■戦後日本の思想 久野収、鶴見俊輔、藤田省二 岩波現代文庫 20120413
埴谷雄高らの「近代文学グループ」、進歩派だが共産党路線にがんじがらめになってしまった「民主主義科学者協会」、反共と穏健保守のあいだで揺れる「心」グループ、大衆のなかで生まれた「生活綴り方・サークル運動」、大塚久雄・清水幾太郎・丸山真男らの社会科学者……といった形に分類し、40代後半の久野、30代の鶴見と藤田が論じる。
生活綴り方の章がとくにおもしろい。和製フレイレ思想ともいえる、状況を切りひらく進歩思想という側面しか私は見ていなかったが、所与の状況を肯定的にしかとらえられない、という欠点があり、「純粋ファシズム」とも通じるという。逆に言えば、純粋ファシズムに学ぶべき点が多いのだ。ファシズムの長所さえも取りあげる「不純さ」が、この対談の柔軟さであり魅力だ。
□近代文学グループ
地球とか宇宙という空間意識をもつことで、翼賛運動や戦後のマルクス主義のナショナリズムに足をとられない視点ができた。芸術至上主義を主張するのは、さまざまな文化価値が、政治的価値から独立していない風土に対する抵抗であり、天皇制にも共産主義者にも抵抗するものだった。
□反体制の思想運動 民主主義科学者協会
日本のマルクス主義にはすべて経済的土台から説明し、世界中のことを何でも解決しようという発想があった。天皇制と対決する異端者である間は、自分の内面の統一した世界をつくることで抵抗する力になったが、戦後主流になると、久野や鶴見らへの批判も含めて、多元主義の存在を否定することになった。
早くに体系的な世界像を作ってしまったから、人格を完結するための技術論が生み出されない。この点、体制改良の力になったファシズムの側の産業組合主義に負けていた。
全部を見通すただ一つの立場しかないから、国民体験全部をまとめるような同時代史はかけない。そうしたあり方に対抗するものとして生活綴り方的な方法が出てきた。
□日本の保守主義「心」グループ
右のファシズムも、左の革命主義も嫌悪し、自分たちの立場を「自由主義」と意識している。だが 自由主義がもつ戦闘的な面はなく、大正デモクラシーでも天皇機関説問題でも行動しなかった。反動右翼とちがい、個人主体を認め、その相互の具体的な結びつきの仕方、体験の結びつきの理解を深める方法が伝統だと理解している。
対談では、柳田国男や柳宗悦の、教養主義と実証科学を統一する流れを評価する。日本型共同体イデオロギーの原型(古神道)を民俗学的・歴史学的に明らかにしようとする柳田の努力は、危機ごとに「日本浪漫派」的発想が現れて理性の立場を危うくすることを防ぐ武器になりうるとする。柳田は、今は使わなくてもいつか「型」に頼らなければならないかもしれないと考え、型の保存の役を受け持つことで、自分に保守主義者の役をふっているという。
また、戦争末期にすでに「文化国家」の理念をもっていたことを評価し、文化国家の理念を忘れて平和憲法ばかり主張する反体制勢力(進歩派)を批判する。そのうえで、政治経済闘争を拡大再生産するには文化や豊かな心情が必要であり、そんな心情をもつ「全体的人間」を育てる役割をサークル運動が果たそうとしているとみる。
□大衆の思想 生活綴り方・サークル運動
戦前の生活綴り方運動は国語教育の新しい方法として追求された。戦後は学級という集団の人間関係を変える方法として用いられた。その後、大人の生活綴り方運動が生まれ、映画や写真を含めた記録芸術の運動に育ち、サークル運動の哲学となっていった。
「近代文学」や「民科」「心」などより少し遅れ、三者が立脚する「近代」と日本の「土」との関係を考慮する視点を提示した。
人間の文明に関する普遍的な原理を日本の特殊条件の中から生み出すことを課題とした。家がイヤだから村全体の立場、それもイヤだから日本全体の立場、都会に行ってもイヤだからパリへ……という志向に反対し、「村を育てる学力」という方向を目指す。教科の論理を上から押しつける文部省式ではなく、生活実感から出発する、パウロ・フレイレ的な教育方法だ。さらに、作文という形式故にインテリ気質の人が中心になってしまう欠点を克服するため、映画や写真を含めた記録芸術運動につながっていく。
一方で弱点もある。
状況の底にある善意を受容することから始めるから、自然から与えられる状況も、社会から与えられる状況も区別せず受け入れる。日本の民族全体を突き放す視点が成立しないから、最後には日本的特殊そのものに流され、批判的な視点を失ってしまう。
満州事変前後、ファシズムを草の根で支えた農本主義の運動や、産業組合主義と結びついた運動は、郷土サークルの再建や誠実主義的人間の形成、官僚制を前提にした立身出世主義の否定を目指していた。生活綴り方的な運動は、ファシズム体制を下から支えた郷土主義運動と同じ面をもっていた。
綴り方運動が農村で成果をあげたのに対し、都市部(たとえば朝日新聞の「ひととき」)では短歌や俳句の代用品のようになってしまった。
農村では自然条件の微妙な差があるから、綴り方によって仕事の組織化を追求することで、合理的な思考や科学的な精神が生じてくる。一方の都市では、生産と消費の循環が断ち切られ、個性的な行動が日常の中に少なくなってしまうのだ。
では、都市部の大人の生活綴り方はどうすれば発展できるのか。
都会では自己の生活のルーティンを破るような行動にでなければ自我が共同体化され、「書く意味」が失われていく。惰性からの離脱をはかる行動があって、その途上で、期待を裏切る偶発的な実感があって、それを記録することが大切だという。サルトルの実存主義に近い考え方だろうか。(いまここネットは生活綴り方?〓)
筆者らは生活綴り方運動を、原始共同体を再発掘する復古思想であり、近代以前のものの近代的な復活であると位置づける。無着が禅、東井が親鸞、山代巴が安芸門徒であることは偶然ではなく、生活綴り方は、状況を全体として肯定し受け入れる日本の伝統に根ざした思想なのだという。
フレイレの思想とのちがい、というより、実はフレイレの思想じたい、伝統復古の一面を持っているのかもしれないと思った。
□社会科学者の思想 大塚久雄・清水幾太郎・丸山真男
ウェーバーから、イデアル・ディプス(理想型=仮説)の作り方を学び、理想型をつくることで、論理的に精緻な方法論が組まれた。ごちゃまぜになっていた理論科学と歴史科学と政策科学を整理し直す役割を果たした。科学のなかに目的や価値の考え方を押し込めるマルクス主義を批判した。客観的で精緻であるぶん素人から見るとおもしろみに欠けるるとも言える。
学者が原水禁運動に参加するとき、放射能についての社会科学者の知識は主婦連のメンバーと同じなのに、権威をかさにきる傾向がある。丸山や大塚はそういうことを非常に嫌った。
学問に対する謙虚さと純粋さが特徴だ。
一方、純粋さ故の危うさも指摘する。国体明徴問題で美濃部が弾劾されたとき、学生・卒業生はだれも美濃部の援軍に立たなかった。そういう知識人の群れが再生産されるかもしれない、と懸念する。実際、学問の砦に閉じこもる知識人集団ができあがってしまった。3人の先見の明には驚かされる。
今西錦司や梅棹忠夫のグループの特徴は、ほかと異なりアジア諸地域のなかで比較することや、東大の社会科学の人やジャーナリスティックな人たちと違い、「モノをつくる能力を持った人々」という点にあるという。アカデミズム、ジャーナリズムと区別してテクノロジズム(技術主義)と位置づけられる。反体制運動とは重ならず、社会工学的な考え方をするから、道徳中心の社会科学を破っていく一つの突破口があると評価する。
□戦争体験の思想的意味 知識人と大衆
自分を血を患者にやる元軍医の自己犠牲は、日本の純正ファシストのエネルギーを示している。生体解剖する中国人に「敬礼」する憎々しいまでの偽善も、日本武士道の表徴だという。プラスの面とマイナス面は盾の両面なのだ。
純正ファシズム(便乗的でないファシズム)には、おまえも倒れればおれも倒れる、という共同体意識の最良の部分も含まれている。「人のため」という意識がある。
だが、共同体主義の満場一致という思考にエリートも含めてどっぷり浸かっていたことが、「たてまえ」で押しまくる論理になっていく。「条件つきの賛成はすべて裏切りの一歩手前」という考え方になる。本来、限定なしの賛成は考えない賛成であり、限定付きの賛成のほうが考えて賛成していると考えるべきなのだが……。
戦争時代に子どもの時をすごした人は、強制された宗教的状況に生き、死ぬことが実感として持たれるから、自分を越えた普遍的な理念が問題にされ、欲望に固執することがなくなるという。私らの親の世代はそうだったのだろうか。絶対的な平和主義もそうした体験から導きだされていたのかもしれない。その体験が薄れ、いままた「欲望ナチュラリズム」に押し流されるようになってしまったのだろう。
戦争体験についても梅棹忠夫は独自の反応を示している。引き揚げ船で、重役夫人までが平然と働いているのを見て、日本にはデモクラシーがあるから重役夫人も長屋のおかみさんと同じ心境にすぐ帰ることができる……と考え、敗戦直後でも日本株を買い続けた。
===========抜粋など===============
□近代文学グループ
▽10 地球とか宇宙という空間意識をもつことで戦争反対の立場が打ち出される。戦争を通じて革命を起こすというマルクス主義の公式を超える。翼賛運動や戦後のマルクス主義がとったナショナリズムに足をとられない視点ができている。
▽14 吉野源三郎は、治安維持法にふれて投じられて、そのあとで踏みとどまる形で「君たちはどう生きるか」を書いた。天皇制に対する屈服ではなく、実はその逆。
・・・ひとつは翼賛運動に協力していた連中に対する被害妄想、もうひとつは共産党指導部に対する被害妄想。
▽18 日本社会には「永遠感」がない。過去の任意の一点と任意にご都合的に結びつけてしまう。過去のものの非脈絡的な思い出、思い出の哲学になる。
永遠の相のもとにみるという視点は、日本の民衆的な世界観にはない。インド教や仏教にはあるが、日本の宗教にはない。
▽34 芸術至上主義を主張するのは、さまざまな文化価値、倫理価値が、政治的価値から独立していない日本の風土に対する抵抗。天皇制にも、共産主義者にも抵抗するものだった。
▽36 キリスト教のような超越的人格神宗教をもたない日本の精神風土のなかでは、職業の倫理は、伝統的な家風を意味する家業の意識しかなかった。都市化によって家が分散すると、職業をうちから支えて全社会の精神構造にハリを与え、産業の能率をも高める倫理がなくなる。
(プロテスタントがない。でも儒教をそれと見立てる見方も?〓)
明治以降、その矛盾を克服しようと、定着の倫理を教え込んだ。強度への精神的定着。こうして職業倫理の不足は農本主義的定着倫理で補われてきた。その結果、わが国で「ひと筋の道」を自分の中にもって原理的に執念深く生きる人物の多くは農本主義的色彩をもつ。共産主義者も。
□反体制の思想運動 民主主義科学者協会
風早八十二、古在由重らが指導的。
▽52 日本のマルクス主義には、必要以上に強い使命意識があって、世界中のことを何でも解決しようという発想がある。学問の上ではスペシャリストの解消という現象につながる。すべて経済的土台から説き起こすから・・・天皇制と対決する異端者である間は、自分の内面の統一した世界をつくることで、圧迫に耐える力になったが、戦後、運動を組織することになったとたんに、運動におけるプルーラリズム(多元主義)の存在というものを絶っていく、断種的発想の原因になった。全世界の救済をさまたげる意見や哲学が二度と出てこないように、根絶しなければならない、と。西田哲学や田辺哲学、久野や鶴見への批判も断種の発想。
▽57 民主主義科学という言葉は、科学の普遍性をぜんぜん自覚していない言葉。日本の哲学者は、形式論理学者がいない。ほとんど全部弁証法主義者。
「民主主義科学」からさらに「国民科学」と言い出した。科学者の団体であることをやめて、政治運動の団体になった。
▽64 民科は、早くに体系的な世界像を作ってしまったから、技術論が発展しなかった。人格を完結していくための技術としての暇な時間の使用法が生み出されない。技術は生産技術に限られる。この点は、日本のファシズムを作り上げた側のほうがはるかに進んでいる。〓産業組合主義が体制改良の力になり得たのは、人間間の交流技術を問題にしたから。
▽67 秀才が昭和初期からのマルクス主義者に。優等生だから、はじめから正しい理論があると思っている。だれが優性種の先生かを発見すれば、百点の答案が書けるという優等生の原哲学によって支えられている(〓鶴見らしい、でもたしかにそういうタイプが多い)
▽70 マルクス主義は、科学としての面、政治的イデオロギーとしての面、世界観としての面の3つを分けながら統一するところに、他の思想流派とちがう特色がある。散文的な面、劇的な面、実感的な面と言い換えてもよい。
自分の認識の部分性を強く自覚していない場合には、全体的把握へのあこがれは出てこないはずなのに、そうじゃない。天皇制が全体的表象なんで、それを引き継いでいるから、のっけから全体把握をやっちゃう。
▽75 プラグマティズムなどと比べるとマルクス主義は志が一番高い。いぇにかえってもっとも不誠実になりやすい。
▽79 理論も実践もやっている政党の指導者が一番えらいということになる。
▽86 民科の方法では、ただ一つの絵しかない。全部を見通すただ一つの立場とその立場から見られた1枚の絵がある。本当の国民体験全部を複合するような同時代史はかけない。それに対立するものとして、生活綴り方的な方法が出てくる。
▽95 自らの転向体験にふれ、自らの転向声明書まで引用する思想家を鶴見は評価。過去をしっかり背負いつづける大切さ。
▽97 羽仁五郎 新聞をよく読め。井上清の現代史研究は、ほとんど朝日新聞だけを材料に使って日本歴史を書いたという方向にいく。
いま生きていることとの関係で、歴史をとらえていく。
▽マルクス主義と民科の、思想団体としての実践を評価し「大学の研究室だけでに研究者が残って、給料もらって研究しているというふうな状態よりもずっと進んでいる。今の日本のアカデミズムに比べればずっと高い段階をめざしている」と。
□日本の保守主義「心」グループ
オールドリベラリスト
▽102 右の神懸かり主義に対する嫌悪、同時に、左の進歩主義、革命主義に対しても嫌悪。そのような自分たちの立場を自由主義だと意識している。が、保守主義の条件を満たしている面のほうが大きい。
自由主義は、戦闘的な一面をもつが、「心」グループは、ファシストの狂信からも、それに対する正面的抵抗からも超越してしまう。闘い、闘いというのは、大人のいうことではないと考える。
国家を、歴史とか伝統に基づく共同体として規定する。
大正デモクラシーも天皇機関説問題も、自由主義者ならば闘う以外にない。この人たちは、好意的支持、あるいは無関心以上には出ていない。
戦争責任の自覚は、左翼への寛容の方向へ。左翼への反感は、反動右翼との合流の方向へ傾く。しかし根本理念は、政治経済抜きの文化国家の理念を持ち続けている。
▽113 伝統を全体主義的に考え、個人をその中に埋没させる反動右翼とちがい、個人主体を認め、その相互の具体的な結びつきの仕方、体験の結びつきの理解を深める方法が伝統なんだ、とする立場も。
▽116 このグループの最終的よりどころは、一方では白樺派の芸術主義、他方では漱石門下などの人格主義に結集している哲学主義。理論を軽視する「教養主義」
▽120 分裂や対立は悪だ、超対立、超葛藤が善だとする。ドイツのファシズム化の思想史を調べると、生の哲学及び実存主義の人間理解の立場が、社会科学的法則化認識の立場から何一つ学ばず、後者も前者から学ばなかったためにファシズムのニセ人間理解とニセ法則化認識の野合にしてやられた。
柳田や柳に出ている、教養主義と実証科学を統一する方法からもうんと学ばねばならない。柳田が日本型共同体イデオロギーの原型(古神道)を民俗学的、歴史学的にありのままの姿で明らかにしようとする努力の成果にも、注目するべき。この原型を明らかにしなければ、危機になればくりかえし「日本浪漫派」的発想が出現して、理性の立場をくいつくすだろう〓〓
▽122 前近代的なもの、近代的なもの、超近代的なものにそれぞれ、しっかりした価値評価を持ち、自分の実践的スタイルの中にその価値評価を生かしているような古風な、モダンな、ウルトラモダンな民主主義者がでてきて、相互に協力しあうこと。これがタテの民主戦線。ヨコの共同しか考えられない現状を直す必要がある。
▽124 「心」同人は日本の支配層と世界地図を共有している。幣原や吉田茂まで。
維新建設者の2代目が多い。幕末-明治型の保守主義者は非常に広い反応力をもっていて、自分の知っている定石の型が広い。「心」のなかでは柳田国男が一番いろいろな型を知っている。いまは使わなくても、そのうちにこの型にたよらなければならないかもしれないという考え方があって、型の保存の役をうけもつということで、自分に保守主義者の役をふっている〓〓(ブリコラージュ、今必要とされる型の保存)
「心」の主流は、古代から近代にわたる文化に関しての非常に大きい商品目録がない。だから歴史の中の大きな循環の役割というのがわからない。
▽128 政治的民主主義は、反対派が有力であればあるだけ有力なんだという考えでなくて、日本型共同体は、そもそも相手方があるのは好ましくない。少数派、反対派はその資格のままで全体の進歩をすすめているという考えが確立していれば、天皇制は瓦解しなかった。
▽135 鶴見 われわれ戦後派は、前に屈辱があるわけで、逆コースが来た時に、今度こそ行為によって実証してやろう、この前にできなかったから、2度目の屈辱の機会を与えられることが、われわれ自身にとってはありがたい。今度こそ何らかの仕方で実証できるんだ、という突っ込み方があるんです。(〓戦争体験の重み)
(柳田国男や、柳宗悦を評価〓)
▽139 戦争末期に「文化国家」の理念をもっていたことを評価。反体制勢力のほうは、文化国家の理念は忘れて、平和憲法だけを進めようとしている。「進歩派はお題目みたいなものを繰り返し言うが、論文だって一本調子じゃないか。スローガンばかりだ」という批判は当たっている。
本当の意味での政治経済闘争を拡大再生産していく力は、文化や豊かな心情というもの。ここで、組合運動一本の運動にたいして、サークル運動が出て来る。今後の闘いの担い手である大衆の1人1人が、豊かな人間にならなければならない。その場合にのみ、生き生きしたスローガンが出て来る。
▽143 15年たっても革命的条件が来ないわけだから、そういうものを拡大再生産させるには「心」とはちがう意味で、新しい全体的人間が労働階級のなかに用意されることが必要だ。
▽147 柳田国男、柳宗悦、鈴木大拙。鈴木大拙は、きょう世界は終わる、といわれても動じないというところを目指している。
□大衆の思想 生活綴り方・サークル運動
▽156 生活綴り方運動は大正2年以来続いている。戦前では、芦田恵之助、鈴木三重吉、小砂丘忠義、野村芳兵衛、国分一太郎という人らが理論家・実践指導者。戦前は、国語教育の新しい方法として追求された。戦後、拡大されて、学級という集団の人間関係をかえてゆく方法として用いる。このときは子どもに限られていたが、、更に広げられて、大人の生活綴り方運動、さらに、映画や写真をふくめての記録芸術の運動になっていき、それが更にサークル運動の哲学としてひろく大衆運動の中に入って行った。
無着の「山びこ学校」(51年)、小西健二郎の「学級革命」(1955)、東井義雄の「村を育てる学力」(57年)〓。
生活綴り方運動は、「近代文学」とか「民科」とか「心」とかの戦後の流行よりおくれて、三者の近代化方式への批判的視点として注目されてきた。「近代」と日本の「土」との関係を考慮する視点として問題にされた。
人間の文明に関する普遍的な原理を、日本の特殊条件の中から生み出すことを課題とした。特殊から普遍を生むという問題のたてかた。当然、日本的な「特殊」のひずみがでてきやすい、という特有の欠点も出て来る。だから、生活綴り方においては、日本文化に対する絶えざる反省が必要になってくる。それは「民科」とは逆。
▽160 うちがいやだから村全体の立場、村がいやだから日本全体の立場、都会にいってもまだいやだからパリへ……という考え方に生活綴り方は反対する。「村を育てる学力」という方向に行かなければ、と考える。どんなに古いものが現在の状況の中に生きているとしても、それが生きているのは必ず何か理由があるんだ--ほとんどヘーゲルと同じになってしまう。
第3の特徴は無競争主義。助け合いをする無競争の教育を考える。
東井のつくった文集「はぶがおか」 子どもを愛するというのは日本人の特性で、日本は子どもの天国ですが、子ども主義という日本思想の特徴を軸として村全体のサークル化をはかっていく。
……生活綴り方運動全体が、日本の思想界を変えて行ったと思われることは、指導者意識のないリーダーをつくり出すことに成功したこと。無着も東井も小西も沢井余志郎、山代巴も、下位集団から絶対に抜けない。
▽166 実感から出発するという教育方法。(フレイレの識字)今までの文部省式では、子どもの生活の論理を大切にしないで、教科の論理でぐいぐい教えて行くから、村の子どもの学力は低くなる。生活の論理に即して教えて行けば、本当の意味の学力は高まっていく……と。
▽169 生活綴り方運動は、工場の中でやっても、やせたタイプの人ばっかり集める。労働者でもインテリ気質の人……運動が非常に盛んになっても、ある種の人間だけしか結集できない。
思想を必ずしも文章とだけ結びつけて考えず、あらゆるコミュニケーション・ルートと結びつけて考える方向は、やがては映画や写真をふくめての記録芸術運動の理念と結びつく。
▽171 日常的な関心とひっかからない種類の問題についてはどうするか。正統的な生活綴り方運動では、実感主義一本で、人類のこれまでの実感にくみこまれていない、普遍的な原理の体系という理念はない。
弱点
善意と受容の哲学。存在の底に働いている善意を信じる。さらに進むと、自然から与えられる状況も、社会から与えられる状況も両方とも区別されずに受け入れる。政府の善意も信じていく……東井は、自分は闘い主義には反対だ。自分はまず子どもの味方だ。子どもの親たちをも敵にしては勝てないということ、また村をも敵にしては勝てないということ……と広がり、状況と連続的なものになっていく。終戦前の権力者の意志が8.15でつぶされる。その次に権力と正面からたたかう純粋進歩勢力が出てきてつぶされる。その次に第3の視点として、生活綴り方運動的なものが出てくる理由ともなる。
また、東井先生のやり方は、熱烈なファシストからも重んじられる立場。
……日本の民族全体を、あるいは現在の人間全体を、全体としてつっぱなす視点が成立しない。特殊から普遍を生む方向をめざしてはいるけれど、最後には日本的特殊そのものに流されてしまって、特殊というものを批判できない。
▽174 大人の生活記録運動沢井余志郎というリーダーになって、紡績女工がお母さんのことを調べるという仕方で、現代史を書き直す仕事。影山三郎の努力でできた「朝日」の「ひととき」欄の意義も〓。
▽178 あまりにも多く受動的な感情の記録がなされてきた。そのために短歌俳句的になってきた。朝日の「ひととき」の大部分はそう。〓 感情が煮詰まった場合には、何かに向かって行動を突き動かしていく。その場合には感情そのものの中に行動に向かう強い姿勢がある。そういう生活綴り方は実に少ない。行動の意味から離れた記録が多くなっている。和歌とか俳句の代用品になっている。(「いま・ここ」でつづる意味=現代の生活綴り方?〓)
▽181 都市部の生活綴り方は、小説化への志向が強い。生活記録も画一的。都市化すると生活自体が規格化されて、個性的な行動が日常の中に非常に少なくなってくるから。(生産要素の少ない消費の場である都会の貧しさ〓) 農村のように自然条件の微妙な差によって、同じ仕事でも仕方を違えていったりする場合には、仕事の差をどう組織するかという点で、合理的な思考、科学的な精神が、生活綴り方運動自体のなかに生まれてくる。農村サークルは、文学的効果はあげるが、同時に合理的な探求精神が必ず結びつく。
都会は、生産と消費の循環が断ち切られている。だから、生産場面だけ、とか、消費場面だけ書かざるをえない。田舎は生産と消費の循環がある上に、その循環はそれぞれの家によって違う。
▽183 満州事変前後の田沢義輔、加藤完治、山崎延吉らの(ファシズムを支えた)農本主義の運動。主として産業組合主義と結びついた運動が、郷土サークルの再建、誠実主義的人間の形成、官僚制にみられる立身出世主義の否定を目指している。生活綴り方的な運動の仕方が、ファシズム体制を下から支えて行った郷土主義運動とある意味で同じ面をもっている。
▽185 農村では生活の中で生き、記録することで立派な綴り方が書けるが、都会では自己の生活のルーティンをやぶるような、行動にでなければ、「書く意味」がだんだん失われる。(いまここネット、自分の言葉を失う記者〓)
▽186 生活綴り方運動家は、文章というより文章を生んだ状況そのものとしてつかむ。問題によってつかむんじゃなくて、問題状況によってつかむ。この運動が一つの思想流派として日本のアカデミックな哲学よりもはるかに高い物になりえた秘密はここにある。だが、状況を改作していくとう面になると、徹底的に状況に対して譲らないで対峙していく方法としては弱い。
▽192 都会の小ブルジョアが一生懸命「ひととき」に投書するけど、必ずしも成果は上がっていない。東井氏にしても無着氏にしても僻地の小学校だから問題が深刻。生活綴り方運動は近代以前のものの、非常に見事な近代的な復活としてとらえなければだめ。根は非常に原始共同体的なもの〓〓。それを「山びこ学校」でぐっと掘り起こして、これだけ威力を示したもんだから、進歩的学者を驚かした。
▽196 上から、中央から、外国からくる抽象的概念では現場体験や教育現場を扱いきれなかったところから生活綴り方運動はでてきた。自分の周囲の現場から出発して、組織して進んでいくという姿勢としてでてきた。今後はさらに、自分の生活体験の感覚与件(実感)を、受け身にとらえるのじゃなく、積極的な行動の側から意味をとらえていく。
▽198 生活綴り方運動は、本質的に復古思想なんだし、原始共同体の再発掘。プラグマティックなものものある。そういう意味で近代的技術的。その2つの流れの結合として自分たちの運動を理解せず、ある意味で「民科」の外郭団体に転化していく。この流れに入ってからの生活綴り方運動は、実作としてすぐれたものを出していない。むしろ無着氏のような禅坊主、浄土真宗の流れの東井氏みたいな人物がすぐれたものを出している。
(課題を浮き彫りにする地区診断は、綴り方の弱点を克服したか?〓)
▽200 大人の生活綴り方は、子どもとは違う方法論が必要だ。計画された行動があって、その行動の途上で、はじめてあう期待はずれのいろんな偶然的な実感があって、そこで記録を書く。これが大人の綴り方の方法だと思う〓。
大人が見事なものを書くには、習慣からの離脱、惰性からの離脱が必要。それでないと自我が共同体化されてしまう。
▽202 生活綴り方運動 抽象的概念を拒否するあまり、かえって、慣習的概念にもたれかかっているところはありはしないか。
▽203 思想としては生活綴り方運動のほうが、学界の水準よりもはるかに高いんだ。本当の学問というものは、ウェーバーにしても、マルクスにしても、底のほうに実感が想定できる。それが倍音のように小さく聞こえてくる。日本の学者のしごとは、本当の一流を除けば倍音はない。
▽205 無着は禅、東井は親鸞、山代巴は安芸門徒の伝統。山川草木悉皆成仏 状況を全体として肯定し受け入れる。生活綴り方運動は、日本の伝統に根ざしている思想……
▽206 戦争時代に子どもの時をすごした人は、戦争によって強制された宗教的状況に生きている。死ぬことが実感として持たれるようになると、自分を越えた普遍的な理念が問題にされ、欲望ナチュラリズムに固執することがなくなる。(〓その体験が薄れ、いままた欲望ナチュラリズムに)
□社会科学者の思想 大塚久雄・清水幾太郎・丸山真男
▽212 科学を支えている理論以前の観念的エネルギーを重視する。(ウェーバー)……ウェーバーからイデアル・ディプス(理想型)の作り方を学ぶ(仮説の方法)。
▽218 科学的記述と評価を決して一枚化しない。科学のなかに目的や価値の考え方を押し込めるマルクス主義と対抗する。これもウェーバーから学んでいる。
▽224 国体明徴問題で美濃部が弾劾されたとき、ただの一人の学生・卒業生も美濃部の援軍に立たなかった。そういう知識人の群れが再生産されるかもしれない〓(まさに)。▽227 大塚と丸山らは、近代の発生地点において、近代を明らかにするという考え方。
▽232 理想型をつくることで、無意識的な存在をとらえていく方法を工夫する。それによって論理的に精緻な方法論が組まれていった。戦前の日本の官学流の社会科学は実証主義で論理を軽視する。今も、論理を重要視しない実体調査が日本の科学主義の主流。
▽237 理論科学と歴史科学と政策科学とがごちゃまぜになっていた。それを整理し直すという役割を果たした。
▽241 日本の学派は学派ではない。世代的共通の態度か、同窓会的共通の態度でしかない。……学生が教授を任意で選び、転学の自由があり、教授もつぎつぎにほかの大学をまわって歩いて……という制度がなければ日本の社会科学の中で学派ができるチャンスはない。
▽247 248 谷川雁 工作者という人間類型が出てこなければいけない。大衆に向かっては知識人の言語と思想をもって妥協せずに語る。知識人に向かっては、大衆の言語と思想で語る。
原水禁運動は、現実運動であると同時に、日本人の考え方を変えていく思想運動でもある。後者が強まらなければ、現実運動のエネルギーもたえず拡大再生産されない。
▽252 学者が原水禁運動に参加するときは、学者として行くわけではない。放射能について社会科学者がしゃべる場合には、物理学者のしゃべる場合と重さが違って、主婦連のメンバーの一人が言うのと同じ。なのに、権威をかさにして、重さがあるようにいう。これはインチキ札なんだ。それは丸山、大塚が非常に嫌っていること。
▽252 今西錦司グループ。ほかはヨーロッパやアメリカと比較してきたが、彼らはアジア諸地域のなかで比較する。座標が違う。
このグループは、モノをつくる能力を持った人々。梅棹忠夫は、いすや家具を全部自分で作ってしまう。技術的人間であることが、東大の社会科学の人とか、ジャーナリスティックな意味でうまい文章を書く20世紀研究所の人たちとも違った地点にこの人たちを立たせている。
また、階級の理念をもっていない。
日本の近代性がアジア諸国と比較されてつかまれる。
アカデミズム、ジャーナリズムと区別してテクノロジズム(技術主義)。反体制運動とオーバーラップしていない。むしろその逆の立場。こういうところに、道徳中心の社会科学を破っていく一つの突破口がある。「社会工学」の理念。
没価値ではなく無価値的。人間的な価値でなく動物的な価値。
□戦争体験の思想的意味 知識人と大衆
▽267 自分を血を患者にやる元軍医。自己犠牲。日本の純正ファシストのエネルギー。
▽276 生体解剖する中国人に「敬礼」する。憎々しいまでに偽善を装いつつ、「敬意」を表するしぐさと、実際おこなう凶悪な行為の対照。これこそ日本武士道の一つの表徴であったのだ、といっている。(三光 野田実の述懐)
▽281 梅棹忠夫 引き揚げ船で、重役夫人までが平然と働いているのをみて「日本民族は偉大だ」と思った。日本の中に本当のデモクラシーがあって、重役の夫人だって、長屋のおかみさんと同じ心境にすぐ帰ることができる。……と。敗戦後に日本の株が下がった時も、彼は日本株を買い続けた思想界稀有の人物。
▽282 谷川雁 原始共同体を再発掘せよ。日本国家から排除された娼婦、朝鮮人、部落民……シキイの下に下がればなお日本には無限定の活力がある。シキイの外にまで出て行けば、日本そのものの中にインターナショナルなコミュニティができていくという考え方。
▽286 純正ファシズム(便乗的でないファシズム)の再評価。
▽293 共同体の1人としての個人の意識。この立場だけでは、皇国史観になる。ファシスト的体験のなかで担われている共同体意識の最良の部分-おまえも倒れればおれも倒れる-という意識、行動様式をエネルギーとしてくみ上げる方法を。(「人のため」の意識の大切さ〓村上正邦)
▽298 共同体主義には満場一致という考え方がある。岸首相以下、旧内務官僚はみんな無意識的にこのような思考様式をしている。共同体的満場一致主義が指導者のなかでも民衆の中でもかさなりあっている。それがやがて「たてまえ」でおしまくる論理になる。
限定なしの賛成でなければあてにならない。限定つきの賛成はすべて裏切りの一歩手前だという考え方がある。これではファシズムのエネルギーの切り替えはできやしない。限定付きの賛成のほうが、考えて賛成している場合が多いので、限定なしの賛成は、思考抜きの賛成である場合があるでしょう。
▽302 役割を与えてくれる権力。党が消え役割を与えてくれないマルクス主義。後者への転向。
▽309
□解説 苅部直
▽連載開始時、久野は49歳、鶴見が37歳、藤田が32歳。
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