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Pobres por los pobres Las Comunidades Eclesiales de Base de la Parroquia San Pablo Apóstol 1966-2016 <Félix Jimenez>

(著者は、1968〜83年までサンパブロ教区の神父をつとめ、最後のスペイン人神父だった)

 ニカラグアの解放の神学の歴史を記した本。
 1988年にニカラグアを訪れたとき、首都マナグア市内の「9月14日」という地区に下宿した。ここはマナグアの「解放の神学」の拠点のひとつで、下宿先のバルデス夫妻はキリスト教基礎共同体のリーダー的な存在だった。
 解放の神学では、個人の救済を神に祈るだけではなく、貧しい人々も幸せに生きられる公正な社会、つまり神の王国を地上につくることが信者の使命と考える。
 ニカラグアの基礎共同体は、ソモサ独裁政権が牛耳っていた1960年代に生まれ、79年のサンディニスタ革命を草の根で支えた。
 79年の革命後、米国に支援された右派ゲリラ・コントラとの内戦で疲弊するなかで、保守派のカトリック司教らに対する抗議行動を展開し、共同体レベルで薬草講座などを催していた。

 内戦終結後の1990年にサンディニスタが選挙に敗れて下野すると、カトリック保守派の圧力が強まった。解放の神学の拠点のひとつリゲロ地区にある、極彩色の壁画で有名なサンタマリアデロスアンヘルス教会の神父は保守派にすげかえられた。ラファエルたちのサンパブロアポスタル教区も、赴任した保守派の神父と、住民の間でいさかいが起き、93年には神父が引き揚げ、制度上の教区は解体されてしまった。その後は、神父なしで、住民たちが順繰りに司会をして日曜日のミサを催してきた。

 今年、17年ぶりに訪ねた。
 1988年以来、訪問するたびに会っていたオランダ人のテオ・クロンベル神父は2013年に亡くなっていた。サンタマリア教会から追い出されたリゲロ地区の基礎共同体のメンバーも高齢化して、私の知人のおばさんは、足を悪くしてその会合に参加できなくなった。
 そんななか、「9月14日」地区は元気に持続していた。
「結成51年のパーティーがあるよ」とバルデス夫婦に誘われた。
 ギターに合わせて歌をうたい、最後は軽食とラム酒を飲みながら、汗だくになって踊った。この会で共同体の歴史について講演したフェリックス・ヒメネス(写真)がこの本の著者だった。
 辞書を片手に少しずつ読み進めると、想像以上におもしろい。
 1961年にスペインから音楽を教えるためにマナグア司教区に赴任した若手のハラ神父が、それまで放置されていた貧しい地区に教会を建てたいと希望して66年にサンパブロアポストル教区を創設した。第2回バチカン公会議(〜1965) やメデジン公会議(1969〜73) に後押しされて活動は拡大した。
 同じような貧しい人たちが「神の家族」を組織していたパナマの活動を66年に視察をした。信者がみんなでオリジナルの歌をうたうミサにふれて、自分たちも歌をつくることにした。音楽の素養があったハラ神父は、後に国民的な歌手になるカルロス・メヒア・ゴドイらに相談しながら、「Misa Popular」という歌でつむぐミサをつくりだした。それをもとにして、メヒア・ゴドイは後に「Misa Campesina」をつくりだした。
 ここの基礎共同体の人たちは、マナグアのみならず、全国のムラに赴いて共同体創設を手伝った。80年代に多くの外国人が訪れたサンタマリアデロスアンヘルス教会があるリゲロ地区も、農漁民が描く素朴画で有名なニカラグア湖のソレンティナーメ諸島の基礎共同体も、サンパブロアポストルの人々の手を借りてつくられていた。

 解放の神学はその政治的・社会的な活動が注目されるが、一番重要なのはコミュニティを重視する思想ではないか、と、この本を読んで思った。個々人がバラバラに神を信じるのではなく、共同体をつくり、協力しあって神の意志を現実社会のなかで実現していく。パウロ・フレイレの思想の影響を受け、「現状を見て、判断して、行動する」という柱をかかげていた。
 サンパブロ共同体では、清掃や衛生活動からはじまり、成人の識字教育を手がけ、1970年代に入ると、バス料金値上げに反対してデモや運行を阻止する活動を展開した。そして74年ごろからはFSLNのメンバーの活動を支え、共同体メンバーが戦線に参加するようになっていった。79年の革命直前には住民が蜂起してソモサ軍の侵攻を防ぐためバリケード築いた。共同体のバンド「ファミリアガロ」は長年教会のミサでうたってきたが、リーダーのフラビオはFSLNに参加して何度も死線をくぐりぬけていた。

 私が1988年から何度も世話になったテオ神父は、若いころアジェンデ政権下のチリにいたが、ピノチェットによるクーデター後にニカラグアに移った。ニカラグアでは、保守派の圧力で神父が不在となった基礎共同体を支援しつづけた。収入がないからみずから新聞配達もしていたという。「ニカラグアの土になる」という言葉どおり、2013年にマナグア郊外に葬られた。
 そんなすごい人だとは、この本を読むまでまったく知らなかった。

  サンパブロアポスタルの教会で革命前から歌をうたってきたバンド「ファミリア・ガロ」は1988年に知り合い、日本でも再会していた。リーダーだったフラビオは1994年に家族の目の前で何ものかに射殺された。バンドは消えたが、マリンバが好きだったフラビオの遺志を継ぐため、妹のエリザベスらが「フラビオ・ガロ マリンバ・ギター学校」をつくった。貧しい子も通えるように、月謝は安価に設定し、奨学金制度も設けている。
 その学校を見学したあと、家に招かれた。「夫よ」と紹介された人は、前日に本にサインをもらったフェリックスだった。
 彼はハラ神父に誘われてスペインから1968年にニカラグアに来て、83年に結婚するまで神父をつとめた。革命時は大使館から「逃げるように」と勧められたが、教会に残り、住民の一斉蜂起にも参加した。
 サンパブロの基礎共同体の人々は、キリスト教の教えをもとに、貧しい庶民が主人公になれる社会を築こうと半世紀間努力しつづけてきた。聖書のテキストを解釈し、その言葉に励まされながら、共同体の絆をつくり、社会を「見て」「判断して」「行動」してきた。
 ふだんつきあう共同体の人々は、気のいいおっちゃんやおばちゃんなのだけど、この本を読んで、半世紀にわたる実践を支えたキリスト教の教え(私は無宗教だが)と、共同体の人たちのすごみを実感させられた。

========抜粋========
サンパブロ・アポストル(使徒)教区キリスト教基礎共同体
▽サンパブロアポストル教区は制度上は1993年になくなった。残念な事件によってマナグア司教区が同じ場所に新たな教区を設けることになった。
▽サンパブロアポストル教区は、国内に生まれたそのほかの基礎共同体のモデルになった。ソレンティナーメの共同体もそのひとつ。わらぶきの家に住む漁民や農民が、わらの屋根で土の床の教会で信仰を育み、若い素朴画の画家たちも構成し、その作品は多くの国に、とりわけ日本では美術館もつくられた。
 バリオリゲロの共同体もつくられた。ゲリラの若者を迎え入れ、革命後は、セルヒオ・ミチェリーニによって壁画も描かれた。
 サンパブロアポストル教区は、ニカラグアのキリスト教基礎共同体が誕生した場所である。
▽Padre Jose de la Jara
 Seminario Mayor de Managuaに1961年まで。カルロス・メヒアゴドイも生徒だった。「先生は明るくて、冗談好きで、音楽についての逸話がおもしろくて……」
 貧しく素朴な人々の場所に、と希望して赴任し、1966年、サンパブロアポストル教区が生まれた。
 米国に住んでいたが1992年にがんで死去。60歳。
▽Carmen Garcíaは、Rafael Valdés の妻。Rafaelは、教区でもっとも有名な人…
▽1960年代末、ニカラグアの人口は220万人を下回り、その半分はマナグアに住んでいた。中米でもっとも人口が少なく、50%が17歳以下だった。文盲はどんどん増えて、30%に及び、田舎のマタガルパなどは63%に及んだ。
▽第2回バチカン公会議(〜1965)の影響で、教会の改革がはじまる。バリオリゲロのサンタマリアデロサンヘルス教区はそのひとつ。解放の神学の先駆者であるウリエル・モリーナ神父の指導で。
ソレンティナーメ共同体は、エルネスト・カルデナルが指導。
▽1966年にパナマのサンミゲリトへ。視察。それを参考にした。
 帰国後まもなく、パイロットプロジェクトとして、サンパブロアポストル教区の創設が認められた。
▽75 パナマのサンミゲリットの「神の家族」をモデルにした。
▽100 男女の差別解消に向けた活動
▽104 ラファエル・バルデス マルクス主義や毛沢東の本も読んだ。貧しい家に育ち、肉なんか家で食べたこともなかった。クリスマスなのに、夕食も食べずに寝ることも。
▽112 基礎共同体を各地に広める活動。 ソレンティナーメ(1968)  ロシータ(1968)
▽117 人民のミサの歌Misa popular
 ハラ神父は、音楽や芸術にくわしく、ギターとニカラグアのソンを使ったミサをと考えた。パナマのサンミゲリトでお、ミサ・パナメーニャという歌がうたわれ、明るくて踊りたくなるほどだった。それを参考に。ハラ神父が作詩する。ミュージシャンの助言を求めて…
▽120 カルロス・メヒア・ゴドイも協力を求められた。「ミサポプラ-ルがなければ、ミサカンペシーナもできなかったろう」
▽123 ミサポプラ-ルは全国の共同体に広がった。…フアン・パブロ2世法皇が来たときも歌われた。
 50周年を記念して、新しいエディションのミサ・ポプラ-ルがつくられた。
▽125 1960年代末、FSLNもまだ影響力はなかった。
▽126 9月14日共同体のバルデスたちは。道路の清掃や整備、成人教育の活動をはじめる。このときはじめて、キリスト教共同体のメンバーが、コミュニティ活動に参加し、ほかの住民たちとつながりはじめた。(生活改善運動に似ている)
▽128 ミゲル・オバンドイブラボも当初は協力していた。……はじめはパイロットプロジェクトとして受け入れたが、その後、拒否するようになる。
▽147 成人の識字教育
ver-juzgar-actuar 見る・判断する・行動するの3段階。「意識化」
 青年運動の参加者たちは、皆で語りあったことは行動に移さなければならないと信じていた。そして、レパルトシックで、フレイレの手法を用いた識字キャンペーンをはじめた。
 150人程度が読み書きができるようになったという程度の運動だったが、識字をする側とされる側の間に友情が生まれたことが重要だった。
▽156 1971年、公共交通機関の値上げに反対する運動など。
▽166 「直面する課題に対応するだけでなく、政治を考える必要がある。青年運動によって、政治社会的な基盤は獲得したが十分ではない。マルクス主義をまなぶ必要があるのではないかと思った」
▽179 「Familia de Dios」という名は、少しずつ、キリスト教共同体とか、キリスト教基礎共同体という、メデリンでつくられた名前にかわっていった。
▽184 ラファエルとカルメンの結婚
▽185 先住民集落へ、3組の夫婦が出かけて、共同体の組織化をした。ラファエル夫婦も参加した。
▽187 意識化に参加した農民たちが、当初はゲリラであるFSLNを応援したが、その後、コントラに協力するようになった。そういう例は少なくなかった。
▽191 ラファエル「社会的なたたかいに熱中した。貧困の原因を分析し、ずっと貧乏だったんだからという宿命論じゃになってはならなかった。ソモサの裏にはシステムや資本主義、帝国主義があり、それらが貧困の本当の原因だった」
▽192 サンパブロ教区は、社会的な運動のパイオニアだった。その当時は、宗教関係も、学生も、政治団体もそうした運動はやっていなかった。
▽195
▽202 サンパブロ教区のなかに、FSLNが入ってくる段階に。
▽208 力強く活力にあふれた信仰によって人々は革命に参加していった。(科学ではなく信仰が力に)
FSLNは1974年から、コミュニティと結びつき、新しい段階のたたかいに。
▽213 詩人のロサリオ・ムリージョやカルロス・メヒア・ゴドイは、Grupo Gradasという、詩人やプラスチックアーティスト、反ソモサ音楽家らでつくる芸術家グループをつくった。サンパブロ教区からは、フラビオとエリサのガロ兄妹らが創設者として参加した。
▽222 1978年1月、進歩派のラジオやテレビ局の閉鎖をソモサは命じた。ラジオの組合員たちが立ち上がり、カトリックの教会に出向いてニュースを読み上げる活動をはじめた。
▽223 5月のメーデーの日…後にフェリックスの義理の兄弟となるフラビオ・ガロは……。
▽226 サンパブロは、初期キリスト教徒の迫害避難所のカタコンベみたいなものだった。(初期の迫害になぞらえる)
…ハラ神父が離れてから、マリアーノが神父に。このころは主流のヒエラルキーともひかくてきうまくやっていた。
▽228 サンパブロは、ミサや洗礼、結婚式、15歳の儀式でいっさいカネを求めなかった。神父たちは生計を立てるため、宗教や哲学、道徳、社会学を宗教のコレヒオで教えた。また、マリアーノは、居酒屋?のような仕事をして、フェリックスはマサヤのガソリンスタンドで消防?の仕事もした。
▽233 1979年6月の一斉蜂起。「一斉蜂起の命令が出て、みんな外に出て、バリケードをつくってるよ」
…コロニアニカラオと9月14日が激しい戦闘区域になることはわかっていたけど…。スペイン大使館は避難所を用意し帰国できるように準備してくれたが、「私たちはここにとどまります」
…236 ラファエルが興奮して…
▽238 消防の建物に避難し、朝になって教会にもどってみると、フラビオに会った。猟銃を手にして監視活動をしていた。…苦しみ眠れなかった様子だったから、朝食に誘った。
▽248 7年ぶりに祖国に帰り、父母と再会。
▽260 共同体のメンバーのなかには、FSLNの戦いに参加した人も。カトリックの信仰とFSLNの支持の両立に思想的な問題があるとはだれも思わなかった。
…「キリスト教と革命の間には、矛盾はない」という標語も。
…エクメニカルな組織、アントニオ・バルディビエソセンターもあった。エルサルバドルのFMLNや、グアテマラの革命組織と、マナグアの基礎共同体との間のつながりもつくった。
▽268 サンパブロ・アポスタル教会は、1970年代に、各地のキリスト教共同体の形成を援助したが、一度できあがったあとは、革命前後を問わず、影響も与えていないし、指導をしたわけではなかった。メデリンでつくられた同じ方向には向いていたが、協同はほとんどなかった。
▽270 …後に、ペドロ・デュ・プイやテオ・クロンベルも来て、教区にしばらく滞在した。
…テオ・クロンベルは、1981年にニカラグアに来た。彼もまた、チリのピノチェット独裁から逃れてきた。彼の友人のウルグアイの男がコーヒー収穫に来た際にサンパブロに数日滞在し、テオにここのことを話した。テオはフェリックスが神父を辞める1983年までここにいて、その後は、アニタ・ハルキンの家に2013年まで住んでいた。
 テオは、生活費を稼ぐため、家々に新聞を売り歩いた。稼ぐためだけではなく、「人々と接するため、コンタクトをもつため」だった。
 そして骨の髄まで革命的だった。呼ばれればニカラグア中にでかけて、犠牲者たちのためにミサを催した。
 テオは2013年3月5日に死去した。サンホセ・デ・ラス・ムラスの墓地に葬られた。
▽273 サンパブロアポスタルのファミリアガロという音楽グループは、多くの国に出かけた。…1990年には、フラビオとカルロスメヒアゴドイ、「ロス・デ・パラカグイナ」というグループはウリエル・モリナ神父とともに日本をまわった。ステファニー神父と、ニカラグア支援委員会という神父たちも参加するグループに招かれた。
 1991年にFSLNが敗れて以降も1992年にミゲルデスコト神父とともに日本へ。マリンバのトゥン・トゥンもいっしょだった。
▽279 サンパブロ教区と関係した神父の大半は結婚した。4人のde plantaの神父が1969年から83年にかけて結婚し、その他の一時的にここにいた4人の神父も結婚した。結婚しなかったのは、Pedro du Puyと Theo Klomberの2人だけだった。8人中6人が結婚した。
…フェリックスは1983年9月20日に、ニカラオ共同体のElisaと結婚した。
▽286 1990年2月25日にFSLNは選挙で敗れ、この年の4月にビオレッタ・チャモロが大統領になった。
…だれもが、アントニオ・ラカヨと、FSLNの間の、政権の平和的委譲を果たすためのパクトを知っていた。このパクトができあがる前、マナグアは平和的な雰囲気ではなかった。サンディニスタは、復讐されることや、あらゆる組織から追い出されることを怖れて、公共的な事務所を占拠し、道路にバリケードを構築した。紛争による死者も出ていた。
 9月14日共同体もそうした抵抗運動に参加した。
 ラファエル「新政府はすべてのサンディニスタを仕事場から追い出そうとしていた。私は電話郵便局(TELCOR)の責任者の一人だったが、その職を奪われ、仕事がまったくない机に座ることを命じられた。抵抗運動が大きくなるなか、わたしも仕事をやめて、CEBでの運動に参加した。さまざまなデモが終わった翌日、解雇通知の入った封筒を手渡された」
… 1992年8月、オマル神父が日曜日のミサでこう言った。
「いいニュースをもってきた。若くて能力のある常駐の神父がくることになりました。…」
 9月、Jorge Solorzano神父が赴任した。みんなが祝った。だがその後に起こることはだれも想像していなかった。
 赴任した当初から新しい神父と共同体の対立が持ち上がった。
…カトリックラジオは、9月14日地区の教会と隣接している教区(parroquial)の家の鍵をコムニダが神父に手渡さたがらない、と批判した。また、キリスト教共同体が「脱キリスト教化していて、教区は威厳のある寺院になってない」さらに「共同体のメンバーから死の脅迫を受けている」とも主張した。
▽290 神父は5年後「基礎共同体は私を追い出した。こめかみにピストルをつきつけて…」とプレンサのインタビューで答えた。
▽294 ミサカンペシーナの歌。Misa campesina とMisa popular nicaraguenceを歌うことも、共同体と新しい神父の間で議論の対象となった。ニカラオの基礎共同体ではとくに激しく抗議した。そこには、ガロ兄妹(フラビオとエリサ)が、日曜のミサでそれらの歌をうたっていた。
「神父はミサ・カンペシーナを歌うことを禁じた」とヌエボディアリオが報道。「本を焼却しはじめ、壁画を消し……小鳥の声で神をたたえる歌などは、ホルヘ・ソロルザノ神父によって禁じられた」
▽297 ニカラオと9月14日地区の住民のなかで、基礎共同体を支持する人とその反対の人との間で争いがおきた。30年前からいっしょにやってきた人同士が争った。…ソロルサノ神父を支持するグループは、聖人像から花までもっていってしまった。
▽303 司教区は、サンパブロ・アポスタル教区を解体して別のいくつかの教区を再編成した。私たちは、サンパブロアポスタルキリスト教基礎共同体と言い続けており、そこには、9月14日、ニカラオ、レパルトシックのブエナヌエバ、5月1日地区のオスカル・アルヌルフォ・ロメロがある。それ以外の当初の共同体は機能しなくなったが、それらのうち2つは数年後にレパルトシックのブエナヌエバ、5月1日地区のオスカル・アルヌルフォ・ロメロとして再組織された。
▽304 ラファエル「常駐の神父がいなくなって、日曜のミサを自分たちでやる準備をはじめた。最初は私がリーダーをつとめ、その後、順番にローテーションでもよおすようになった」
…この22年間、2つのCEBでは、パラブラデディオスの日曜日の会合を毎日曜日に実現してきた。
▽305 時には、連帯関係にあった神父が参加してくれることも。テオ神父が生きているときは少なくとも月に1度は来てくれた。アルナルド・センテノ神父らも来てくれた。
▽307 前半の25年とちがって、後半は、大きな変動、デモ行進やハンスト、大きな行事などもなかった。
…フランシスコ法皇が就任したあとは、法皇の教えや行動も共同体で学ぶ対象となってきた。
(9月14日とニカラオは神父なしに存続し、日曜ごとに数十人が参加してきた。)
▽311 エドアルド・バルデス タティアナ
▽314 フランシスコ法皇の言葉「感謝の気持ちで過去を振り返り、情熱をもって現在を生き、希望をもって未来を生きる」(法皇への期待と存在感は大きい)
▽314 社会プロジェクト。9月14日地区のCEBは数年前から初等教育を開始……USAのイリノイにあるプロテスタント教会の援助。彼ららは何度もニカラグアに来て、9月14日の住民もアメリカを訪問した。
▽323 1983年、最後のスペイン人神父が去った。…
 2013年、フランシスコ法皇が選ばれるという重要なできごとがあった。日々、さまざまな変化があり、希望と喜びが生まれている。
▽331 バルデス「私たちはみな、神の王国を現実につくりあげるという私たちの希望を確認するために解放のプロセスにかかわってきた。」(信仰の深さ)
▽340 キリスト教基礎共同体の「基礎」であることは、貧しい人の権利と利益とともにある日々の現実のなかに身を置くことを意味する。また、抑圧システムに対抗し、野蛮な資本主義とは異なる政治経済をすすめる政府のモデルとともにある理論と実践に自分たちを位置づける。
▽私たちの共同体はひとつの家族(神様の家族)として1966〜68年に誕生し、バチカン2とメデジンの公会議(1969〜73)を通してキリスト教共同体という形に育った。共同体として、革命前の困難な年月(1974〜79)のなかで信仰と革命を統合した。
▽341 聖書もまたみんなが協力しあってコムニダとして生きることを求めている。(CEBの理論的な基礎を聖書に求めている)
 だから、どうやってコムニダとして生きていくか、個人主義をうながし、消費と孤独の社会に私たちを追い込むシステムとどうやって対抗して生きていくかをたえず考えていかなければならない。(日本でこそ重要)
▽342 relevo generacional 世代交代
 サンパブロができたとき、規模が大きくて、多くが青年たちだった。
 現在、CEBは小さいが、それじたいは、さまざまなバリオやセクターにCEBがあるならば、必ずしも問題ではない。なにより心配なのは、日々人が減ってきていることに加え、世代交代ができておらず、手を打たなければいずれ消滅してしまうおそれがあることだ。
▽346 (聖書を分析のツールとして、行動の指針として活用する。さまざまな解釈をできるテキストだからこそ、いろいろな知恵をくみ出せる。尽きない泉のようなもの)
▽353 行動すること
・病人を世話する具体的なプランをもち、実行し、日々それをよりよくするように点検する。
・病人を訪問するだけで満足せず、彼らが健康になる権利を享受できる形を模索する。
・薬草や代替医療の推進。

■ (ハラ神父の自叙伝)
▽391 ニカラグアのセミナリオに来たとき、カルロス・メヒア・ゴドイはセミナリオで学んでいた。
…1972年に全滅する前のマナグア。セントロは、狭くて汚い街路で、アンダルシア風の平屋が多く、多くの家が中庭をもっていた。市の西部は、舗装もされない道と、基本的なサービスもない極貧のバリオがあった。
 近代的な大金持ちの邸宅もあった。これらの家は今、サンディニスタの幹部が、ピニャータと呼ばれる取引で着服した。
▽396 生活できるように、司教区は宗教学校から給料などを払ってくれて、そのほかの授業や講演、信仰告白……でも、月ごとに数コルドバを集めた。こんなことはスペインでは夢にも思わなかった。金への執着をなくすため、こうした不公正なシステムがつくられたようだ。それぞれが稼いだものを毎月ひとつに集めて、月末に平等に分配した。私はこれらのカネで何をしてよいかわからないし、気前が良かった(欲がなかった)から、しばしば何ドルかを両親や兄弟に送金した。

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