■日本文明77の鍵 梅棹忠夫編著 文春新書 20120901 鴨ケ浦で
外国人向けに日本を紹介する英文パンフが好評だったため、邦訳して日本人向けに書き換えた。
外国人が日本のどこを不思議に思うのか、欧米や中国とくらべて日本のどこが特殊なのか、それをどう説明すればよいのかを考えるうえで参考になる。
たとえば、翻訳文学の多さは日本の文学界の特徴だという。内田樹の「辺境論」は、日本は「辺境」であるがゆえに外のものを貪欲に取り入れようとしたと書いているが、文学でも同じことが言えるのだろう。
日本人は江戸時代から集団の旅が好きで、その流れが、ツアーによる寺社観光という現代の旅行形態を生んでいること。特産品を振興した藩のあり方が、日本の企業のあり方の原型であり、村落共同体の秩序が企業の一体感をつくりだしていること……など、歴史と現代の社会事象をリンクさせる説明も興味深い。
官僚組織は軍隊と同様、すべての身分に開かれたピラミッド組織だったからこそ、大きな権限と影響力をもつようになった。中南米の軍隊が、貧困層が上層にのしあがる階段の役目を果たしているのと同じだ。
憲法を「タテマエ」と位置づけ、タテマエを原理主義的に現実に適用しようとしたときに戦前の日本は崩壊したとする。同様に、戦後の平和主義や基本的人権も「タテマエ」であり、現実的に運用することが必要だとする。独特の保守主義的プラグマティズムだ。
一方、封建時代の存在や「民」のレベルでの文書主義は、他のアジア諸国と異なってヨーロッパに似ているという。ユーラシアの東西の端っこに似た文明が生まれとする梅棹の「文明の生態史観」?とも通じる主張だが、封建社会の存在を日本の優位性として論じていることには若干の違和感を感じる。
宋時代の中国がつくった制度や体制が現代世界の原型であり、グローバルスタンダード(中国)とその正反対にある「江戸」の間を振り子のように揺れながら、日本の近現代は進んできたと主張する「中国化する日本」の本の方が説得力を感じる。
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▽23 縄文時代は東日本中心。落葉樹林帯は樹間の広いあかるい林がひろがり、自然のままで住みやすい状態になった。
西日本の森は、常緑樹が密生していて利用が困難だったらしい。
雑穀栽培や稲作などの濃厚技術は、気候の温暖な西日本の常緑林帯でおこなわれた。
▽26 1月の東京の平均気温は、北極圏にちかいアイスランドのレイキャビクよりもひくい。
▽33 日本人の摂取する動物性タンパク質の40−50%は魚介類。アメリカやニュージーランドは5%以下。スペイン、ロシア、デンマークは20%近く。
▽38 梅棹は、都市の起源は「神殿」であったという。都市は田畑や工場のなかに生まれるのではない。情報の場として存在する。
▽41 コメは縄文前期 6000年前に移入されたが、生産量が多い水田稲作が中国南部から約3000年前につたわり、本格的な農耕社会が形成された。(黒米や赤米は)
▽42 水田は肥料がすくなくてすみ、連作が可能。生産力が高い。
日本では農民−武士という米経済と、商人−職人の貨幣経済が併存していた。
▽50 縄文時代末に鉄器がつたえられた。青銅器は弥生時代初期。中国では鉄の普及で青銅の余剰が生じ、それが周辺地域に大量に流出した。周辺諸国ではまだ鉄を利用した大規模な工事や戦争の筆ようがなく、むしろ呪術的道具のほうが珍重されたのだろう。
▽52 日本の製鉄は「鍛造」技術が卓越していた。それが日本刀につながる。15世紀の日明貿易では日本刀が輸出の重要品目。鉄砲製造技術を数年で覚えたのも、その背景に鉄の鍛造技術の発達があったから。
▽66 日本後は、世界の言語のなかに親族をもたない言葉といわれている。……東北・関東・関西・九州・沖縄と5つの方言区がある。琉球語と日本語の分離は2000から1500年前と推定されている。
▽71 源氏物語など、ストーリーよりも日常的な事柄に関心をしめす態度は、日本の散文の特徴的な流れ。現代でも自分の身の回りにしか関心をはらわない私小説が日本文学のひとつの柱となっている。ストーリー中心の長編としては、鎌倉時代からの軍記物があるが、江戸時代までは中国文学、明治以降では欧州文学の翻訳や翻案が中心だった。
日本では毎年600冊ちかい各国の文学が出版されていて、翻訳家という職業が成立している。「世界文学情勢が知りたければ日本語をならうとよい」という外国人がいるほど。
▽80 東アジアでは、日本とおなじように封建社会をきりひらいた国は見いだせない。中国をふくむアジア諸国が、古代国家からぬけだそうとしてはたせなかったのに対し、日本だけが中世国家への転換をとげられた事実は、世界史上でも画期的なこととして評価してよい。日本が中国からわかれ独自の道をあゆみはじめたことは、ちょうどゲルマン民族が古代ローマ世界から独立し、ヨーロッパ中世世界を形成した歴史的発展過程と平行な関係にある。
▽83 日本の中世世界は、国家から個人まで、土地所有とそれを保障する文書によってなりたっていた。一方中国は「民」の系譜の文書というものがない。
中世ヨーロッパが文書主義の社会であった話はよく知られている。「民」の文書がたくさんのこっており、日本とよく似た状況にあった。
▽86 日本の天守の起源は安土城。戦争目的という機能以上に、政治的効果が重視されていた。
▽95 16世紀の日本は、メキシコやペルーに匹敵する産銀国。日本の輸出銀だけでも、世界の総生産額のほぼ3分の1をしめていた。
▽101 鉄砲 刀工に製造を命じたが銃身の底をふさぐ方法がわからなかった。火薬の爆発力にたえるには、ネジをもちいるしかなかった。ヨーロッパではギリシャ時代からブドウをしぼるのにネジをもちいていたが、日本では古くからテコを使用しており、ネジというものをしらなかった。
鉄砲の国産を可能にしたのは、高品質の鉄をつくる技術。日本刀の鍛造技術を応用できた。
▽117 藩 年貢収入だけでは慢性的な財政難に悩む。そこで、鑞や漆、紙、塩といった特産品を開発し、生産・流通を藩が管理した。藩は、現代の企業体のような性格をもつにいたる。
日本企業には、会社の一大事には社員一同心をあわせて奔走する気風があふれている。それは、藩という組織体から受け継いだ伝統であるといえよう。取締役、重役など、企業の職名には、江戸時代の藩の役職名がそのままいきている。
▽129 欧米では、都市名と街路名と番地で住居を表示するのが通常だが、日本では、都市名と「町」名と番地とでそれをあらわすのが慣例。それぞれの「町」に自治組織があり……「町」は15世紀末には京都に出現しており、大坂や堺などの中世都市にもみられるようになった。しかし、全国にいきわたるのは江戸時代になってから。
17世紀の町人と18世紀以降のそれとは、かなり様相がことなる。17世紀初頭は、上方の豪商たちの活躍がめだった。しかし17世紀中期をさかいに、豪商の多くが没落する。海外貿易の道がふさがれ、その埋め合わせに手をだした大名への金融が回収不能になったことなどがおおきかったとされる。
豪商没落後、17世紀後半、勤勉でつつましやかな生活を信条とする庶民層が、町人社会の中心をしめるようになる。
「町」と「町人」は、現代日本の都市社会、市民文化の原点に位置している。
▽133 大坂ではデリバティブ先物取引が世界にさきがけて誕生する。
▽137 鎖国政策は、キリスト教を排除しつつ、貿易の利益を幕府が独占する方策として採用された。「鎖国」という言葉自体ドイツ人ケンペルの書いた日本論の訳語として、19世紀になって出現したものだった。
▽147 庶民がこのんで旅にでる。しかも集団で旅行する傾向が顕著なのも、江戸時代の庶民の旅と同様。いまだに観光地は、神社や寺とその周辺である。日本の地方鉄道が、日光・伊勢・琴平といった有名神社への参詣客をあてに、いちはやく敷設された事実も、示唆ぶかい。
▽159 ペリーの旗艦は2450トン。当時の日本の最大級の帆船(2000石舟)は、わずか200トン。
▽163 1840年代の江戸は人口130万。その半分が武士とその家族という純粋な消費人口。武家地6割、寺社地2割、人口の5割をしめる町人の利用地面積は2割にすぎなかった。
▽171 植民地 本国政府に束縛されない政治的実験が本国にはねかえる。中国における軍部の政治への進出は、日本本国における政党政治の終末と軍人の政治への大量進出という帰結をもたらした。
植民地経営の方針も、従来の一種の理性的合理的植民地支配から、日本の文化を絶対化する精神主義的・非合理的政策が台頭してくる。日本語の強制、神社参拝の強制、姓名の日本化など。植民地というものが、経済的搾取を目的としているならば、このような政策は、植民地政策という概念からの逸脱ですらあった。
19世紀の植民地主義は、冨をできるだけ収奪しようとする残酷さをもっていたが、一種のクールな合理的思考に裏打ちされていた。ところが……。
▽173 陸軍は、権威主義的ではあったが、ドイツ陸軍のように貴族的ではなく、むしろ、平民的であった。海軍も「兵学校の新入生は、日本国民のあらゆる階層を代表する青年の集まりといってよい」とイギリス人教官。
▽177 1880年代の帝国大学法科大学卒業生の75%が旧武士層出身だった。官僚の権力をおおきくしたのは、平等な学力試験の勝利者であり、業績主義という近代の理念の体現者だったからであった。日本の高級官僚には、ドイツやイギリスにみられた貴族がほとんどいなかった。
▽183 中国で20世紀になっても、地方軍閥が中央から独立した力をもっていたのは、政治的な意志を伝達するシステムの整備に失敗したこともおおきかった。1906年の時点で、行政府の命令が北京から伝達されるのに要した日数は、北京周辺4日、奉天7日、四川50日、新疆90日、チベット165日。日本では1883年にきめられた規則によれば、京都・大阪4日、青森10日、鹿児島12日。
▽184 日本には馬車の時代も荷車の時代もなかった。物流の中心は河川・海上交通。陸上輸送は、馬背を中心とし、荷車は、公的にみとめられた船主や馬主の利害と対立するために、いちじるしく制限がくわえられた。荷車が主要街道を通行できるようになったのは1862年であり、馬車が許可されたのは1866年に西洋人が居留地にもちこんでから。
▽187 憲法はタテマエ。タテマエを実体化しようとすると国体明徴運動などが生じる。タテマエを性急に実体化しようとする運動だった。(顕教と密教)
新憲法も、性急な平和主義、生活慣行を無視した基本的人権主義はタテマエと実体を混同するという意味において、無用の混乱をまきおこすだけであろう。
▽189 日本には議会はなかったが個人的独裁もなかった。合議制の政治だった。幕府の最高意志決定は、複数の老中によってなされた。議会の伝統がない日本にいちはやく議会制度が定着したのは、合議制の伝統と、合議に参加する人間の拡大という政治習慣の進化が前提としてあったからである。
▽193 戦前の民法は、武家の家族をモデルにして、生活慣行の実際以上に、過度に家長の権力を重視した。戦後の新民法は、民主主義という西洋の政治思想をモデルとして、「家」制度の全面的な否定を実現した。しかし日本人のおおくは、そもそも専制君主的な家長を経験していなかったし、また均分相続が認められたからといって、財産の完全な分割を要求できるほどには、ゆたかでもなく、個人主義的でもなかった。法律はおおきくかわったが、家族生活の実態はそれほどかわっていない。
変化はこれから。生活防衛組織としての家族のありかたは、きびしい経済生活を前提としていた。戦後の高度経済成長と、個人主義的思想の浸透は「家」制度をささえた前提をくずしてしまった。
▽195 日本は島原の乱後200年余にわたる平和を享受していたために、戦争についての思想も技術もなきにひとしかった。ヨーロッパからまなばなければならなかった。1480年から1941年までの政界各国が体験した戦争の回数は、イギリス78、フランス71、イタリア25、アメリカ13、日本9だった。(高木惣吉「現代の戦争」)
東洋の国際的平和は、中国の絶対的実力を前提として、周辺の国々は恭順の意を表し、……中華思想という中国中心主義は、軍事的色彩をもたず、文明の感化力に信頼をおく思想であった。ところが、アヘン戦争でイギリスに敗北……日清戦争における日本の勝利は、東アジアの伝統的国際秩序の終末を意味した。この勝利によって、中国に対する日本人の劣等意識は、優越感に転じた。
▽203 労働者のおおくは農村出身者だったから、かれらをとおして、村落共同体の秩序意識が企業内にもちこまれた。日本の企業組織は、封建的組織を手なおしして官僚主義的な原則を導入しただけだったため、組織内に身分階層的秩序が色こくのこっていた。
▽214 19世紀後半の農民の労働着は、活動的・機能的でなければならないため、筒袖の上着に、ズボンのような下ばきモンペで、基本的には洋服とかわらなかった。……日本で洋服が定着したのは戦後のこと。
▽255 日本では自然性の発露や同性愛に対するタブーはほとんど存在しなかった。処女や童貞の尊重や崇拝はほとんど存在しなかった。ただ武家社会では、姦通がきびしい制裁対象となり、婚前の性体験もうとまれた。
明治革命以降、日本の性文化はつよい禁圧を権力によってくわえられる。男女混浴禁止、猥褻物の販売禁止、刑法の「姦通罪」採用、民法の「私生児」の制度的創出……といった制度的改革が、夫婦以外の行為を悪とする空気をうんだ。女性の純潔貞操を強制し、処女性を尊重すること、さらに自慰を悪とする観念などを広げた。伝統のなかにあった若者組、娘組をとおしての性教育の慣習も禁圧された。性文化の伝統は、近代化、富国強兵をめざす日本には不適当として弾圧された。
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