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民権と憲法 日本現代史② 牧原憲夫

■民権と憲法 シリーズ日本現代史② 牧原憲夫 岩波新書 20120423

 自由民権運動は、強権的な藩閥政府に対抗し敗れた進歩派勢力という印象が強い。本書は、民権派と民衆が一体になって明治政府に対抗したという従来の二極対立の構図を批判的に検証し、必ずしも「民衆の味方の民主主義者」とは言えない自由民権運動像を示している。
 江戸時代、庶民には「兵士に取られない権利」があり、職人・小商人には幕府や藩からの直接課税はほとんどなかった。明治になって徴兵と租税を課せられることに不満が募っていた。
 民権派は、政府に議会開設を要求するとともに、国家の運命に自分の運命を重ねる意識を民衆にもたせようとした。1880年前後の時期、「国民」意識や「天皇は国民の味方」という観念を浸透させたのは政府よりむしろ民権運動の側だった。アイヌや沖縄、アジアへの差別意識も政権側と共有していた。
 明治政府は、経済の自由化を徹底的に推し進めた。ほぼすべての耕作地を農民の私有地とした地租改正は、封建領主がそのまま大地主に転じた西欧の市民革命より遥かに徹底した土地改革だった。
 江戸時代、借金を庄屋が立て替えるといった「一村団結の精神」があり乞食は少なかった。だが地租改正で共有地は国有地や有力農民の私有地とされた。借金を返せない農民から土地を取りあげることも「自由」になった。大地主と貧農の格差が広がり、小作農家は製糸女工の供給源となり、小作料を蓄積した大地主は産業資金の供給者となった。
 民権派の経済政策は国家の関与をきらう極端な自由主義だったから、米価引き下げや借金棒引きを求めた民衆の運動は、営業の自由や財産権を侵害する行為だと非難した。ここでも政府と価値観を共有していた。
 1870年代後半からの十数年間は、政府と民権運動がきびしく対立した「政治の季節」だったが、同時に、経済や学校、公衆衛生などの近代的な制度が整備された時代だった。唱歌や隊列運動、万歳などを通して国民的一体感の創出に努め、学歴主義の基礎をつくった森有札文部大臣は、福沢諭吉とならんで近代国民国家の特質を認識していた。政府と民権運動は政治的には対立しながら、近代国民国家づくりという意味では車の両輪の役割を果たしていた。

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▽v ほぼすべての耕作地を農民の私有地と認めた地租改正は、広大な直営地をもつ封建領主がそのまま大地主に転化できた西欧の市民革命より遥かに徹底した土地改革だった。 民権運動は、政府に議会開設を要求するとともに、国家の運命に自分の運命をかさねる「わが国」意識、「国民」意識(ナショナルアイデンティティ)を民衆にもたせようとする運動だった。〓
米価引き下げを要求する運動や、借金棒引きを求めた民衆の運動を、営業の自由や財産権を侵害する「社会党」類似の行為と非難した。
民権派と民衆が一体になって明治政府に対抗したという、かつて研究者によって描かれた二極対立の構図はリアリティに乏しい。
▽15 1880年、集会条例。請願の拒絶や政府の強硬姿勢は、天皇への不信すら生みだし始めた。
▽18 被治者が「政治のあり方」を正面から議論し行動で示した歴史上はじめての「文化革命」。しかし、参加者は、地域指導者層のごく一部に限られていた。
福沢諭吉 「平等」を力説し「学問」をすすめたのは、民衆の「客分」意識を払拭し、「国民」としての自覚、国家のために命を棄てる覚悟をもたせるためだった。
▽22 人々は兵役をのがれようと工夫を凝らす。竹橋事件の翌年には、徴兵可能な者は、徴兵対象者の4%になってしまった。……江戸時代は、被治者は兵農分離制で「兵士に取られない権利」を認められた。職人・小商人には幕府や藩からの直接課税はほとんどなかった。明治になって徴兵と租税を課せられることに不満があった。
▽29 1880年前後の時期、「国民」という意識や「天皇は国民の味方だ」という観念を浸透させるうえで一定の影響力を発揮したのは、政府よりもむしろ民権運動の側だった。
▽33 未熟な天皇 まだ天皇が絶対ではなかった。
▽37 天皇の裁断で事態を打開したのは征韓論をめぐる明治6年の政変ぐらいだったが、閣議が紛糾し「ご裁断」に依存せざるを得ない事態がくりかえされるとともに、天皇の意思を無視して重要な政策決定するのはむずかしくなった。
▽48 1882年、軍人勅諭。「上官の命を承ること、実は直に朕が命を承る義なりと心得よ」の一節が後年大きな威力を発揮したことはよく知られている。
▽58 明治14年の政変が転換点。薩長の権力独占を実現した政府。不景気が自由党の力をそいだ。
▽66 経営基盤が安定しなかった三井が、三池炭鉱の払い下げで本格的な活動をはじめたように、松方の経済政策の基調は、政商を中心とした大資本の育成にあった。
▽70 インドは、少年・女子の深夜業が禁止された。日本では安い農村女性労働者を集め、夜業割増金も廃止した結果、インド紡績業との競争に勝てた.「インド以下的賃金」という言葉は、たんなる比喩ではなかった。
▽79 江戸時代の村に乞食が少なかったのは、村の土地を他村に売却するのを恥じとし、借金を庄屋が立て替えるといった「一村団結の精神」があったからだ、と。年貢を村単位で納入する村請制が生みだしたものだった。しかし地租改正で、共有地が国有地に編入されたり、有力農民の私有地に取り込まれた。その結果、下草や薪をとることもむずかしくなり……借金を返せない農民から土地を取りあげたり、高率の小作料を要求することも「自由」になった。大地主が生まれるのはこれ以後。やがて小作農家は紡績・製糸女工の供給源となり、小作料を蓄積した大地主は、産業資金の供給者となった。近代地主制は、資本主義を労働・資本の両面から支えて行く不可欠のファクターだった.
▽81 足尾銅山 全国の産銅量の39%をしめた。最先端の鉱山だった。
▽86 コレラなどの流行 隔離病棟は家族の出入りも制限され、患者が生きて還ってくることはほとんどなかった。貧民や被差別部落が「不潔」ゆえに差別、排斥されるのはこれ以後だ
▽88 内務省は、警察の強制ではなく市町村による「衛生自治」を強調しはじめる。それは一面で、「不潔」な人や場所を「社会の衛生・安全を脅かす存在」とみなし、「自発的」に排除していく傾向を助長した。「コレラの温床」とみなされたスラムが取り潰されたり、貧民や被差別部落が「不潔」ゆえに差別、排斥されるのはこれ以後である。
「不潔」とともにやり玉にあがったのが「怠惰」だった。
……1880年代後半には命令されなくても集団のなかで自発的、主体的に規律正しい労働のできる者だけが「勤勉」の名に値する、という文明国基準が人々を律しはじめていた。
地域や職場で「不潔」「怠け者」と言われぬように自らを律し、過酷な労働条件や高率の小作料に耐えながら、生活水準の向上を求めて自己と家族のために懸命に働きつづけなければならない「近代」という時代の本格的な幕開け。(〓プロテスタントのかわりに生活を律したのは……〓)
▽97 植木枝盛作といわれる「民権かぞえ歌」は「亜細亜は半開化 コノ悲しさよ」「日本は亜細亜の灯明台 消えては東洋が闇になる」。「亜細亜東方の保護は我責任なり」と強調した福沢と変わりなかった。
樺太・千島交換条約。樺太アイヌは、漁業のできる宗谷への移住を希望したが、内陸で開墾するよう強制された。英語・ロシア語を話せてロシア正教を捨てない千島列島北端のアイヌは、色丹に強制的に移住させた。
▽103 北海道開拓に、囚人労働力。シベリア抑留のように多くの囚人が死亡する。明治政府の人間観を端的に示す。
▽106 琉球併合 琉球王国は二百数十年間、薩摩藩の武力支配を受けながら中国にも朝貢をつづける「両属」関係を維持できた。それを解体させたのが明治政府。武力を背景に沖縄県設置と首里城明け渡しを宣告。国王一族を東京に移した……
▽111 1903年の大阪博覧会で、中国人・朝鮮人・アイヌ・台湾先住民族・琉球人などが「学術人類館」に「展示」されたように、沖縄県人への差別意識は根深かった。1910年代には「方言札」を首にかけて立たされる光景が広くみられた。(島根でも〓)民権家の論評は、アイヌの場合と同じく基本的に明治政府と大差なかった。
▽115 民権派も、朝鮮を自立できない弱小国と見下していた。
1884年、急進開化派がクーデターをおこしたが、清国軍の反撃で日本の駐屯軍も撃破された。民衆の暴動で日本の軍人・公使館員ら13人、居留民27人が殺害された……新聞各紙はいっせいに清国を非難しナショナリズムが噴出した。「自由新聞」も……中国全土を武力で「蹂躙」すべし、と絶叫……。(民権派の新聞がむしろ好戦的にナショナリズムをあおった事実)
▽121 「脱亜論」をはじめとする福沢や民権派の主張は基本的に東アジアの植民地化をさらに押し進めようとするものだった。だが、中江兆民は、非武装・小国主義を語り、隣国の内政に関与して兵を挙げるべきではないと論じた。吉岡弘毅や植木枝盛も。
これらの論説が存在した以上、福沢や民権派の文明論・対外論を「時代の制約」を理由に情状酌量するわけにはいかないだろう。
▽132 学校に進学するのは大半が士族。この時期の中高等教育は「士族のための教育授産」という性格をもっていた。
慶応義塾ですら、士族生徒の減少で経営危機になった。富裕な商人・農民の子弟が中高等教育にむかいはじめるのは松方デフレ後の企業設立ブームがおこる80年代後半から。
▽134 初代文部大臣の森有札が自由な学校教育のあり方を転換させた。
▽140 1886年の師範学校令。師範学校には、陸軍士官学校と同様の全寮制と兵式体操が導入され、自由だった衣服も制服・制帽・靴の使用が義務づけられた。……軍隊的規律を身につけた教師だけが正教員となる時代がはじまった。
▽143 唱歌は国楽。 蛍の光の4番は、千島列島も沖縄も日本の領土であり、八洲の最先端で勇ましく兵役についてほしい、という内容をうたう。「蝶々」も「花から花へ」の部分が「栄えある御代に」だった。
▽146 体操や唱歌教育。人間としての心身の調和を重視した学校体操から、集団的規律のための兵式体操に転換。唱歌も国家主義的色彩を強めた。……儒教的(元田ら)と近代的(森)の2つの国家主義が競合しながら、アメリカ流の自由主義的な教育観を押さえ込んでいった。
▽156 夫の父母が同居する拡大家族の「家」制度のねらいは「老親介護」にあると言っても過言ではなかった。日本の近代家族は、「家庭」家族すなわち西欧に共通する家父長制と、日本に特徴的な家制度、「家」家族との複合として存在した。(西川祐子)
「複合」の結果、離婚率が急減する。妻の離婚請求権を制限した明治民法がその原因のひとつだが、それだけじゃない。幕末から明治期の庶民の大半は共働きだった。別れたいと思えば簡単に離婚できた。「良妻賢母」の専業主婦には経済力がなく、「母親がいなければ子どもがかわいそう」という言葉が離婚をあきらめさせる切り札になった。離婚率の低下がはじまった1900年代は、こうした「愛情家族」の言説が「家」制度とあいまって影響力をもちはじめた時期だった。
▽161 元田らの親政運動や天皇に直結した岩倉の言動に悩まされて来た伊藤にとって……
▽171 1888年に市制・町村制、90年に府県制・郡制を公布。市町村を「完全なる自治の制」にすると政府は強調したが、それは、政府に頼らず地域社会の諸問題を自力で解決するとともに、徴兵・教育などの委任事務を自発的に担って「国家統御の実を挙ぐる」ことを意味した。……さらに、「自治」には財政の安定も不可欠だとして、町村合併を押し進めた。村の数は86年12月現在は7万1500町村あったのが、89年末には1万5820町村に減少した。
▽179 天皇。存在をPRするため全国を巡る。「天皇を見せる」のが眼目だから、盛装や土下座も不要とされた。「男も女も……ガヤガヤ騒ぎ立ち」と赤子に乳を含ませながらの見物さえできた。お祭り気分の見物人も含め、巡行が広汎な民衆に天皇の存在を実感させたことはまちがいなかった。
▽181 廃仏毀釈で打撃を受けた寺院との関係改善……江戸時代の「お伊勢さん」は、遊興の場でもあり、外宮と内宮のあいだの古市遊廓には1000人を超える遊女がいた。しかし遊女屋は取り払われ、広大な神域がつくられた。庶民のお伊勢さんから皇祖天照大神をまつる聖地への大変身だった。……陵墓も次々「確定」される。
▽184 現在行われている皇室儀礼の多くも、西洋の王室儀礼を参照しながらこの時期に考案された。近代の天皇文化は、西洋文明と立憲制・議会制に対抗するために、ヨーロッパ・スタンダードに準拠しつつ独自性を案出する必要から創りだされた「新しい伝統」だった。
▽189 天皇制と立憲制をいかに接合するか、それが十数年間にわたる政治闘争の争点だった。形式的にせよ、国民の権利・自由を保障し、天皇大権に一定の制限を加えないかぎり、西洋諸国から近代的な憲法と認められず、国内の政治的安定も確保できない、ということを天皇や保守派も認めるほかなかった。
……軍隊に関する統帥・編制、宣戦講和、条約締結などの天皇大権が憲法に明記され、教育に関しては憲法に規定すらないまま、議会の関与できない勅令で処理された。軍人勅諭とおなじ形式で出された「教育に関する勅語」がそれを端的に示していた。
▽196 憲法発布の「憲法祭」は、日の丸・君が代・御真影・万歳という国民統合の「4点セット」がはじめて勢ぞろいした日。1880年代には存在しなかった政治文化、民衆を動員した近代的国家祭典の登場を意味した。
▽202 近代は、国民国家と資本主義が2大構成要素といわれるが……1870年代後半からの十数年間は、政府と民権運動がきびしく対立した「政治の季節」だったが、同時に、経済や学校、公衆衛生などの近代的な「制度」が整備された時代だった。唱歌や隊列運動、万歳などを通して国民的一体感の創出に努めるとともに学歴主義の基礎をつくった森有札文部大臣こそ、福沢諭吉とならんで、近代国民国家の特質を明確に認識していた政治家だった。(国家主義者、というだけではない森への評価)
▽207 色川大吉「自由民権」

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