講談社 20050412
93年に透析を始め、5年後に肝臓ガンが発見され、右目失明、結腸ガン手術、右足切断、左足切断……「寿命がつきる時期と連載の終結時を両天秤にかけながら」昨年末の死の直前までかけてつづった文章をまとめた。けっきょく最終回までたどりつけなかった。
闘病記や貧乏物語が大嫌い、といい、自分の病気の話はほとんどふれない。そのダンディズムというか意地っ張りというかやせ我慢がかっこいい。突っ張り通した人生だったんだなあとよくわかる。
「由緒正しい貧乏人」を自称し、権威も権力もきらい、「社会部記者」であることに誇りをもって生きた。
朝鮮半島で豊かな子ども時代をすごしたが、戦後、引き揚げ者として貧乏のどん底に。徹底的にいじめられ友人ができなかったが、この体験があったから他人の痛みがわかるようになった、という。
戦後民主主義の熱気が残っていた1955年に読売新聞に入る。「二流紙」と自称していて、やさぐれていて稚気あふれる集団だった。「新聞記者の末路なんて哀れなもんだよ。定年になって小さなおでん屋でもやってるのはまだましなほう」などと言う先輩もいた。鼻っ柱の強い筆者は、「生意気でいいんだ」「生意気でいいんだ」と支えられて遊軍記者として育てられた。
世の中全体が、民主主義への希望にあふれていた。筆者が一生安アパートで暮らしたのは、「いずれ通勤に便利な場所に、質のよい公共住宅が、手頃な家賃で豊富に提供されるようになる。ならなければ政治にそれを要求すればよい。そう楽観的に考えていた」からだという。国民の意思によって政治はかわり得ると信じていた。
ところが、貧しく純粋だった都市部の「お仲間」は、「うさぎ小屋」を取得したころから保守化し、自らが「中流」と思いこむ。
「民主化は精神的近代化に始まる。しかし、日本人の多くは、民主化する手前のところでポチ化していった。所得倍増という餌にころりと行ってしまった」と筆者は言い、「お仲間たちよ、憲法の前文をしっかり読んでみなさい」「お仲間たちは痛い目にあわないとわからないから、不況がつづき弱者に辛い社会になればよい」と書く。
世の中が保守化するのと軌を一にして、昭和30年代後半から社会部の衰退が始まる。気が付いたときには、主張すべきことを主張しない人間が圧倒的多数派を形成していた。
そんな状況のなか筆者は、「野糞の精神」を若い仲間に説く。
……上に噛みつくには勇気がいる。お互い、そういうものはたっぷりとは持ち合わせていない。だが、空元気にせよ勇気を振り絞らないわけにはいかないではないか。言論の自由を金看板にしている以上、まず、自由な言論の場を社内に確保しなければならない。全員で立ち上がって欲しい。できないなら、せめて野糞のようになれ。それじたいは立ち上がることはできないが、踏みつけられたら確実に、その相手に不快感を与えられる。お前たち、せめてそのくらいの存在になれよ……なるべく量と面積を稼いでおいて、踏んだヤツが味わう不快感を、少しでも大きくすることである……。
ナベツネが全権を掌握すると読売社会部は死に、粛正の嵐が起きる。「交通戦争」という名前を流行させた小倉貞夫記者は窓際に追いやられ、封筒貼りといった仕事を押し付けられた。
--身内にむかって、批判はおろか意見具申もできない腰抜けどもが、戦前のように国家権力が牙をむいて襲いかかったら、いったいどうなるのか。社内権力を批判したところで、最悪の場合でも、通信部あたりに飛ばされるのがせいぜいであろう…せめて記者ならば、空元気でいいから物を言えよ--
内向きにだらしない新聞記者を全編を通して何度も激しく批判している。
読売を退社してフリーになり、物書きのだれもが憧れた「文藝春秋」に執筆の場を与えられたが、路線が合わないために手を切ってしまう。
「私は世俗的な成功より、内なる言論の自由を守りきることの方が重要であった。気の弱い人間だから、いささかで強くなるために、自分に課した禁止事項がある。欲を持つな、ということであった。金銭欲、出世欲、名誉欲。これらの欲をもつとき、人間はおかしくなる。そういうものを断ってしまえば怖いものなしになるのではないか……その私にやがて救いの手が伸びる。それがなかったらいまごろホームレスにでも転落して、のたれ死にしていたであろう」
これが絶筆となった。
「救いの手」とはいったい何だったのか。知りたければ、彼の著作を丹念に読み直すしかない。 --------------------
▽能書きをたれる料理人を取材した門田勲の記事の締め「ところで先生、どういうところを差し上げましょうか」「何でもいいから、なるべく能書きのつかないところをくれ」
▽蜷川府政 釜座幕府と言われ、おそれられる。新聞記者や町中にまで権力に対する恐怖感がある。「京都文化人」も表だって批判せず沈黙している。学問的業績がどれだけあっても尊敬する気になれない。良い面をよく聞いたが、逆の面もある。
▽敗戦直後の朝鮮半島。夢にも見たことのない砂糖の小山が突然目の前に現れる。「朝鮮」がたくましく生き続けていた。白いチョゴリのオモニたちは顔いっぱいに喜色を浮かべていた。
▽終戦。生徒会の力が強まる。長髪の是非を投票。学校側はすぐ腰がひけた。GHQににらまれるのをおそれていた。
▽歌舞伎町 地元に戦前から住む人が、復興のため客足を呼び寄せる目玉として、歌舞伎の小屋を建てることを思いついたところからできた名前。だが歌舞伎座は実現せず、かわりにコマ劇場ができた。
▽きまじめな朝日にでも入っていたら、終生、芽を出すことなく、くすぶり続けて人生を終えることになっていたに違いない。
▽52年のサンフランシスコ講和条約から旧勢力の復活が始まる。読売社会部は警鐘を鳴らし「逆コース」というタイトルの連載をした。それが流行語になった。殺しやタタキを追いかけるばかりが社会部の仕事ではない、と。
▽派閥も親分子分もない。仕事さえできればよい。酒の上の蛮行とか、男女関係のもつれからくるごたごたとかの「些事」は、不問に付される。…28歳でデスクになった辻本
▽入社1年目の甲府支局で 業者からの歳暮、のし袋を受け取る記者。クラブ総会に「金品を受け取るべきではない」と提案したが、支持したのは朝日一社だけ。
▽退社してフリーになって、文芸春秋の若い編集者につれられ取材先に行くと、タダ酒を飲むことに。帰る道すがら自分に言い聞かせる。お前はもう新聞記者じゃないんだ。タダ酒を飲んでも差し支えない身分になったんだ--。心が晴れるはずはなかった。落魄の思いが深くなった。
▽活動家の歌で好きなのは「心はいつも夜明けだ」。私も、若者や娘たちの胸に灯をともしたい、という気持ちに変わりはなかった。「夜明け」がくることを信じていた。しあわせな時代。
▽「癒し」という言葉を耳にするたび、胸の中で罵声を発する。バカヤロー、甘ったれんじゃねえ。
▽安保闘争 5月の統一行動では17万人のデモ隊が国会に押しかけた。6月4日の全国統一行動には、近畿圏を中心になんと560万人が参加した。信じられるか、遊びほうけている若者たちよ。
国会突入。学生たちは勢いよく突入したわけではない。50人がおずおずと入り、警官隊の存在に気付き、引き返しにかかった。だが、すでに数百人が門に押し掛けていて、引き返せない。機動隊に尻を向けたまま構内に押し込まれる形になった。学生たちと向き合ったことのない方警隊もおじけずいていた。あわてふためいて後退した。だが1人の機動隊員が「下がるな」と飛びだし、それを見て、引き戻しに飛びだしたはずの残りの退院たちも彼につづいた。…乱闘へ。
▽同期の小倉貞男記者の「交通戦争」 茶封筒に入った分厚い原稿をデスクにもっていき説明する。デスクは見ようとしない。2,3日して小倉はその原稿を引き取り、かわりに新しい原稿をさしだして説明を始めるがm、またとりあってもらえない。その繰り返しが10回も続いたろうか。その18回の連載記事が「交通戦争」という題で、流行語となった。
▽「東京の素顔」 上野駅周辺にいる怪しげな人物たち。マッチを擦ってそれが消えるまで股間を男に観察させる女。ストリップ小屋「カジノ座」の人間模様。
□黄色い血
▽93年に透析を始めたとき、平均余命は5年、10年生存率は10%と言われた。……肝臓ガンは取材で何回も血を売ったのが原因であろう。
▽売血問題で山谷へ。底辺にある人の怠け心につけ込み、1本400円のエサで釣って、廃人同様になるまで血を抜きまくり、肥え太り続ける商業血液銀行。買血を利用した化粧用クリームも。
▽輸血を受けた人の少なくとも2割は血清肝炎になった。
▽保存血液の薬価は200㏄で1650円、うち500円が血液代金。業者は残りから利潤をあげる。うち100円は医師へのリベートにまわされる。
▽献血を受け皿は日赤にしようと考えた。が、当時の日赤は眠っているだけのやる気のない無用の長物そのものだった。従軍看護婦が日赤のイメージだったが、敗戦でむかうべき方向を見失った。
▽移動採血車の配備予算を獲得するため大蔵省主計局次長と渡り合う。
▽献血受け取り拒否をする病院 厚生省薬務局長とかけあって、献血使用の局長通達を出してもらった。それをニュースとして伝え、その末尾に「献血の受け取りを拒否した病院は、読売新聞がその実態を調査して、定期的に違反リストを紙面に公表する」と書き添えた。(そんなことができた)この一発で受け取り拒否はぴたっとやんだ。私の書く原稿は主観の塊のようなものだった。
▽献血戦争は大勝利、と思いこんでいたが、思わぬ大どんでん返しを食う。日ブラ(ミドリ十字)の内藤は、血漿分画製剤の時代が来ると見抜いていた。その量産態勢が整ったところでミドリ十字に改称し採血部門から撤退した。血漿分画製剤という抜け道に私は気づかなかった。製剤の需要の伸びが急増し、アメリカから血漿の輸入を始めた。何のことはない。ルートをかえて買血は生き残った。この製剤によって血友病患者がエイズになった。その責任の一端は私にある。
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▽まだ力の残っているうちに、護憲派が改憲に打って出ていたら、政治が変わる可能性は少しはあったような気がする。自衛隊を合憲とし、法的に正当な地位を与える。合憲とした自衛隊に海外派兵禁止の網をかける。常設の国際貢献隊を創建する。
▽豊かになるにつれて「連帯」の思想が色あせ、自己中心的な生き方にとってかわる。荒れる中学生の問題に取り組んだとき、「自分のお子さんをどういう人間に育てたいですか」と尋ねると、一番多かったのは、「ごく平凡でいい。他人に迷惑をかけない人間になってほしい」だった。がっかりした憶えがある。他人に迷惑をかけている人間がいたら、進んでそれを改めさせる。そういう人間がいれば、いじめ問題なぞ起きない。
▽広告ばかりだった1面をニュース面にしたのは正力。
▽「正力物」を紙面に載せることに反対する。読者から批判の電話があると、隣の編集局長室に聞こえるよう、とうとうと自分の気持ちを述べる。「不買運動をしてください」「正力宛の手紙にしていただけませんか。自宅の住所をお教えします」…。私は、読売の社員である前に新聞記者でありたいし、日本人である前に、人間でありたい〓。
▽正力にごまをする専務を、正力の目の前で一喝する。後から上司から「君、ああいう場所で、あんなことはいわないもんだよ」と言われ、「私だって、ささやかに新聞記者ですからね」
▽昭和33年といえば、警察まわりが自由に出入りしていた所轄署の取調室や留置場から、締め出されはじめた時期だ。
▽三河島駅の列車事故 新聞記事の定型化、類型化に疑問を持っていた私は、意識的に型破りの原稿を送った。
▽33歳のとき。欧州へ出張命令。12月に出発……
▽前妻の浪費癖と、サラ金からの借金。いきなり会社にサラ金業者からの催促の電話がかかってくる。家庭を顧みない私に不満を募らせ、その一つのはけ口をサラ金の融資による浪費に求めたのであろう。負債が片づくには10年を越す歳月が必要であった。
…私は闘病記と貧乏物語がきらいである。
▽「南京大虐殺のまぼろし」の鈴木氏 なるほど「百人斬り」は彼が説くように虚妄であったのだろう。だが鈴木氏は、「百人斬り」の大状況である中国侵略という事実に触れていない。「百人斬り」はなかったのだから、南京大虐殺もなかったのではないか、といっているがごとしである。…サッカーアジアカップで観衆から反日の声を浴びせられたとき、正直にいって腹が立った。だが、考え直した。中国側がいう通り、日本人の歴史認識は甘い。どころか、無知がまかり通っている。それでも国際社会で通用するとはき違えている愚民たちにとって、日本をこれほど嫌っている国が隣にある、ということを知ったのは、学習のきっかけになりはしないか。
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