■禁じられた歌 ビクトル・ハラはなぜ死んだか 八木啓代 晶文社 20120403
1973年、世界で唯一選挙で選ばれたチリの社会主義政権が軍クーデターでつぶされた。そのとき、ビクトル・ハラは軍に捕らえられ、虐殺された。
筆者は中学時代にビクトルの歌にふれたのをきっかけに中南米の音楽に没入し、大学時代にメキシコに留学する。そしてビクトルと関係した人々を訪ね、あるいは手紙や電話で証言を頼み、ビクトルの足跡をたどる。
出てくる人は、キューバのシルビオ・ロドリゲスやニカラグアのルイス・エンリケ・メヒア・ゴドイ、アンヘル・パラ、キラ・パジュンら、その世界では有名な人ばかり。筆者自身が音楽家でなかったら、これほどの人たちと心を通わせ、証言をひきだすことはできなかったろう。
完璧主義者で、誠実で、仕事にはまじめすぎるほどまじめで、演出に極度に気を使うビクトル。人なつこくて女の子にもてまくった様子・・・彼のさまざまな側面に光を当てている。
彼のそれぞれの歌がどんな背景から生まれてきたのか、といった解説としても勉強になった。
音楽が社会の変動と結びつき、人々に勇気を与え、躍動していた。そんな時代があったのか、と思う。ビクトルの死とともに、切ない思いを感じさせられる。
同じ時期にメキシコやニカラグアの同じ空の下にいたこともあって親近感を覚えた。
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▽25 イリャブとのメキシコでの交流
▽28 ニカラグアで「自由」を感じてメキシコにもどる。「あのアジェンデ時代もおなじだった。チリには自由や民主主義がない、恐怖政治だという国際的宣伝がなされた・・・本当の恐怖政治と経済破綻は、あのクーデターのあとにはじまったのにね」
▽32 シルビオ・ロドリゲス パブロ・ミラネスと同世代。
▽38
▽55 メキシコのレネ・ビジェヌエバ。「チェに捧げるサンバ」はルベン・オルティスの作品で、ビクトルが「ぜひ歌いたい」と申し出た。「君の開いた両手に」に収録。
▽63 共産党の活動家になったが、信仰心を捨ててしまうことはなかった。古い神秘的なものと、人間と正義への愛というものを決して捨てたり失ったりすることがないようにという、そんな気持ち。それこそがビクトルの歌の根源んいあるものなんだ。
▽73 80年代に入って、世界的な右傾化と、ニカラグアやエルサルバドルのための連帯キャンペーンの高まりに反比例してチリの問題が話題になることが減ってきた。キラパジュンは最近、政治とかかわることを露骨に避けはじめ、チリ共産党との絶縁宣言までおこなってしまった・・・
▽78 La plegaria a un labrador, Duerme duerme negrito
やりたかったのは、ポピュラー音楽であり、詩的な価値をもつ良質なもので、なおかつ民衆と結びついたものだった。僕たちは伝統文化を愛していた。
▽81 彼は演奏が終わると車を拾ってすぐかえってしまうのが常だった。彼の歌のなかには彼の生活を描いたものも多いけれど、それらはきわめて慎重に秘密めいて表現されており、彼自身の領分はきっちりと護られているのだ。・・・彼のもっとも困った点は、その情緒不安定な気質だった。・・・道徳的な面でおそろしく些事にこだわる人でもあった。清廉潔白であることが強迫観念でもあるかのように。
▽95 El arado 翻訳
▽100 インティ・イリマニの話 ビオレッタ・パラが忘却のマントから取り出された自由の鐘のように光を当てた民衆芸術に向けて、豊かなハーモニーと表現性に満ちた空間を開こうとする望みを再確認したのだ。
ビクトルは、民俗的な雰囲気を乱さないようにしながらも、一種独特の違うものを求めていた。だから彼の作品は何とはいえぬ新しさと古さを併せ持ったんだ。
あのころは、たちの悪いアメリカン・ロックが侵攻してきた時代だった。ビートルズなどの誠実な光をもつものもあったけれど、たいていは商業的に売り出されたものだった。
▽102 舞台の上での時間配分や、衣装、リズムにはっきりした意図をもっていた。・・・ビオレッタから大衆芸術に対する愛情というものを学び、ビクトルからそういう愛情と少々説教臭いプロテストとを組み合わせること、芸術的なものと政治的なものとを組み合わせることを学んだんだ。
▽123 アレハンドロ・シェベキング 演出家としてのビクトルの大成功。それにやっかみをもつ人もいて・・・そのせいで、よけいに歌への傾斜を強めることになってしまったんだ。
▽125 La poblacionの、Mis manos son lo nico que tengo, En el Rio Mapocho, Hermienda de la Victoria, La carpa de las coliguillas.。
La tomaのなかでベルヒカ・カストロが朗読している部分、Sacando el el Pecho y Brazoの詩は私が書いたと思うんだが、よく覚えていない。あのレコードは聴くまいとしてきたものだから・・・辛くて・・・
▽129 シェベキングは、ビクトルがいるときいて、死体置場にも出かけた。・・・・ビクトルはハンサムじゃなかったんだけど、歌っていると、そう、ものすごくいい顔をしていた。女の子にもモテたし。ジョーンと会う前には何人か恋人もいた。ジョーンとの出会いで、彼の生き方や考え方が大分変わった。
▽133 アンヘル・パラ ビクトルと同じように共産党員で、クーデターの中で逮捕され、生き延びた。
▽138
▽142 アンヘルからビクトルへの公開書簡(1987年、特赦が決まったとき) 君の背中に撃ち込まれた40発の銃弾が俺を赦してくれるのか。あの3万人の死者と血に染まったマポーチョ河が俺を赦すとでもいうのか。
▽148 「みんな猫も杓子もビクトルの歌を歌って、それでチリに連帯しているつもりになってるんだ。俺はごめんだねと思ってた。ところが最近になると、今度はみんなビクトルのことなんか忘れちまって、誰もステージで歌わなくなった。だから俺が歌うことに決めたのさ」
ビクトルと異なり、アンヘルは「ステージ構成の演出」を拒否する。
「俺たちはあんなにも平和主義者だったのにね。そのとき、俺は思った。殺されるかもしれない。ビクトルか俺かどちらかは見せしめに殺されるだろうって・・・結果は、殺されたのはビクトルで、俺が生き残ったのさ。どう思う?」
▽152 ルイス・エンリケ・メヒア・ゴドイ 潜伏中だったゲバラをテーマにした「姿現すもの」El Aparecido。A Cochabamba me voy 死の直前にゲバラが潜伏していたボリビアのゲリラへの応援歌。
▽155 アジェンデ政権時代、キューバと蜜月。チリの新しい歌運動のエッセンスを学びに、キューバで産声をあげていたヌエバ・トローバ運動の若者たちがやってきていた。
・・・1971年にチリを訪問したカストロはチリの社会主義を「足下が定まっていない」と評して警告を発している。
キューバの社会主義はより現実的であり、チリのそれは理想主義的、きれいごとなのだ。・・・
チリ左翼は分裂し、武装闘争を行うことで徹底的に社会を改革し米国の野望を阻止しようという社会党左派やMIR と、理想論の立場にたつ人民連合側の対立が激化した。
当時の新聞では、軍部の発表どおり、アジェンデ政権の経済政策の失敗と急激すぎる改革が国民の反発を買い社会混乱を引き起こしたためということで「解説」された。けれど、ビクトルの死に方は、その解説に対する小さな石には充分なりえたのだ。無防備な音楽家があれほどに無惨な死を遂げたことで、多くの人の心の中に、クーデターのうさんくささと忌まわしさがはっきりと刻みつけられた。80年のグレナダ侵攻や89年のパナマ侵攻がうやむやにされてしまったことに比べれば、グアテマラやエルサルバドルの問題が話題になりにくいことに比べれば・・・
▽162 コロンビアでゲリラに身を投じたカミロ・トーレス神父に捧げた「光の十字架」Cruz de luz。El alma se llena de banderas, Pregaria a un labradorは、キリスト教徒を闘いの中に引き入れる役割を果たした。ニカラグア国民が、あの闘いに入っていくためにものすごく大きな役割を果たした。
▽167 ジョーン・ターナー夫人 89年に反軍政派統一候補エルウィンが当選。「民主化」した。しかし・・・
ジョーンのバレエ学校「エスピラル・ダンス・センター」
▽176 軍政下の1979年ごろ。アレルセ・レーベルができ、ビクトルの作品を出版しはじめる。没収されたり、社長が一時逮捕されたりしながら。・・・タブーだったビクトルの歌。ビクトルの曲を「チリ伝承曲」とごまかしてバレエのプログラムに入れる・・・そんなふうに、ビクトルの作品や名前は、人々が小さな行動を起こす合図のようなものだったわけね。
▽184 パトリシオ 「クーデターはいつも噂には上がっていた。不穏な動きはあったし。何かは起こるだろうとみんな思っていた・・・ただ、あれほどの憎悪が、あれほどの暴虐が起こりうるとは思っていなかったんだ・・・というよりね、あのとき私たちは、それでも希望を信じようとしていたんだよ」 正常性バイアス〓。
▽187 チリの若者たちは、最初はこっそりと、やがては公然とパブロ・ミラネスやシルビオ・ロドリゲスの音楽を聴くようになっていたし、88年の軍政信任をとう選挙キャンペーンのとき、シルビオのビデオは反軍政派の武器のひとつだった。軍政が終わるやいなや、90年5月、シルビオの公演が8万人以上を動員しておこなわれた。
▽189 亡命チリ人の若者「僕らは新しい歌を子守歌のように聴いて育ったんだもの」
▽191 ポブラシオン・ラ・ビクトリア 色とりどりの壁画がアジェンデ時代からの名物。学校も地区の人が自分たち自身で学ぶためにつくり、運営されている。
▽198 数世紀にわたって先進国のつくる近代史から踏みつけにされ、あるいは忘れられてきた人々にとってはいまも「社会主義」こそが「自由」の同義語。
▽207 ポブラシオン・ラ・ビクトリアは、その住民の団結のゆえに軍にとってもっともやっかいな場所だった〓。MIRや、地下に潜った共産党員らのマヌエル・ロドリゲス愛国戦線のパルチザンたちを保護した地域。
▽217 左翼グループや人権団体が、続々と帰国する亡命音楽家たちにチャリティコンサートを依頼する。収入を失ってしまう・・・ギャラを求めると逆恨みされることも多い。「社会派」「政治的」と言われる芸術家の宿命みたいなものだが、とりわけいまのチリではひどいようだった。解放感と裏返しの甘えであり、亡命していた人たちは金持ちだと思われているせいもある。
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