対どころかナショナリズムに自ら突進するようになるメディアの在り方も、日露戦争時に芽吹いていたのだった。
----------抜粋・メモ-------------
▽1ヶ月前から朝令暮改というにふさわしい基本作戦の変更があった。
敵前大回頭、東郷ターン、なる語がかたられだすのは、昭和期になってから。
▽誤判断の隠蔽と、回頭過程のドラスティックさを強調するため、海戦史では、円運動を描き込んでいたが、その後、直線運動として描く。
▽旅順港閉塞作戦 失敗。反対論があったが、有馬参謀や秋山らに退けられた。
▽軍神広瀬神話がつくりだされる。とくに東京朝日の扱いが際だち、「軍神」の言葉をはじめてつかう。ほかの新聞は「故広瀬中佐」が多数派だった。が、しだいに朝日用語に巻き込まれ、「軍神」が定着していく。
朝日は、この戦役を通じて大きく部数をのばし、東京の大大衆紙である二六新報や万朝報を追い抜いていく。
▽軍神広瀬神話は、作戦失敗の責任追及の矛先をかわす転嫁工作である。閉塞作戦は軍神広瀬の名に収斂されて記憶されることになる。美談をもって責任の所在を曖昧化する基本パターンの成立である。以後、この手法を活用するようになる。
▽虎の子の戦艦6艦のうち2を一気に失う。触雷による。日露海戦史上最悪の惨事だった。しかし八島の沈没は隠蔽される。
▽戦役取材に力を入れた東西朝日と大阪毎日。朝日の主戦論的立場が顕著だが、両紙とも戦役を通じて大きく部数を伸ばしてその後の全国紙としての地位を築くことになった。
▽上村艦隊のうまくいかない追跡戦の詳報は、紙面から初瀬と吉野の沈没を見事に消去した。八島沈没の痕跡は完全犯罪並みに消去された。
▽言論統制下にあったとは言うものの、治安維持法制定を経た軍国ファシズム下の昭和初期の状況と同一ではない。罰金や発禁はあったが、身柄拘束を伴うことはなかった。与謝野晶子の詩への非難も、評論家・大町桂月からのものであり、公権力が介入した事件ではなかった。敵将マカロフを追悼・賛美するのも問題はなく、昭和初期とは基本的に異なる。言論統制下にはあったが、昭和初期よりははるかにマシだった。
▽戦報も八島沈没以前は総じて正直・素朴であった。しかし、それ以後、事実への真摯さの喪失が歴然としている。「八島秘匿」が変質のメルクマールだった。
▽津軽海峡転位論 秋山は強硬に主張したが、負ける。
▽東郷平八郎名で出された「戦闘詳報」 実際の筆者は秋山。書き出しの「天佑と神助に因り」は海戦の枕言葉となり、やがては精神論的軍国主義イデオロギーの核心になる。
▽心に深い傷を受けたのは誰より秋山であったに違いない。最後の1カ月間、全霊で取り組んだ作戦はついに実現しなかった。……作戦の核心部で秋山は敗れた。戦役後、彼の奇矯ともとれる行動には深いトラウマがあったことをうかがわせる。戦役後、体調を崩したこともあるが勲功の割には閑職を歩み……最晩年は宗教に傾倒した。
秋山自身が事実と異なる戦報を手がけ、戦史を与り、勇戦談を語り、著名人となっていた。彼が多く口にするようになった言葉、「天佑神助」は内面の葛藤の表出でもあったような気がする。