MENU

「日本」をめぐって 網野善彦対談集

■「日本」をめぐって 網野善彦対談集 洋泉社 20120916
「百姓」とは必ずしも農民ではない。日本が農業国家だったというのは嘘で、田畑で生業を立てていたのは3、4割にすぎず、人々は比較的に自由に移動して暮らしていた。……という網野の視点から歴史を検証すると、閉鎖的な封建制を壊した明治革命という明治維新の評価も異なってくる。正当派の歴史学は、江戸時代を過小評価し明治以降を過大評価している、と網野は説く。「士農工商」という江戸時代の身分制度も、実は明治につくられたフィクションだという。
網野の説が正しいならば、時代の評価も人物評価も修正を余儀なくされ、革命的に日本の歴史を書き換えることになる。
網野は元マルクス主義者で、1950年代に共産党系の学者が主導する「国民的歴史運動」に参加する。運動は、「歴史を民衆のものに」と主張し、インテリは人民の生活のなかへ入っていくべきと考える、いわば日本歴史学の文化大革命だったという。
共産党のなかの国際派と所感派(民族派)の分裂に対応するように、歴史学のなかにも、天皇制は近代になって創作されたとする近代派と、長い歴史のなかで蓄積された結果とみる民族派が対立していた。網野は後者であり、だから「国際派」からは「天皇擁護」と批判された。
狩猟採集から農耕へ、自給自足から商品貨幣経済へという進歩史観に疑問を抱き、政治に学問を従属させることに違和感を感じ、学界の主流からはずれる。そして、進歩史観ではない民衆の立場からの歴史学を確立していく。それでも自ら「老マルキスト」と位置づけ、アカデミズムの殻を破ろうとした国民的歴史運動を一定の評価を与えている。
とくにおもしろかったのは、小熊との対談だ。
上記のような網野の歩みを振り返ったうえで、東国は封建制、西国は民衆自治が盛んで、網野や宮本常一らは西国的な民衆自治を評価するが、西国的な「自治」は単一民族論や天皇制と親和性があることを小熊は指摘する。天皇制を批判しながら、天皇制の温床となる民衆社会を支持する網野のアンビバレントな立ち位置を浮き彫りにしていた。
対談を読み進めるほどに、網野という人の魅力に引き込まれて行った。自らを「落ちこぼれ」ととらえ、だれよりも底辺の民衆に寄り添い、マルクス主義などの大きな物語に頼らずに事実を丹念に見つめつづけた。そのやさしさがよくわかる本だ。

===============
□田中優子
▽14 霞ヶ浦四十八津の組織
江戸時代の制度は、800軒の家がある輪島も村としていた。だから、住人は百姓と水呑になってしまう。奥能登で「町」は七尾だけ。
▽19 江戸時代でも動産の権利は一貫して女性がもっていた。離婚するときに、もし夫が妻の財産を使い込んでいたら、返さなければいけない。
妻のものを夫が質に入れたら盗人扱いされる。
実質的には女性のほうが強いのに、法制的に公の分野では、土地に対する女性の権利は15、6世紀から排除される。……公的分野から女性が排除される。だから、女性が見えなくなり、養蚕と女性の関係が見えず、女性の社会的労働は農業の補助労働しか出てこなかった。
農業が80%というけれど、漁業や林業、養蚕や綿、果樹をのぞけば40%くらいだと思う。
中世では、桑も柿も栗も漆も、田畑とは別扱いで検注されていたが、江戸時代になると、農間稼として農業にくりこまれ、明治になるとすべて農業にされてしまう。
▽22 飢饉が起きるのは備蓄米がないから。備蓄米がないのは、売ってしまうから。飢饉は都市的なところにまず起こる。
▽31 絹や繭を売る女性たちは市場で相場を見て売る。当然計算ができた。文字も書けた。だから寺子屋がたくさんあった。
□樺山紘一
□成田龍一
▽68 明治時代に近代化を進めたと高い評価を与えるのは問題。江戸時代の達成の過小評価。
「御一新」で暗い封建社会が終わり「文明開化」して……という見方。
▽70 「日本」のように同じ国名で、同じ王号をもつ王朝を1300年も引きずる国民はあまり例がない。……天皇が中心的な権力をもつ「日本」の国制が維持されたのは古代の100年、明治以後の130年で、せいぜい200数十年。この一瞬のなかの一瞬の時期だけで、西尾さんは「国民の歴史」を書いていることになる。
□三浦雅士
▽88 東北に敵対する関東に対して、むしろ西の京都と東北は結びついた。「われわれは北方系、アイヌとはちがうのだ。東北の文化はヤマト、京都と密接に関わりがある」と東北の歴史家は考えようとしてきた。藤原のミイラがでてきたとき、自分たちがヤマト、京都系で北方系でないことが実証されたことに安心した空気があった。
▽93 狩猟採集から農耕へ、自給自足から商品貨幣経済へ、という「進歩史観」への疑問。漂泊から定着することで農村共同体ができそこから脱落したものによって都市が形成されたという定説ももはや成り立たない。縄文時代に「商人」がいて「市庭」」があってもおかしくない。
人間は自分が腹一杯になってはじめて余分なものを売り出すようになる、というのは、あまりに浅薄な人間理解。人間が生産活動を始めたのはそもそも交易のため、人と人とつながりたかったためではないか、と考えた方が自然。(モース)
生産も交易も人類の歴史と共に古い。人間の社会はその出発点からそうだった。
▽100 18ー19世紀にかけて、干拓してでも生産力を増やしてもうけを追求する生産第一主義の潮流が出てきた。それが1960年代の高度成長時代まで連綿とつづいたのではないか。
株式、取引、相場……商業用語はみな在来語
▽102 明治政府は独自の文化を持っていたアイヌを、農業も文字も知らない「未開の民」として農業を強制し、その文化を破壊した。
「士農工商」じたいが明治以後につくられた虚構
日清・日露をはさむ20世紀に入った頃から、日本人はヨーロッパ人の目でものを見ることがすべてに優先された。「江戸は封建時代だった」という認識を決定的にしてしまった。
□姜尚中
▽109 関東の在日はサービス業、関西は零細の製造業が多い。いずれも一次産業は少ない。土地をもっていないというありかたが後ろめたい思いとしてこびりついてきた。土地をもたないものへの蔑視は、15、6世紀行こう、江戸時代に定着してくる。明治以降、さらに強固になる。
▽118 ナショナリズムを近代のフィクションであるとする、最近のナショナリズム批判。
▽126 共産党の国際派と所感(民族)派の議論。「民族」とはなにか。「民族とは近代資本主義による国民的市場の形成のなかから誕生する」という考えと、「非常に古い時代からの歴史的な蓄積のなかではじめて生まれる」という考え。
共産党の路線転換で議論はとぎれ、それ以後の歴史学はこの問題をタブーのようにとりあげなくなってしまった。
▽129 西尾さんの「国民の歴史」にせよ、加藤さんの「敗戦後論」にせよ、ステレオタイプ化された歴史の下に自分の主張を立てようとしている。国民という単一のアイデンティティの下に、敗戦後の多様な思想や運動、生活感情や民衆の心性が回収され、敗戦後の時代がどんなに豊かな可能性に満ちていたかが見失われている。ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」は、そうした可能性を、民衆意識の細部にまで目を凝らしてひろいあげている。
……敗戦というトラウマを抱えて、それをどう乗り切って行くのか、そのやり方に、日本のピープルのある知恵があった。そのことを民衆史にまで立ち入って描く。感銘深いのは、当時の日本人は国民というひとまとまりのかたちで敗戦に対応したのではなかった。むしろ、いろいろな場によって、多種多様な方向性、可能性があったということ。
敗戦後にはそうしたさまざまな可能性があった。それが、国家を中心とするナショナルヒストリーにかなり一元的に回収されてしまった。
▽136 倭冦は、国家や国境を越えた海の民の活動であって、日本国による、朝鮮半島や中国大陸に対する暴虐と見るのはまったくの誤り。
▽140 1945年8月15日の時点で、国家は崩壊し、国家の権威など信じられていなかった。しかし、当時のマルクス主義も含めてぜんぜん意識化されないで、結局日本という枠を超える議論にはならなかった。「天皇制廃止」を唱えながら「日本人民共和国」の樹立を主張するといったように、国家の正統性を疑うどころか、その正統性を奪い合うかたちになっていた。
▽147 日本と朝鮮半島の間に沖縄を置いてみると、ある共有できる問題を見出す場所を見つけることができる。国家中心の歴史の中に回収されない歴史の扉が開かれる場所がある。沖縄や済州島。
済州島は、古代からその海女が日本列島と交流していることが確認できる。在日の方々も、済州島出身の人が多い。〓
□小熊英二
▽152 現代は14世紀の転換期に相当する
進歩史観に自覚して批判的になったのは……霞ヶ浦は、おそらく古代・中世から江戸時代前期まで、共同で入会の海として自治的に管理していた。根深い歴史をもつ巨大な自治組織だった。結局は、農業の発展、村々による湖の肥料採取場としての「私有」の進展とともに弱体化して滅びた。「農業の発展、私有の発展こそが社会を進歩させる」「封建社会が発展するのが歴史の進歩」という歴史学者の常識に懐疑をもちはじめた。
▽158 当時の私は、「民族」は古く遡って考えるべきという「民族派」(所感派)だった。民族は近代に形成されると主張したのが「国際派」。(共産党の対立と、歴史学における民族観の対立)
「民話の会」「伝統芸術の会」、わらび座につながる「民族芸術をつくる会」などが生まれる。
▽160 「国民的歴史学運動」を受け継いでるのは、民話や芸能などへの深い関心。文化人類学や民俗学などとの連携の必要もずっと提起している。
▽169 民衆生活のことを研究で重視する「保守」の学者たちがいる。歴史学でいえば津田左右吉、民俗学の柳田国男。この人たちは、左翼の観念性も批判するが、民衆生活の実情を無視した政府の強権的姿勢も批判したりする。
▽178 負けていった人たちのほうを描きたかった。海民はこれまで負けてばかりいたわけで、霞ヶ浦四十八津などはその典型。
▽191 網野さんとほぼ同世代のフーコーとかも、当時では保守反動とみなされたニーチェなどに影響を受けた。フーコーは、保守的とみなされたと言うべきかは微妙ですけど、サルトルに批判されたりということがあった。そのへんも網野さんとちょっと似ている。(ザクッとした捉え方、直感の鋭さ)
▽200 (民衆の「自治」といえば聞こえはいいけれど、年長のボスが支配している小宇宙ということになりかねない。丸山さんなどから見ると、これこそがまさに天皇制の基盤であると……)宮本常一は対馬の寄合について肯定的に描いているが、杉本仁は「寄合民主主義に異議あり」で、この寄合が一面ではもっとも対馬の人々を縛っている存在だったと強調されているのと同じ。
▽208 網野さんの歴史観だと、「西」のほうは民衆自治と天皇の連合みたいな感じで、「東」のほうは天皇の権威は薄いが領主制的秩序。たしかに「東」のほうがヨーロッパの封建制に近いといえば近いし……網野さんとしては「西」の民衆自治の方に肩入れする。けれども「西」を中心にして広がってくる天皇の権威に対しては非常に抵抗する。
「異形の王権」などでは「原始的」なパワーを束ねているのが後醍醐天皇だったりする。津田左右吉などの歴史観も、自治的な民衆生活の文化から、天皇への崇拝がわきがってくるというものでしょう。(天皇と自治と被差別部落の親和性?)
▽210 昭和天皇は私自身は許しがたいと思っていますし
▽213 網野さんは、常に時代の潮流と伴走している印象。80年代は「アジールと王権論」「社会史」の網野さん、90年代には「日本論の網野さん」
▽216 近年の国民国家論と呼ばれる議論では、50年前後に類似のものがすでにあって、いったんは限界を指摘されてその後の展開があったのだということが、どこまで意識されているか疑問。
……日本の国号や王権はたかだか1300年前からのもの、民族意識は14世紀以降のものだとおっしゃるけれども、そんな古いものではなくて、たかだか明治以降100年であると。したがって網野さんはご自分では天皇を批判しているつもりでも、むしろ天皇の起源を後ろに引っ張る役割をしているのだと批判されたら、どう対処なさいますか。
……そうした批判の背景として、日本の近代についての過大評価がある。「明治維新」への過大評価は右翼・左翼を含めて非常に深く浸透している。
江戸時代以前の日本社会の過小評価。江戸時代を圧倒的な農業中心の封建社会と評価することの誤り。そうなると、近代史のさまざまな事件や政治・経済の評価も全部考え直さなければならない。
「農民」が90%の社会のなかで「明治維新」が起こり、明治政府はわずか数十年で日本を近代化、工業化したという議論はまったく成り立たない。
▽220 田畑で穀物を栽培する狭義の農業の比重はこれまでの定説の80~90%より非常に下がり、おそらく30~40%になる。
▽224 50年代の国民的歴史学運動がいちばん批判したのは、歴史を書く作業は専門の学者がやるべきことだとかいった、アカデミズムの硬直性や権威主義だった。だからこそ「国民の歴史」というスローガンを掲げて、教室を離れて村に入っていった。
それが政治の変転のなかで終焉してしまい、運動が出した問題提起をなしにしてしまったために、40年たって、こんどは右の側から「国民の歴史」運動が吹き出したと考えられないか。
……「国民の歴史」に対する「戦後歴史学の研究成果を無視しているなどという批判の仕方を聞くと、あの運動としてそんなことはあたりまえのことなのだから、ナンセンスだと思う。「アカデミズムの権威」に相手が恐れ入るだろうという発想があるようにすら見えて、私のような落ちこぼれ人間としては違和感がある。
▽227 60年代以後の歴史学は、国民的歴史学の運動が政治に学問を従属させたことを批判するところから再出発しているが、同時に「国民のために歴史を書く」という姿勢そのものを封じ込めてしまった。「自由主義史観」はその隙間から生まれてきたものといえる。
▽232 日本は単一民族でないとか、島国ではないとか、東と西の差異があって西は朝鮮半島のほうに近い……いった歴史観は、戦後に閉じた日本観を批判する機能はあるけれど、戦前に日本が拡張するときにはむしろ好都合に作用した。そうした歴史観は戦後下火になったけれども、80年代以降にまた日本が拡大しつつあるときには、ふたたび台頭した。網野史観は、本人の意図はともかく、そういう同時代的な背景もあって受け入れられていったという部分があるのではないか。
……農業をつぶしてもっと輸入を拡大する際に、もともと農業はそんなにマジョリティではなかったという歴史観を振りかざしたほうが、好都合であることだって想定できる。
▽234 棚田や谷田のようなあり方こそが、歴史的に見ると古代・中世以来の水田のあり方なのに、広い平野に延々と稲穂が実っているような風景が「瑞穂の国」の水田の典型的なあり方と考えるようなとらえ方、近世以降の埋め立て、開発の結果として現れた水田のあり方を前提に、近代以降の農業政策が行われてきた。それが猛烈な干拓や埋め立ての強行につながって、自然と社会に非常に破壊的な作用を及ぼした一面がある。
▽236 民衆重視派の人は、民衆自治派でもあるから、民衆派は単一民族派になっていく。津田宗吉などはその一例で、政府が強権をふるわなくても自治でやっていけるんだ、なぜなら日本は単一民族で自然に連帯しているから紛争がない、という考えだった。そしてその単一民族の文化的統一性の象徴として天皇があるというかたちで、民衆自治と天皇が結びつけられた。
逆に、民衆重視ではなく、政権交代とか知識人の動向とかを中心に歴史を描く人の場合は、わりあい簡単に民衆文化の多様性というか、共通性の不在を認める。統治する側の立場から歴史を叙述するならば、支配民が他民族であろうと単一であろうと、どちらでもよい。
▽239 列島西部の社会では、古代末から中世にかけて、神仏に直属し特権をもった神人・供御人などの職能集団が重要な役割を果たしている。「神仏の奴ひ」などと言われる。これは中国大陸にはないけれど、南米やアフリカにはよく似た職能民が見られる。そして列島東部に形成される領主制は、西国とちがって驚くほどヨーロッパの封建制に似ている。
……マルクス主義の発展段階論とは違う社会構造のとらえ方、人類社会のとらえ方が開けてくる可能性が新しく生まれるのでは。
……国家や民族単位の単一性というか共通性はゆさぶってゆくけれど、それはもっと幅広いつながりや共通性への道につながっていく。
……歴史を「物語」としてとらえることで満足する人は怠け者ですね。……自分の都合のよい事実しか認めないわけですから。
□解説
思想的に共鳴して参加していたマルクス主義的な戦後歴史学の運動に疑問抱き、学界の伝統的権威からのみならず、革新的運動からもドロップアウトするという二重の疎外。「歴史そのもの」への純粋な感覚が研ぎ澄まされる。
▽251 大王の時代はもちろんのこと、村上天皇(967年まで在位)以後1840年に亡くなった上皇兼仁に「光格天皇」という号が贈られるまで、900年近くも日本に「天皇」はいなかった。その間の天皇はただ「○○院」と呼ばれた。
院号が追号となっていたすべての「天皇」を「○○天皇」と証することが正式に決められたのは、1925年だった。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次