■マヤ学を学ぶ人のために<八杉佳穂編>世界思想社 20170310
遺跡やマヤ文字、スペイン人による侵略、マヤの人々が自分たちの歴史をつづる取り組み、1996年に終わる内戦の影響まで、幅広い分野の研究者がマヤについて執筆している。マヤを研究したいと考える人にはかっこうの入門書だろう。
私のような素人には、考古学や土器、石器、マヤ文字などの記述は難しすぎたが、現代のマヤを知るうえでも参考になる論文が多かった。
マヤは持続可能な農業の先進地だった。
古代マヤ人は主に菜食で、トウモロコシに加え、豆類、カボチャ、トウガラシ、キャッサバなどの根菜、パンの実、カカオ、アボカドやアカテツの実を食べた。
ベリーズ北部では、格子状の水路が盛土畑を囲んだ遺跡が発見された。肥沃で生産性が高く、毎年同じ畑での集約農業ができていた。トウモロコシやアマランサス〓、綿、カカオなどが生産された。
チチェン・イッツァやツィビルチャルトゥンでは、石灰岩の岩盤が陥没して地下水が露出した天然の泉セノーテの周囲に都市が建設された。
ミツバチも重要だった。ヨーロッパのミツバチが導入されるまで、野性の毒針のないハリナシミツバチの一部が養蜂され、ポソレやアトレといったトウモロコシ飲料の甘味料としても利用された。低地では、ハチミツに水と、バルチェの樹皮を加えて発酵させた、蜂蜜酒が儀礼で使われた。
植民地政策が今に及ぼす影響もよく理解できた。
スペイン人が征服した当時のマヤ人は拡散して住んでおり、改宗が進まなかった。そこで、16世紀半ば以降、集住化(congregacion)がおこなわれ、プエブロと呼ばれる新しい集落が形成された。碁盤の目状に道路が建設され、中心の広場を囲むようにして教会や村の役所がつくられ、今日のマヤの村落の形ができた。
貢納や強制労働に狩り出すエンコミエンダ制によってマヤの人々は疲弊し、集住化のために伝染病被害が拡大して、100万人超の人口が17世紀初頭には16万5000人まで減少した(その後回復)。
スペイン人の下で働いたマヤ人書記は、同胞の権利を守ることに貢献し、神話や暦、歴史、本草学などをスペイン人聖職者に隠れて、アルファベットをもちいて記録し、「ポポル・ウーフ」「カクチケル年代記」…などの文書が16世紀後半から17世紀にかけて生みだされた。
マヤの人々は、教会にも行くが、トウモロコシを作る際に山の神に祈り、雨乞いの儀式もする。スペイン人聖職者は16世紀末になると、日常生活に密着した農耕儀礼は大目に見る方向で、共存をはかることになった。
男性世界に属するピラミッド建設や石碑建立が亡びたのに対し、女性が維持してきた織物の世界が、時代に柔軟に対応して織りつがれ、生きのびてきた。「やわらかい文化」には更新力があるという。
20世紀初頭から中頃にかけて、マヤの先住民社会のなかで福音派プロテスタントへの大量改宗がおこなわれた。プロテスタントになったマヤ人たちは、伝統的なマヤの儀礼における大量飲酒や供儀の消費を批判した。しかし改宗者たちは、マヤの伝統的な美徳である節制の道徳をプロテスタントの禁酒・禁煙の生活規制と関連づけて宣教している。伝統を放棄し、新しい慣習を受け入れることにもマヤの伝統的な文化論理を動員している。
1990年代からマヤ医学の研究は、プライマリヘルスケア(住民の自助努力を基盤とする衛生改革運動)と連動しておこなわれるようになり、代替技術や伝統的薬草の資料収集や販売用の薬草栽培のプロジェクトが特徴となる。(イフガオなどの取り組みも〓)
96年の内戦終結前後から、民族的アイデンティティの覚醒運動「マヤ運動」が盛んになり、伝統的な知識を体現する治療師やマヤ司祭たちへの期待が高まった。他方で、生物多様性に関する国際条約協定などの動きは、マヤの伝統的薬草の知的資源としての価値を見出すようになった。土着医療という性格から、少しずつマヤ民族の知恵としてのコスモポリタンな代替医療へと変化しつつあるという。
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▽2 紀元前5000年ごろには、太平洋岸やメキシコ湾岸南部というマヤ地域の周辺で、トウモロコシやマニオクの栽培がはじまったようだ。
▽21 マヤ文明を特徴づける社会的文化的な要素の継続が見られる。それは、強力な王国が他を従えつつも分裂の可能性を常にはらんだ流動的な政治統合、儀礼や宗教と結び付いた象徴的王権、トウモロコシ栽培を基盤とする経済組織などである。
▽47 古代マヤ文明では、主要利器であった石器。黒曜石石刃は、重要な利器だった。(隠岐などでも)黒曜石は、メソアメリカではメキシコ、グアテマラ、ホンジュラスの高地に産地が限定され…
…コパン谷での打製石器の石材は先コロンブス期を通じて70%以上が黒曜石だった。
▽124 ティカル、カラクムル、カラコル、コパンなど、数万人の大人口を擁した都市だった。
…大型の家畜が欠如したため、荷車は発達しなかった。旧大陸の4大文明に比べて、家畜動物の役割ははるかに小さかった。
…古代マヤ人は主に菜食。トウモロコシに加え、豆類、カボチャ、トウガラシ、キャッサバなどの根菜、パンの実、カカオ、アボカドやアカテツの実。
▽128 ベリーズ北部のプルトラウザー沼沢地の発掘で、先古典期後期までに盛土畑が開墾されていた。格子状の水路が盛土畑を囲んだ。耕地を移動せず、毎年同じ畑での集約農業が可能になった。肥沃で生産性が高く、トウモロコシ、アマランサス〓、綿、カカオなどが生産された。
…山の斜面や丘陵地。段々畑は、焼畑で深刻な問題となる土壌の浸食を防ぎ、長期にわたる耕作を可能にした。
…チチェン・イッツァやツィビルチャルトゥンでは、石灰岩の岩盤が陥没して地下水が露出した天然の泉セノーテの周囲に都市が建設された。
▽136 塩 製塩法には、塩田法と土器製塩があった。最大の生産地はユカタン半島北部沿岸。…降雨量が多いベリーズ南岸沿岸では、土器製塩が盛んだった。
▽137 ミツバチも重要な交換品だった。ヨーロッパのミツバチが導入されるまで、野性の毒針のないハリナシミツバチが利用され、一部は養蜂された。ポソレやアトレといったトウモロコシの飲料の甘味料としても利用された。マヤ低地では、バルチェ酒という、ハチミツに水と、バルチェの樹皮を加えて発酵させた、蜂蜜酒が儀礼において消費された。
…乾燥させたあとにいったカカオ豆を挽きつぶして練り粉にして、熱湯または水にとき、トウモロコシの粉、トウガラシ、紅の木の実からつくった赤い粉アチョテなどを加えた。
▽156 征服当時のマヤ人は、拡散して住んでいたため、改宗事業が進まなかった。そこで、1552年から16世紀末にかけて、先住民の集住化(congregacion)がおこなわれた。新しくつくられた集落はプエブロと呼ばれ、碁盤の目状に道路が建設され、中心武に広場を囲むようにして教会や村の役所がつくられるという、今日のマヤの村落に共通してみられる形態をもつようになった。
▽157 先住民を経済的に統制するためのエンコミエンダ制。貢納や強制労働によってマヤ人は疲弊し、スペイン人がもちこんだ伝染病が襲い、集住政策で人口が集中したため、被害が拡大した。スペイン人との接触がはじまったときは100万人超の人口があったと推定されるが、17世紀初頭には16万5000人まで減少している。その後回復して……。
▽160 マヤ人書記 法的文書を作成し、同胞の権利を守ることに貢献した。また、神話や暦、歴史、本草学などをアルファベットをもちいて密かに記録した。スペイン人聖職者が知れば、厳しく罰せられることだった。そのなかで「ポポル・ウーフ」「カクチケル年代記」…などの文書を16世紀後半から17世紀にかけて書き、スペイン人の目を避けて保管し、植民地時代を通じて筆者し続けてきた。
(〓日本の本草、イフガオの本草との比較は〓)
▽161 マヤの人々は、教会に行く一方で、トウモロコシを作る際に山の神に祈りを捧げたり、雨乞いの儀式をする。今でも。スペイン人聖職者は16世紀も末になると、マヤ人を異端審問からはずして、日常生活に密着した農耕儀礼は大目に見る方向で、共存をはかることになった。
▽167 マヤの言葉 お互い通じない。込み入った話し合いはスペイン語を使うしかない。キチェが最大集団で189万6000人、マム112万7000人、カクチケル103万2000人…「現代マヤ人」は、「民族」というような単一の文化政治集団を形成していない。…多様な自然・社会環境に暮らし、さまざまな言語を用い、村落ごとに帰属意識が異なり、ときには外国に暮らす「現代マヤ人」たちを、一括して一集団ととらえる根拠は薄いのである。
…トウモロコシ、インゲンマメ、カボチャ、トウガラシなどを栽培する定住農耕生活を営む先住民が居住してきた領域であり、メキシコ北部から中米コスタリカ付近まで広がっている。
▽176 ツォツィルの空間を秩序だてるのは、基準方位「東」(太陽が昇る)である。そこが上席であり、その右が次席、左が三席。
あいさつするときも、年少の者は年長の者に頭を差し出し、てっぺんを指先で触れてもらわねばならない。握手は年齢が同じ者だけ。
…織物の世界が女性によって維持されてきたことは意味深い。男性世界に属するピラミッド建設や石碑建立が亡びてきたのに対し、女性が維持してきた織物の世界は、時代に柔軟に対応して織りつがれ、生きのびてきた。
「やわらかい文化」の更新力。
▽マヤ医学 191 病気や不幸を取り払い、人々の安寧を「聖なる存在」–霊的な祖先、父なる太陽、守護神たる地の神、母なる月…–に祈願する伝統的なマヤの司祭の儀礼や呪文のなかにはカトリック信仰の要素がさまざまなところに見られ、それらと習合しており…
▽192 20世紀初頭から中頃にかけて、マヤの先住民社会のなかで福音派プロテスタントへの大量改宗がおこなわれた。その際、プロテスタントになったマヤ人たちは、男性成員の社会的地位と名声を高める伝統的なマヤの儀礼行為に於ける大量の飲酒や供儀の消費を無意味なものと批判し、それらとのかかわりを社会的に退けた。しかし改宗者たちは、同時にマヤの伝統的な美徳である節制の道徳をプロテスタントの禁酒・禁煙の生活規制と関連づけて宣教している。伝統を放棄し、新しい慣習を受け入れることにもマヤの伝統的な文化論理を動員している。
▽194 高地マヤ人 低地プランテーションや、不法移民。さらに、低地への開拓入植移民。ペテン低地やイシュカン、メキシコではラカンドン低地など。
…マヤ人の2大疾患は、消化管系疾患(下痢、腹痛、寄生虫など)と呼吸器官系疾患(風邪、肺炎、結核など)
▽204 1990年代からマヤ医学の研究は、それまでのプライマリヘルスケア(住民の自助努力を基盤とする衛生改革運動)と連動しておこなわれるようになり、代替技術や伝統的薬草の資料収集や販売用の薬草栽培のプロジェクトが特徴となる。96年の内戦終結の前後から、民族的アイデンティティの覚醒運動が本格化し、マヤ運動と呼ばれるようになった。マヤの伝統的な知識を体現する治療師たちやマヤ司祭たちの社会的活躍の期待が高まった。他方で、生物多様性に関する国際条約協定などの動きは、マヤの伝統的薬草の知的資源としての価値を見出すようになった。アメリカへの労働移民は、出身地の共同体の宗教儀礼をアメリカ国内のコミュニティでおこなったり、薬草の利用を再開したりする人たちが増えてきた。土着医療という性格から、少しずつマヤ民族の知恵としてのコスモポリタンな代替医療へと変化しつつある。
▽神話 232 ポポル・ウーフ 16世紀の中頃にサンタクルスデルキチェでキチェの人間によってテキスト化されたと言われている。
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