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通史・足尾鉱毒事件1877〜1984<東海林吉郎・菅井益郎>

■世織書房20230801
 田中正造記念館のスタッフに「足尾銅山鉱毒の全体像を知るのにおすすめ」といわれて購入した。1984年出版だが東日本大震災後の2014年に復刊した。
 足尾銅山の開発は1610年ごろはじまり、銅の5分の4は幕府御用、残りはオランダに輸出された。その後、地下水の湧出で廃坑同然になる。
 明治になって古河市兵衛らによって復活し、輸出産品となったため拡大され、1884年、別子銅山を抜いて全国一の銅山になった。
 そのころから煙害で樹木が立ち枯れ、87年には渡良瀬川から魚影が消えた。1890年の大洪水で米の収穫が皆無となった。。
 農民が被害に抗議すると 「古河市兵衛は、徳義上示談金を支払う」「…粉鉱採集器の効果をみる期間を明治29年6月30日までとし、契約人民はそれまで一切苦情をいえず、また行政、司法処分を請うことをしない」
 企業責任をあいまいにして、わずかな金額で、被害農民の口を封ずる。水俣の「見舞金」の祖型である。 製錬所上流の松木村は、1901年1月「煙害救助請願書」を政府に提出するが解決されず、その年の暮れには廃村になった。
 田中は鉱業停止の請願運動を組織し、現在の被害補償よりも、将来にわたる生存の保障を重視する方針をさだめた。
 第1回「東京押出し」では、役所に陳情・請願し、議員に「被害地惨状御見聞願」のチラシをくばった。
 第一次鉱毒調査会による処分は、鉱毒予防工事命令と、地租の免租をさだめたが、全村が免祖地となった群馬県邑楽郡大島村や栃木県足利郡久野村は、村の財源がゼロになり、公民権所有者も激減したため、自治の運営が不可能となった。
 そして1900年の「第4回東京押出し」は待ち伏せた警察によって100余人が逮捕される「川俣事件」となり、これ以来反対闘争は衰えていく。
 一方、川俣事件の裁判で「被害地臨検」をすることで、足尾銅山鉱毒事件そのものが報道されるようになる。
「見渡すかぎり茫々たる大砂原と化し、小丘のように表土を積みあげた毒塚の点在する、かつての美田であり、原野と変わらぬ枯死した桑畑であった。…竹藪という竹藪は根が腐り、だれでも容易に引き抜くことができたし、雷電神社境内の100本にもおよぶ杉の森は、赤く変色して枯死寸前であった」…などと報じられた。
 「押し出し」の挫折で田中は天皇への「直訴」を決意する。1901年の第15回帝国議会で田中は鉱業停止を要求し、「是ダケ申上ゲテモ政府ガソレヲヤラナケレバ、政府ハ人民ニ軍サ(いくさ)ヲ起セト云フコトノ権利ヲーー軍サヲ起ス権利ヲ与ヘルノデアル」と、被害農民の抵抗権を主張し、10月に衆院議員を辞した。
 直訴は、天皇の慈悲にすがろうというのではなく、直訴という衝撃によって報道機関を動員し、鉱毒反対闘争の活性化をはかろうと考えた。
 決行半年前から協力したのが毎日新聞主筆の石川安次郎(半山)で、直訴状を執筆したのが幸徳伝次郎(秋水)だった。
 1901年12月10日、帝国議会の開院式に臨んだ天皇が、、貴族院をでて貴族院協の大路を左に進みつつあった。そのとき、直訴状を手にした田中正造が、おねがいがございますと叫びながら、天皇の馬車に迫った。驚いた警護の近衛騎兵曹長が、「剣を抜て之を刺さんとし」て落馬、田中もつまずいて転び、警戒中の警官に捕らえられた。
 幸徳は直訴状の写しを、通信社をつうじて各新聞社に流したあと、素知らぬ顔で、石川と木下尚江のいる部屋を訪ねた。
「…実は君達に謝りに来た。田中正造が昨夜遅く直訴状の執筆の依頼にきた。僕だって直訴なんか嫌だが、仕方なく書いてやった」と芝居を演じた。
 これを真実と信じた木下は著書などに書き、直訴計画の真相を覆い隠す贋の証言者の役割を1970年代までつづけた。
 田中は取り調べに際し、ひたすら天皇にすがったものとするたてまえを貫ぬき、謀議を秘匿したので不敬罪は成立しなかった。
 教科書では義人がやむにやまれず決死の覚悟で天皇の慈悲にすがった、という描き方だったが、実は周到な準備があったのだ。
 石川の「当用日記」によれば、直訴後、幸徳と田中と石川の3人があつまると、幸徳が、やったやったと快哉を叫んだ。幸徳は直訴状の執筆者として取り調べをうけたが、木下に語ったように話すことで、問題にならなかった。
「失敗せり…一太刀受けるか殺さ(れ)ねばモノニナラヌ」と石川が言うと、
「弱りました」
「やらぬよりも宜しい」
 田中は、みずからの死を代償に鉱毒反対闘争の活性化と政府の政策転換をねらったのだ。
 直訴で世論は沸騰し、キリスト教や仏教系の学生たちが「鉱毒視察修学旅行」でおとずれるようになった。足尾銅山鉱毒事件は「明治後半の最大の社会運動」となった。
 それにたいして政府は、鉱毒視察修学旅行のみならずあらゆる被害地視察を禁止した。

 渡良瀬川は利根川にそそぎ、関宿において江戸川が分流する。1896年の大洪水は東京まで鉱毒被害を発生させた。内務省は1898年、関宿の江戸川河口を石材とセメントで埋め、明治初期には26~30間あった河口を9間あまりに狭める一方、渡良瀬川の河口(合流点)を拡幅し、利根川の水が渡良瀬川に逆流しやすくした。
 これによって合流点付近に氾濫がおこりやすくなり、水源地帯の荒廃と渡良瀬川の河床上昇がかさなって鉱毒激甚地と化した。
 1903年の第二次鉱毒調査会の報告書は、鉱毒被害は過去の鉱山が原因として、企業責任を免罪した。洪水の原因が、煙害と山林濫伐による水源地帯の荒廃にあることも無視した。以後、鉱毒問題を治水問題にすりかえ、土木工事を中心とする洪水対策が中心となっていく。
 そのころ内務省はひそかに、栃木県の谷中村、埼玉県の利島、川辺両村で遊水池化を計画していた。
 1902年1月、利島、川辺両村の鉱毒委員がそれを聞きつけ、反対闘争を開始する。
「県庁にして堤防を築かずば吾等村民の手に依て築かん。従って国家に対し、断然納税兵役の二大義務を負はず」
 両村合同村民大会は決議し、「納税と徴兵拒否」を武器にたたかい、埼玉県当局は遊水池化計画を断念した。
 田中正造はこの運動に奔走し、解決後の1903年夏以降は谷中村にかかわる。日露戦争が開戦した1904年7月に村に移住した。
 1905年8月、戦争に勝利した日本は、谷中村の遊水池化計画をすすめ、1906年7月、藤岡町との合併を強行する。戸数450、2700人の多くは買収に応じた。反対派農民は1907年はじめには70戸400人になり、1907年1月、堤内16戸と堤外地に残留していた3戸が強制的に破壊された。116人の農民は仮小屋をつくり、以後10年間、村復活を目標として住みつづけた。
 田中は、村外の有力者や知識人に、谷中村の土地所有者となって、土地買収に歯止めをかけるようよびかけた。全国各地の開発反対闘争などで実施されている一坪地主運動などの先駆だった。
 江戸時代、利根川の右岸の堤防を高くすることで、舟運に必要な利根川の流量を維持すると同時に、右岸の水害を防ごうとした。渡良瀬下流地域の人々は、逆流洪水に悩まされた。利根川から江戸川への分流口である関宿の石堤を狭めたことが、逆流洪水の原因であると谷中村廃村以降の田中は強調した。彼の晩年の10年の活動は、谷中村復活のため、関宿の石堤をとりはらって、利根川の水を江戸川に流す治水方針の実現に向けられた。
 周辺の多くの農民は、谷中村の遊水池化で、自分たちが洪水から救われると考え、運動から離脱し、田中正造と谷中村残留民、他町村有志による少数のたたかいとなった。県当局の切り崩しで、有力な農民活動家が次々に県側に寝返った。
 田中は亡くなる直前、こう言い残している。
「同情と云ふ事にも二つある。此の田中正造への同情と正造の問題への同情とハ分けて見なければならぬ。皆さんのは正造への同情で、問題への同情ではない。問題から言ふ時にハ此処も敵地だ」
 源義経や楠木正成のように、田中は孤独なたたかいを強いられた。
 1913年9月、河川調査の旅先で田中は没すると、すでに袂を分かったはずの何万という農民が葬儀にあつまった。「一市民の葬儀としては、おそらく日本近代史上最大の葬儀であった」。かつての農民運動家たちは、火葬後5カ所に分骨した。

 運動に身を投ずる前の田中はどんな人だったのか。
 1857年に17歳で名主となり、1862年には、藩財政の破綻を村落支配強化によって解決しようとした領主権力と10年たたかいつづけた。三尺立方の獄に捕らえられた際は、毒殺を予期して鰹節2本で30日以上もたえた。明治になって、陸中江刺県花輪支庁(秋田県鹿角市)の役人だった際、上役斬殺の嫌疑でとらえられた。石責めの拷問にも屈せず、3年あまり入獄した。
 1880年に県議会に初当選した田中は全国の民権家とともに、「国会開設建白書」を元老院に提出した。福島事件で知られる三島通庸が、栃木県令として赴任し、強権を発動しての巨額の土木工事とさまざまな不正をおこなうと、壮絶なたたかいを展開した。三島らの暗殺未遂事件である加波山事件がおきると累犯者として逮捕された。三島県令が転任し田中が出獄すると、県民は歓呼でむかえたという。

 足尾銅山の鉱毒問題は「歴史」と思われがちだが、戦後もつづいている。
 1958年、14の堆積場のうちのひとつ源五郎堆積場が決壊し、6000ヘクタールの水田が被害をうけた。
 1971年、太田市の毛里田地区産米のカドミウム汚染があきらかになった。古河鉱業側に鉱毒被害の責任を認めさせ、それまでの「寄付」といった形ではなく、損害賠償としての補償金を払わせたのは、1世紀の歴史ではじめてだった。足尾銅山は1973年2月に閉山した(愛媛の別子山銅山も3月閉山)。
 今も堆積場の問題は解決できていない。2011年の東日本大震災でも堆積場の一部が崩れ落ちている。 
  旧谷中村の渡良瀬遊水池は土砂でうまり遊水池としての機能もはたせなくなった。1963年から遊水池の調節池化、次には遊水池の一部をほりさげる貯水池化工事がはじまる。
 計画地には、旧村の遺跡である延命院跡と共同墓地があった。谷中村残留民の子孫が1972年に工事のブルドーザーの前にすわりこんで守りぬいた。貯水池がハート型をしているのは凹部に共同墓地と延命院跡があったからだ。

 田中の近代の機械文明への疑問は福島原発事故を予想していたように聞こえる。
「世界人類の多くハ、今や機械文明と云ふものニ噛ミ殺さる」
「デンキ開けて世見暗夜となれり」
「日本の文明、今や質あり文なし、知あり徳なきに苦むなり」 1984年の本を、東日本大震災後の2014年にさ
日露戦争の開戦準備の一環として、鉱毒問題を治水問題にすりかえ、反対闘争にたいして徹底した弾圧政策をとり、今日の公害問題にも共通する体制と公害企業の癒着構造。

===抜粋===

▽4 16世紀にきた西欧人によって、東洋第1のコレギゥムと伝えられた足利学校も、この地域の豊かな農業生産と、絹織物などの工業生産の土壌のうえに咲いた。
▽6 銅山開発は1610年ごろとされる。……その後休山。近世末期の主要鉱山は、金山も銀山も銅山も衰微のどん底にあった。 …地下水の湧出で廃坑同然に。
▽12 1877年以降、外貨を獲得する輸出品に。
 輸出総額に占める割合は、明治初期には生糸・茶が圧倒的で60%を占めた。1877年以降になると、絹織物やマッチなどの雑貨を中心とする軽工業品、石炭、銅などが漸増する。
▽814 1884年、全国の26%をしめ、別子銅山を抜いて全国一の銅山に。
▽819 間藤発電所を1890年に完成させ、91年には電気鉄道を新設。
▽24 1884年暮、煙害で近傍諸山の樹木が立ち枯れていた。87年には、渡良瀬川はほとんど魚影をいることなく、漁師も姿を消していった。
▽29 1890年8月の大洪水で収穫が皆無となり、さらに桑が枯死する。
▽33 原敬は、古河鉱業の副社長となり、1907年内務大臣として、谷中村破壊の強制執行を断行した。…古河と明治政府の関係強化の役割をはたす。
▽37 「古河市兵衛は、徳義上示談金を支払う」「…粉鉱採集器の効果をみる期間を明治29年6月30日までとし、契約人民はそれまで一切苦情をいえず、また行政、司法処分を請うことをしない」
▽43 鉱毒反対闘争は、軍備拡張を軸として日清戦後経営を推進する明治政府と対決するという性格をもたざるをえなかった。
▽46 1897年のまとめ。被害地域は、1府5県…被害総額は当時の足尾銅山の年間売上高のほぼ10倍に達し、被害面積はさらに拡大していた。
▽47 田中は鉱業停止の請願運動を組織化。現在の被害補償よりも、将来にわたる生存の保障を重視するという、被害民の意識覚醒をもとめる…
▽48 雲龍寺に「群馬栃木両県鉱毒事務所」
▽63 第1回東京押出し 先発隊2000人
 陳情・請願、議員に「被害地惨状御見聞願」のチラシ 報道され世論盛り上がり
▽70 ただちに鉱業停止のほかなしと断定し、鉱毒調査会の論議を姑息だとする海舟の意見。
 その文明観は、科学技術と人間とのかかわりについて、田中正造のそれと重なる今日に生きる思想といえるだろう。
「旧幕は、野蛮だと云ふなら、夫で宜しい。伊藤さんや、陸奥さんは、文明の骨頂だと言ふじゃないか。文明と云ふのは、よく理を考へて、民の害とならぬ事ををするのではないか。夫れだから、文明流になさいと言ふのだ」(〓勝海舟の魅力)
▽74 はじめ鉱業を停止する外なしと主張していた後藤新平は、…非停止を主張するようになる
…その後の鉱毒被害の拡大にたいして、最低限の行政措置で応ずる一方、被害農民の直接行動などにたいしては、治安問題として、弾圧政策で臨んでくるのである。
▽75 製錬所上流の松木村は、1901年1月「煙害救助請願書」を政府に提出するが解決されず、同年暮れに廃村・絶滅する。
▽76 第一次鉱毒調査会による鉱毒処分は、鉱毒予防工事命令と、地租の免租処分。…古河側に被害補償をさせるべきだとして動く衆院議員もいたが…
▽83 東京にもうけられた4県連合鉱業停止請願事務所
▽88 1898年、自由、進歩両党の圧倒的多数によって、軍備拡張を柱とする増税案が葬り去られると、政府は議会を解散した。自由、進歩両党は解党し憲政党を結成。田中もそれを推進した1人だった。
▽90 勝海舟のおもしろさ
 田中が夕べ来た。「お前は何になるのだ」と云ふたら、「総理大臣」と云ふから、夫は、善い心掛だ。ワシが請判をすると云って、証文を書いてうやった。名あてが、閻魔様、地蔵様、勝安芳保証としてやった。大層悦んで帰ったよ。
▽91 隈板内閣は藩閥勢力に追随して富国強兵政策をになっていく。かつての民力休養と地租軽減のスローガンを完全に空洞化させて、わずか5カ月後に崩壊する。
(田中も批判的)
▽98 田中は、国家による行政単位、分断統治を超えて、被害地を一丸とする解放への自治的制度化をめざそうと鉱毒議会を成立せしめた。…機能を十分発揮するにはいたらなかった。
▽102 第4回東京押出し 農民側は「1万2000人」、警察側は「2500余名」…とし、正確な数は不明。
 川俣事件 100余名が逮捕。この弾圧によって、銅山鉱毒反対闘争は、大きく組織的な退潮をたどっていった。
▽106 押し出しの挫折後、ひそかに天皇への直訴を決意。天皇の慈悲にすがって鉱毒事件の好転をはかろうなどというものではない。天皇への直訴という社会的な衝撃をねらい、それによって報道機関を動員し、世論の沸騰に点火し、川俣事件以後の退潮過程をたどる鉱毒反対闘争の活性化をはかるとともに、政府の譲歩、転換を引きだそうとするものだった。
 直訴を教唆する形で協力したのが毎日新聞朱筆の石川安次郎(半山)だった。
 直訴状の執筆者 幸徳伝次郎(秋水)。1901年6月に謀議成立。
▽107 川俣事件の裁判で 被害地臨検。現地をたずねることで、足尾銅山鉱毒事件の報道に転換する。(現場の大切さ)
▽108 見渡すかぎり茫々たる大砂原と化し、小丘のように表土を積みあげた毒塚の点在する、かつての美田であり、原野と変わらぬ枯死した桑畑であった。…竹藪という竹藪は根が腐り、だれでも容易に引き抜くことができたし、雷電神社境内の100本にもおよぶ杉の森は、赤く変色して枯死寸前であった。
▽111 1901年12月10日、第16回帝国議会の開院式に臨んだ天皇が、午前11時45分、貴族院をでて貴族院協の大路を左に進みつつあった。そのとき、直訴状を手にした田中正造が、おねがいがございますと叫びながら、天皇の馬車に迫った。これを見て驚いた警護の伊知地近衛騎兵曹長が、「剣を抜て之を刺さんとし」て落馬、田中もつまずいて転び、警戒中の警官に捕らえられた。
……田中の直訴決行の知らせをうけた毎日新聞の石川安次郎は、すぐ幸徳秋水と協議した。幸徳は自分が執筆した直訴状の写しを、通信社をつうじて各新聞社に流したあと、素知らぬ顔で、石川と木下尚江のいる部屋を訪ねた。そして、「…実は君達に謝りに来た。田中正造が昨夜遅く直訴状の執筆の依頼にきた。僕だって直訴なんか嫌だが、仕方なく書いてやった」と芝居を演じた。
 こうして、幸徳の芝居を真実と信じた木下は、そのことを著書に書くなどして、直訴における田中、石川、幸徳の存在と、その真相を覆い隠す贋の証言者の役割を、1970年代まで演じつづけるのである【〓どんなきっかけで判明?】
…田中はとりしらべに際し、ひたすら天皇にすがったものとするたてまえを貫ぬき、謀議を秘匿したので、不敬罪の成立する余地もなかった。
▽112 石川の「当用日記」によれば、幸徳と田中の3人による総括で…
 木下尚江の前での芝居とはちがって、そこには、やったやったと快哉を叫ぶように入ってくる幸徳の姿がある。幸徳は師の中江兆民の病床によるまでつきそったあと、直訴状の執筆者として取り調べを受けた。だが木下に語ったように話すことで、問題にならなかったのであろう。
余田中ニ向て曰く 失敗せり…一太刀受けるか殺さ(れ)ねばモノニナラヌ
田中曰く弱りました
余慰めて曰く やらぬよりも宜しい
 田中は、みずからの死を代償に世論の沸騰に点火し、鉱毒反対闘争の活性化と政府の政策転換へ、衝撃的な効果を狙いとしていたのである
 天皇警護の近衛騎兵は、天皇に近づくものを即物的に殺傷することを義務づけられているのである。
(純情なおすがり、ではなかった〓)
 岩手県の中学生石川啄木は同志と号外を売り、新聞を配達し、その得た金品を足尾鉱毒被害民と八甲田山麓雪中行軍遭難者への義捐金とし、…17才の苦学生黒澤西藏(雪印創業者)は、単身田中の宿舎を探し求めて、鉱毒反対闘争に参加する。
 高知市外潮江村では、…聖代の佐倉宗五郎と讃えるもの…
「国のために、生命を捧げる者はあっても、民家のために生命を棄てる者は、めったにおらん。まず、キリスト、佐倉宗五郎以来の擬人と見てよかろうぢゃないか
▽119 直訴は世論の沸騰に点火した。…足尾銅山鉱毒事件が、明治後半の最大の社会運動といわれるゆえんである。
▽121 河上肇 演説きいて、カネがないから着ていた二重外套と羽織、襟巻きを係の婦人にさしだし…「特志の大学生」として毎日新聞に報道。
…キリスト教徒、鉱毒視察修学旅行には、キリスト教、仏教系私学の学生らも参加。
▽125 政府は、鉱毒視察修学旅行を禁止。団体も個人も被害地視察を禁止。学生の演説も禁止。
▽134 渡良瀬川は利根川にそそぎ、関宿において江戸川が分流する。1896年の大洪水は東京府下まで鉱毒被害を発生させた。内務省は1898年、関宿の江戸川河口を石材とセメントで埋め、明治初期には26〜30間あった河口を9間あまりに狭める一方、渡良瀬川の河口(合流点)を拡幅し、利根川の水が渡良瀬川に逆流しやすくした。
 これによって合流点付近の低地に氾濫がおこりやすくなり、水源地帯の荒廃と渡良瀬川の河床の上昇とあいまって、天然の遊水池とよんだ鉱毒激甚地と化していた。
 この工事は、ごく少数の官僚委員しか知らなかったものとみられる。
▽138 1903年の第二次鉱毒調査会の報告書は、鉱毒被害は過去の鉱山に根源があり、現業には原因がないとして、企業責任を免罪し、鉱業の存続を保証した。…基本的な銅山の鉱毒規制をなおざりにし、洪水の原因が、製錬にともなう煙害と山林濫伐による水源地帯の荒廃にあることをまったく無視し、もっぱら土木工事を中心とする洪水対策が中心となる。鉱毒問題の治水問題へのすりかえであった。
▽141 内務省は調査会設置以前から秘密裏に、栃木県では谷中村、埼玉県では利島、川辺両村をあてこんで、それぞれ遊水池化計画を推し進めようとした。
 1902年1月、このことを利島、川辺両村の鉱毒委員が聞き込み、廃村、遊水池化反対闘争を展開。両村合同村民大会で納税と徴兵の拒否を決議して1年近くたたかいぬき、ついに遊水池化計画を排除。
 栃木県では1903年1月の臨時県議会に遊水池化のための谷中村買収案を提出し、否決し去られていた。…
▽143 田中は1857年に17歳で名主となり、1862年には、藩財政の破綻を村落支配の強化によって解決しようとした領主権力と10年にわたるたたかいに身を投じた。
 …檻のような三尺立方の獄に捕らえられた際に、毒殺を予期して鰹節2本で30日以上も耐え抜いた。さらに、明治になって、陸中江刺県花輪支庁(秋田県鹿角市)の役人として、上役斬殺の嫌疑による石責めの拷問にも屈せぬ3年あまりの入獄体験。
…1880年、県議会に初当選した田中は全国の民権家とともに、「国会開設建白書」を元老院に提出
▽147 栃木新聞を発行。資本家から編集権を独立させるという、きわめて先駆的な編集権確立の思想にたどりついていた。
…福島事件で知られる藩閥官僚の典型、三島通庸が、栃木県令として赴任し、強権を発動しての寄付や夫役などによる巨額の土木工事とそれにまつわる不正に抗して壮絶なたたかいを展開した。…加波山事件の勃発に際し、累犯者として逮捕される。…三島県令の転任をうながし、県民の歓呼にむかえられて田中は出獄した
▽154 1901年の第15回帝国議会。田中は鉱業停止を要求し、「是ダケ申上ゲテモ政府ガソレヲヤラナケレバ、政府ハ人民ニ軍サ(いくさ)ヲ起セト云フコトノ権利ヲーー軍サヲ起ス権利ヲ与ヘルノデアル」と、被害農民の抵抗権を主張し、10月衆院議員を辞して帝国議会を去った。
…12月10日、直訴を決行。天皇にすがるという形態をとりながら、天皇制における暴力装置の発動をひきだし、みずからの流血をもって、鉱毒線論の沸騰に点火し…
 世論は沸騰したが、田中は死なず、政策転換もありえなかった。
 1903年、静岡県掛川町において、非戦論の叫びをあげた。
▽155 1904年日露開戦。この年の7月、田中は谷中村にはいった。
 国家によって破壊・滅亡させられようとする谷中村に、みずから移り住むことは、国家を否定し返し、国家以前の権利としての人民の生存権を主張してたたかうことである。…谷中村に残留する人民とともに、理想の自治をうちたてることが、田中にとって、天国を新造することだった。
…日露戦勃発の翌月、コンニャク板チラシをつくり、…戦争でもうけをたくらむものとこれに協力する悪魔とのたたかいをよびかけていた。
 1905年8月、戦争に勝利した日本は、鉱毒被害地の抹殺、遊水池化計画をおしすすめる。11月、大多数の村民は買収に応じて移住していく。
…いまや鉱毒反対闘争は、谷中村一村の犠牲を承認し、見殺しにする他町村被害農民の離脱によって解体し、田中正造と谷中村残留民、他町村有志の少数のたたかいとなった(〓義経か楠木正成か)
…かつて田中のもとで、組織的中枢をになった左部彦次郎のように、栃木県土木吏となり、谷中村残留民切り崩し、買収の手先になるなど、行政に寝返ったものも。
 1906年7月1日、藤岡町との合併を強行。戸数450、2700人の谷中村は滅亡への途をたどった。
…6月29日から7月5日にかけて、残留民家16戸にたいし強制破壊を執行。住民たちは破壊された屋敷跡に仮小屋をたてて住んだ。
▽166 亡くなる直前の「最後の語」
 同情と云ふ事にも二つある。此の田中正造への同情と正造の問題への同情とハ分けて見なければならぬ。皆さんのは正造への同情で、問題への同情ではない。問題から言ふ時にハ此処も敵地だ。〓〓孤独
▽168 渡良瀬川最下流地域は、洪水のもたらす肥料分のおかげで豊かな農業生産を享受していた。
▽169 埼玉県利島村、川辺村。埼玉県当局に対して、「県庁にして堤防を築かずば吾等村民の手に依て築かん。従って国家に対し、断然納税兵役の二大義務を負はず」という決議をもって、両村の買収、廃村計画の撤回をせまった。埼玉県当局はついに計画を断念するにいたった。
▽田中正造は1902から3年春にかけて両村の買収反対運動に奔走していたが、撤回されたので1903年夏以降は谷中村の買収、廃村反対運動を指導するために、同村にすみついた。(埼玉の二村も谷中村を支援)
▽173 周辺の多くの農民は、谷中村を遊水池にすることで、自分たちが洪水から救われるなら、しかたないと思うようになった。…農民の鉱毒反対運動を挫折させ、谷中村を滅亡させたのは日露戦争であった
▽175 田中は、村外の有力者や東京の知識人にたいして、谷中村の土地所有者となって、土地買収に歯止めをかけるようよびかけた。
 現在、全国各地の開発反対闘争や基地闘争でもちいられている一壺地主運動などの先駆とみなされる。
…県当局の切り崩し。正造の右腕といわれた左部彦次郎をだきこみ、有力な農民活動家を次々に県側に寝返らせた。
 移転反対派農民は1907年はじめには70戸400人まで減少した。
 1907年1月、堤内16戸にたいして強制破壊を実施。堤外地に残留していた3戸も破壊。116人の農民は住む家がないまま放りだされた。…役人が引きあげると、元の住居跡に仮小屋をつくり、以後10年の長きにわたって谷中村復活を目標として住みつづける。
▽180 遊水池が機能せず…
 1900年以降、河川改修の方法が、低水工法から高水工法に全面的に転換。堤防を高くすることで、最大流量を河川のなかに押し込めて洪水を防ぐ工法。
 明治政府は、舟運を重視する立場から当初はオランダから低水工法の技術を導入して、運河や低水路の開削をしたが、舟運の重要性が下がり、高水工法を採用した。
▽182 江戸時代、利根川の右岸の堤防を高くすることで、舟運に必要な利根川の流量を維持すると同時に、右岸の水害を防ごうとした。…
…鉱毒被害さえなければ、源流地帯が荒廃して出水にいたる時間が短縮されたり、多量の土砂による河床の上昇がなければ、渡良瀬川下流地帯を無人地帯にする必要はなかった。
 渡良瀬下流地域の人々は、幕府の治水対策の被害者であったため、逆流洪水にそなえた生活様式を禹風していた
 逆流洪水の原因は、利根川から江戸川への分流口である関宿の石堤を狭めたこと。谷中村廃村事件以降の田中が何よりも強調したのはこの点であったし、彼の晩年の10年の活動は、谷中村復活を実現するために関宿の石堤をとりはらって、利根川の水を江戸川に流し込むという治水方針の実現に向けられていた。
▽185 かつては渡良瀬川と利根川は別々に東京湾にながれこんでいた。当時の渡良瀬の本流は現在の江戸川筋にあった。幕府は河川の舟運を維持するために、人工的に利根川を少しずつ東へつけかえ、ついに渡良瀬川にむすび、赤堀側を開削して常陸川におとし、さらに鬼怒川、小貝川を合流して銚子から太平洋に流れこませた。これが利根川の東遷とよばれるものだ。これは、治水対策よりも舟運のための流量維持を主目的になされた。したがって銚子方面にながれる水は、利根川の分流にすぎず、本流は江戸川をつうじて東京湾にそそいでいた。
▽184 政府は江戸川の洪水対策を重視し、いっかんして江戸川の流頭呑口を狭めてきたが、鉱毒問題が社会問題化した1896年夏の大洪水以降、いちじるしく狭めた。
…洪水対策と鉱毒問題の沈静化をねらって、利根川と渡良瀬川の両岸について高水工法をほどこし、それまでの不特定の広大な遊水池鯛をなくし、谷中村などの特定地域のみを遊水池として堤防で囲み、利根川が減水するまでそこに渡良瀬川の水を一時的に溜めておくという計画をたてた。…鉱毒を後代な遊水池鯛に拡散・堆積させずに谷中村一体の遊水池に沈殿させようとしたものといえる。
「鉱毒問題の治水問題への埋没」
…上流の農民たちは、これによって洪水による鉱害被害が減少するのなら、下流の一部の農民が犠牲になるのもやむをえないと考えるようになっていった。
 上流と下流の被害農民たちの利害は完全にあいいれないものになってしまった。
▽189 農民たちは、足尾地方で大雨が降ると用水の取り入れ口を閉じたし、田んぼの水の取入れ口に鉱毒溜まりと称する沈殿池を設置したり…浚渫された鉱毒泥は、あちこちに積みあげられ「毒塚」とよんだ。最近まで被害地の田んぼではよくみられた。鉱毒溜や鉱毒泥沈殿用の水路は、今も鉱毒被害を受けている群馬県太田市の毛里田地区で見ることができる。【放射能と同じ】
▽197 渡良瀬川源流の村と最下流の村とが、滅亡した。
▽206 富士通は古河財閥系。足尾銅山の労働運動はもっとも先進的な部類に属し…
▽209 戦争中、銅山は乱掘。鉱害防止も手抜きされた。下流の農民は「戦時中は酷かった。ちょっと雨が降ると白濁した水が渡良瀬川から用水に流れこみ、取水口を閉じ忘れたりすると。稲は枯れたり実らなかったりした」
▽218 1958年、14の堆積場のうち、もっとも南の小規模の源五郎堆積場が決壊。6000ヘクタールの水田に直接被害を与えた。
…毛里田農協の組合長だった恩田正一は、それまでの農民の運動が、わずかな石灰や肥料などの現物供与を要求するものでしかなかったことを反省し、鉱毒被害の完全な防止を目標とする新しい鉱毒反対運動の組織化の必要性を痛感した。
…群馬県東毛三市三郡渡良瀬川鉱毒根絶期成同盟会が結成される。
▽222 水質規制法 決壊の年に制定。水質基準を決める水質審議会に、被害者である農民漁民はふくまれず、古河鉱業の社長や国策パルプの社長は委員になっていた。
▽227 1971年、毛里田地区産米のカドミウム汚染問題が表面化。古河鉱業に被害補償・生活保障を請求。調停請求事件。古河鉱業側に鉱毒被害の責任を認めさせ、それまでの「農事振興」「寄付」といった形ではなく、正式に損害賠償としての補償金を支払わせたことは、1世紀におよぶ足尾銅山鉱毒事件のなかでもはじめてのこと。
▽233 1973年2月に閉山。17世紀初頭から日本の1,2位を競う銅山として栄えた愛媛の別子山銅山も同年3月に閉山。
▽239 渡良瀬遊水池と名づけられた旧谷中村は、くり返す大洪水によって土砂でうまり、わずかの年月で遊水池としての機能もはたせなくなった。
…1963年から遊水池の調節池化工事が開始。次に遊水池の一部をほりさげる貯水池化計画がもちあがる。
…貯水池がハート型をしているのは、凹部に旧村の遺跡である延命院の跡と共同墓地があるためである。墓地は1972年夏、貯水池工事をすすめる建設省によって破壊される寸前のところで、谷中村残留民の子孫たちがブルドーザーの前にすわりこみ、身をもって守りぬいた。
〓16戸の旧谷中村残留民の子孫の何人かは、不当に安く強制的に買い上げられたかつての自分の土地で、3代にわたって冬の副業にヨシを刈り、よしずを編んで東京方面に出荷してきた。「谷中村の遺跡を守る会」を発足させ、建設省と交渉し、延命院跡と共同墓地周辺を水がめ化計画からはずさせた。
▽247 松木沢は古河市兵衛が銅山を再興するまで、鬱蒼たる森林…だが、今では1本の灌木さえみつけることができない。(1982年ごろ?ぼくが訪ねたころか)
▽252 岩盤が露出した足尾山地は、足尾町当局が「日本のグランド・キャニオン」となづけ観光地として売り出し中。
▽足尾町の人口は1916年のピークに、8484世帯3万8428人だったが、1960年には3780世帯18094人、1981年は2167世帯5991人。
▽258 第一勧銀グループの中核をなす古河系企業群。
▽266「世界人類の多くハ、今や機械文明と云ふものニ噛ミ殺さる」と近代の機械文明を評した。
▽267 1913年9月、河川調査の旅先で没したとき、谷中村問題で最終的には田中と袂を分かったとはいえ、長いあいだ彼と鉱毒反対運動を担った何万という農民たちが田中の葬儀をおこなうために集まった。それは一市民の葬儀としては、おそらく日本近代史上最大の葬儀であった。かつての農民運動家たちは、火葬後被害地の5カ所に分骨し、田中の霊を慰めた。それは田中正造の生前の意思に反した行為ではあったが、鉱毒反対運動に疲れた人びとにとっては、そうせずにはいられなかったのであろう。
▽268 公害問題とともに、田中再評価の契機になったものとしては、旧谷中村残留民と彼らを最後まで支援した人びとによって組織された田中会の活動がある。旧谷中村残留民とその周辺地域の農民たちは、田中が自治村の復活をめざした遊水池内の残留民の宅地内に、彼の分骨を埋葬し、石の祠に祀った。彼らは東京の少数の知識人たちもいれて田中会を結成し、谷中村復活のたたかいをつづけた。彼らは旧谷中村を立ち退くとき、田中正造を祀った田中霊祠もいっしょに移転し、現在にいたるまで4月4日に例祭をおこなってきた。
…1957年5月、田中霊祠の拝殿を新築。12月、宗教法人としての認可をうけた。日本の近代史上、民衆のなかから「義民祠」に祀られた人物は、おそらく田中正造ひとりであろう。
▽322 「デンキ開けて世見暗夜となれり」「日本の文明、今や質あり文なし、知あり徳なきに苦むなり」

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