■小田嶋隆のコラム道<小田嶋隆>20120923
コラムの書き方を伝授するノウハウ本の体裁をとりながら、それじたいがコラムになっている。独特の視点がおもしろい。中身になにが書いてあったのかは覚えていないのだけど、おもしろかったという後味が残る。
奇しくも、「主題よりも書き方に重点を置いている書き手をコラムニスト」と書いている。内容よりもレトリックなのだ。なるほどと思う。中身をよく覚えていないことじたい、彼の術中にはまっているということか。
「作文」の授業がなぜつまらないか、情景描写で終わる手口、「世間をお騒がせして申し訳ない」という謝罪会見の位置づけなど、無意識に感じていることをずばりと説明してみせる切れのよさが印象的だ。
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▽34 主題よりも書き方に重点を置いている書き手をコラムニストと呼ぶ
コラムニストが問題にしているのは、主題そのものではなくて、与えられた主題をどのように料理するのかという調理手順だからだ。
▽48 会話のカタチで書かれているものならば、読者は相当にグダグダな文章でも許す度量をもっている。会話文は、コラムのなかに、異質な要素をまぎれこませsるときに便利なツール。
(なるほど。そういう書き方はしたことがなかった。)
▽91 新聞コラムでよく使う手口。文章の最後に、映像喚起的な一行を添えておく。と、文章全体に、叙情的な色彩が加わる。非常に効果的だが、やりすぎるとイヤミになる。・・・年輩の女性読者は、「季節」を感じさせる言葉に圧倒的に弱い。
▽117 結末の一行は、その一行が独立したワンフレーズとして読んでも鑑賞に耐えるものであればよい。
▽124 自転車にのっているとき、斬新なフレーズや新しい発見がおりてくる。ところが、次の信号待ちで停まる頃には、アイデアは揮発している。眠りに落ちる前もおもしろいネタを思いつく。でも翌朝はおぼえていない。メモをとるようにすると・・・翌朝読むとおもしろくもなんともない。
▽181 学校の作文が、生徒にとって負担なのは、「描写力」と「創造力」という、ふたつの能力をひとつの文章の中に求めているから。感想文は「オリジナルの感想を思い浮かべること」と「思い浮かべた感想を正しく書き写すこと」の両方を求められる。これはキツい。「まったく意味がわかりませんでした」みたいな、教師受けのよくない「本当の感想」を抑圧して、「ゴーシュの気持ちがよくわかりました」式のニセの感想をねつ造しなければならない。
学校の作文は「自分の思想や感情を思うさまに吐露する」という、文章を書く上でのもっとも原初的な楽しみをあらかじめ奪ったところから出発しているわけで、子どもたちが文章を好きになるはずはない。
▽ 技巧は機械的に身につけるもの。他人の文章を要約する。反復練習を続ければ、技巧はわりあいに簡単に身につく。
▽201 「世間をお騒がせして申し訳ない」という会見。不祥事そのものについて謝罪しているのでもなければ、その被害についてわびているわけでもない。ただただ、組織の体面を傷つけたことについて謝罪を表明している。要するに社畜の謝罪なのである。
▽内田との対談
▽229 村上春樹は「1Q84」で、73年から後の新左翼運動後の全共闘世代のメンタリティの推移を、わずか数ページで鮮やかに説明してしまう。
説明がうまい人は、「焦点距離」を自在に操れる人。
▽246 人間データベースのような人は、無文字社会ではたくさんいたが、文字が発明されたことでがくんと減って、ウィキペディアがそれにとどめをさした。(文字がないことの豊かさ レヴィストース)
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