岩波書店 200504
例えば事件の現場や災害現場に行く。気が重い。とくに、被害者や被災者の話を聞くというのは。でも聞かないといけない。
集中豪雨の取材のとき、亡くなった人の祖父らに話を聞いた。オレの話しているところに他社の記者が寄ってくる。おい、やめろよ、と思う。自分の力で自分の勇気をふりしぼってせめて取材しろよ、と。被災者に話を聞くのはしんどいが、それをやらないでいいわけがない。じゃあどこで線引きする?
筑紫哲哉は、震災のときに「温泉街のよう」と書いて非難を浴びた。マスコミのヘリによって助けを求める声が聞こえなくなった、とも批判された。だが、では取材しなければいいのか?
マスコミのヘリが飛ばなければ、政府は被害の全容を把握することさえできていなかったのだ。筑紫はこう書く。
--私たちが近づくと、数メートル先から罵声が飛んできた。取材方法ではなく存在そのものが攻撃対象なのだ。このような現象は、いつも起こる症候群であり、義捐金の効果があらわれだすころには、マスコミ報道への評価が好転する、というのが専門家の分析だが。…一体何が起きているか全体が見えないままに、自分の見聞を自分のことばで語らねばならない。「映画のセットのよう」では決まり文句として批判されるし、「温泉まちの上に来たかのよう」などと言うのは論外である。被害が拡大するにつれ、「不謹慎」と見えることはすべてタブーになり、この尺度に従って片言隻句がきびしい吟味の対象となっていく。…なぜ神戸の子供たちが、この国の日常の子供たちよりとび抜けて明るい輝きを目に宿しているかの詮索も無用である。東京にとどまっていると傍観者と批判されるが、現場に行けばよいというものでもない。お偉いさんの「巡行」に映りかねない。服装もそう…。「現地を見て回るひまがあったらシャベルを持って救援作業すべきだった」という声まで出ている。そこには、政府中枢が、情報をテレビに依存して後追いの対応をしたことの認識もなければ、関東大震災のような流言飛語による悲劇が生まれなかったことに果たした役割への評価もない…--
外務省の機密漏洩事件をスクープした毎日の西山記者は、検事が起訴状に書いた「情を通じて」の一言で激しいバッシングの末に記者をやめさせられた。
「市民たちの水俣病」「記者たちの水俣病」という番組をつくり、「中枢神経の障害」なのか「末梢神経」によるのかといった誰もが報じなかった視点で番組をつくった熊本放送のディレクターは「見ようとすれば見える、見ようとしなければ見えない」と書く。
伊藤千尋氏は、ペルーの大使公邸事件での新聞社を「記者を公邸周辺にはりつけ報道していたが、なぜゲリラがペルーにいるのか、日本が狙われたのか、という問題は無視されていた」と批判。ジャーナリストを自認するなば1人でも行動すべきだと、4時間睡眠で1週間で320枚を一気に書き下ろした。「現地を何度も訪れて実態を自分の目で見ていたことと、その後も、10年以上にわたって各国ごとに新聞や雑誌の記事のスクラップや整理を続けるという膨大な蓄積があったから」できたという。
公邸への侵入取材を実行した共同通信の原田浩司氏は、イラク取材について「行くな、という社命に反して、僕らが命令違反をくり返し取材を敢行しただけだ」を記す。
どれも刺激的だ。でも何か、喉に刺さった小骨のようにひっかかりを感じるのはなぜだろう。
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□筑紫哲哉
▽同期の上前淳一郎は早めに社を去った。途中で辞める人よりむしろ、私が気になるのは辞めない人たちのことである。
▽ネットの発達に押され、新聞のマガジン化が進んでいるアメリカ。比べると日本の新聞は「官報」を読まされている感が強い。
▽入社9年目、沖縄特派員に。日本型記者クラブのない別天地だった。
▽アメリカなどで、ジャーナリストが情報の出所を法廷、議会で証言拒否すれば法廷侮辱罪で罰せられるのが普通である。それでも「生命線」を守った記者が出獄する際には、同業ライバルたちが拍手で出迎えるという。残念ながら日本では、ライバルの失点は絶好の機会とばかりにバッシングに走る場合が多い。
▽〓韓国の「オーマイニュース」に触発されて、竹内謙氏が「JanJan」を立ち上げた。
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▽毎日新聞元記者の西山太吉氏、「国家も官僚も保身のために事件の本質をねじ曲げてしった。彼らこそが有罪になるべきなんだ、わかるか?」
▽我部教授 アメリカ公文書館、米軍基地などの現場を訪れ、沖縄返還に関わる日米の公文書を自分でさがす。
▽「情を通じ」という忌まわしい言葉で飾られた起訴状でキャンペーンは崩れた。「誰も救えなかった。読者にまけた。週刊誌に負けたんですよ。読者は新聞よりも週刊誌のスキャンダルを選んだんですよ」事件当時の毎日労組の人は肩を落とした。「情を通じ」という言葉に週刊誌が飛びつき、プライバシーを暴かれバッシングの嵐が吹き荒れた。
□藤井誠二
▽ドラム缶コンクリート詰め殺人 加害者の同級生を訪ね歩き、街でたむろする少年に声をかける。公判を傍聴し、準主犯格の少年と文通する。加害者を長期にわたってインタビューする。 加害者の背景報道から被害者の思い報道へ。
□熊本放送ディレクター
水俣を追う。報じられてない水俣を。
患者の取材をする。予想に反してはつらつとした漁師。「市民たちの水俣病」「記者たちの水俣病」。水俣病の年表をつくりつづける全国紙の西村幹夫記者。
関西訴訟。「中枢神経の障害」なのか「末梢神経」によるのか。
「見ようとすれば見える、見ようとしなければ見えない」
□台湾在住・柳本通彦
▽日本総督府。全土掌握まで20年かかる。帰順した部落では、民俗伝統の生活や風習を制限した。先住民族子弟にとって、日本人教師や警察が親以上の存在となる。太平洋戦争が始まると、高砂義勇隊が募集され、根こそぎ激戦地に送られた。戦後も、民俗や血縁を断ち切って注入された「日本精神」によって、疎外される。
▽台湾を完全な日本人にする、という目標のもとに進められた。人々の精神世界に踏み込んだ徹底したものになった。
▽小林よしのりの「台湾論」。宴席を設けて歓迎してくれる台湾人の間を日本語で徘徊してまわり、そこで交わされた話をそのまま一冊の本にまとめてしまう無神経さ。…「血書を携えて志願した」という元日本兵の言葉を利用して「大東亜戦争の大義」を正当化するより、不毛の侵略戦争に異国の民を動員してしまった罪に胸を痛くすべきでは。…鉄道をひいた、学校をつくった…それらの事業は基本的に日本側の都合によっておこなわれたものであることこそ伝えないといけない。中国国民党は日本の支配を否定し去ることで自らの支配の正当性を確保しようとしてきた。独立派はそれに反対するかのように、日本時代を肯定し、戦後の国民党の統治を否定的に描こうとする。独立派の企業家たちは実にたくみに日本の作家らを手玉にとっているといっても過言ではない。
□石川文洋
▽朝日新聞に15年勤務したあと、46歳にフリーに。私の定収は厚生年金、国民年金も合わせて月に15万7683円。報道カメラマンは常に貧乏である。しかし、時を記録したネガと貴重な体験というすばらしい財産をもつことができる。
□後藤勝
▽コロンビアの人権団体。地元紙の記者も兼ねるフリオが案内してくれるが暗殺される。
▽カンボジアへ。その後、タイ在住。バンコクにはフリーのフォト・ジャーナリストが多くいて、肩書きなど関係なく、良いものは認めようという雰囲気がある。タイでは周辺国で内乱が続き、難民が流れ込んでいる。人権擁護団体も積極的に活動している。
▽2004年、3人のフォトジャーナリストで雑誌を創刊。カンボジアではエイズ患者のフォトプロジェクト □共同通信・石山永一郎
▽「国境なき医師団」は、「世界の悲劇はイラクだけではない」と一貫して批判してきた。「伝えられなかった10大ニュース」: スーダン、チェチェン、ブルンジ、コロンビア、コンゴ、ソマリア、北朝鮮、エイズのコピー薬と特許問題、コートジボワール。
□伊藤千尋
▽ペルーの大使公邸事件 記者を公邸周辺にはりつけ報道していた。その陰で、なぜゲリラがペルーにいるのか、日本が狙われたのか、という問題は無視されていた。現場を離れていたが、ジャーナリストを自認するなば1人でも行動すべきだ。4時間睡眠で1週間で320枚を一気に書き下ろした。現地を何度も訪れて実態を自分の目で見ていたことと、その後も、10年以上にわたって各国ごとに新聞や雑誌の記事のスクラップや整理を続けるという膨大な蓄積があったからだ。その後、休みを使って自費でペルーに行き、事件現場を取材した。
□長野智子
▽アルジャジーラ 90年代、ハマド皇太子が父を追放し首長になると、近代国家にするため、外国人客の飲酒を解禁したり、モダンなまちづくりをしたりする。「情報統制の撤廃」をした。サウジアラビアと決裂して行き場をなくしていたBBCアラビア・テレビ・ネットをカタールに呼び寄せてアルジャジーラを設立した。
▽沖縄のヘリ墜落。25メートルプールに匹敵するヘリが住宅街に隣接する大学に墜落炎上。現場は米軍に封鎖され日本の主権をシャットアウトされるという異常事態にかかわらず、東京からの取材クルーは我々だけだった。どの局も、アテネ、ナベツネにつぐショートニュース扱い。 □豊島報道・曽根英二 ▽豊島のゴミのなかに東京の豊島の名前を見つける。ゴミのルーツをさぐる。
▽中坊氏と出会い住民が立ち上がる。中坊さんは数時間で具体的班割りまで決めて動き出した。
□石澤
▽アメリカのジャーナリズム専門誌「コロンビア・ジャーナリズム・レビュー」 http://www.cjr.org/tools/owners どの会社がどのメディアを所有しているかを示すチャート。
▽1970年代以降、150以上の新聞が廃刊になり、1945年は8割の新聞が独立資本だったのが、80年代後半には逆転して新聞チェーンのシェアは、1600弱ある日刊紙の役8割を占めるに至った。
□原寿雄
▽三笠宮は1956年に、皇室敬語は廃止を含めて考え直す必要がある旨発言している。
▽BBCはイラク戦争に際して「我が軍」という用語をさけ「英国軍」ということを確認した。
▽現代日本で危険も不自由も全く感じないジャーナリストは、自分が体制派、多数派に属しているためではないか、と自問してみるべきである。また、草の根の日本社会で市民がどれだけ言論・表現の自由をゆがめられているかに思い至らないため、と考えるべきだろう。公衆トイレの落書きや自衛隊官舎へのチラシ配布で有罪判決を受けた市民がいるのに、その事実に無関心のまま、ジャーナリストを自任することは許されない。
▽やりたくないルーチンワークも左手できちんとこなしながら、右手でやりたい仕事をやる。そうしながらやりたい仕事が拡大できるように仲間と一緒に職場を変えてゆく。
いくら良心的であっても良心を発動させて行動につなけなければ、情勢は変えられない。流れに逆らって泳ぐことのできるジャーーナリスと目指す覚悟がいる。
□竹内謙
▽広報戦略に長けた役所は、クラブに大量の発表資料を提供する。提供ネタが少なければ、役所の目の届かないところで意に反するネタを探す記者が現れる危険がある。
□大谷昭弘 北海道新聞について
▽道警の道新への嫌がらせ。道新の記者を呼びつけて、ただ怒鳴り散らす。担当記者に「共産党記者め」と罵声を浴びせる。些細な問題で道新の支局を「家宅捜索」。
▽取材班が入手した情報を、全社員で共有させた。
▽高知県警 地検が捜査員の聴取を行った。が、検事の横に座っている検察事務官は、実務研修の名で検察にいた捜査一課の若手刑事だった。
□共同通信 原田浩司
▽(イラク取材)「行くな」という社命に反して、僕らが命令違反をくり返し取材を敢行しただけだ。
こだわり スクラップ 忘れられた悲劇
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