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キューバ変貌<伊高浩昭>

■キューバ変貌<伊高浩昭>三省堂 20171224

▽16 ゲバラのコンゴ作戦挫折がほぼ確定的だった時期に、キューバ共産党が発足し、その最初の中央委員会でカストロは「遺書」を公開した。ソ連の思惑にこたえて、ゲバラとの別離、ゲバラがキューバ国籍を捨てたことを明らかにした。
…ゲバラはアルジェの国際会議で、ソ連と帝国主義勢力との「共犯関係」を指摘し…ソ連は、キューバ共産党と砂糖増産5カ年計画の発足に際して、カストロが何らかの「精算」をするのを求めていた。
▽22 1994年にイゲラ村に行くと、「数年前に若い日本人女性が来た」と言われた。それが北山恭子さん。
▽49 1970年代、チップの習慣はなかった。枕の下に小銭を忍ばせておくと、カマレラがわざわざ「同志、あなたの落とし物です」と返してくれたものだ。
(同志、という言葉、ニカラグアでも80年代にはあった)
…チップを拒否する美徳は死滅して、いまやドル持ちこそが「生活エリート」だ。
…「ドルへの接近」がかなわない教師や医師たちが、歯を食いしばって頑張っている姿を見るのはつらい。彼らは、ゲバラの言う「新しい人間」の生き方を実践しているのだ。彼らが篤い社会階層をなしてきたからこそ、革命は生きのびることができた。イデオロギー教育を受けた人々が社会を支えているから、革命は生き延びることができた。
▽56 「同志」にかわって「セニョール」が流行している。「ドクトル」や「リセンシアード」の称号も急速に拡大している。
▽62 革命広場に近い平地に「プラサ」というオルガノポニコ(有機栽培農場)がある。有機農業制度は、国有地の民間利用政策と食糧増産政策をあわせたもので、92年全国の都市ではじまった。
▽69 米国がキューバをあえて併合せず属領化するのにとどめたのは…独立戦争を戦ったマンビーの実績を認めざるをえなかったことのほかに、アフリカ系に米国籍を与えることに躊躇したためだという。
▽74 革命の同志たちは、マエストラ山脈の最高峰トゥルキノ岳(1974メートル)の西側下方の鞍部ラ・プラタを拠点に戦線を開いた。
▽80 キューバで一番濃い血がアフリカの血である。カストロは、キューバを「ラテンアフリカ」と呼ぶ。
▽83 ソ連は、キューバをCOMECON体制に組みこむことにし、…第一次開発5カ年計画(76ー80年)は、従来からの砂糖増産に加え、ニッケル増産、食糧増産……シエンフエゴス郊外のフラグアに原子力発電所を建設することも決まった。…エネルギー部門の石油依存を原発で緩和させるのが狙いだ。
▽89 89年6月、アンゴラ内戦の英雄アルナルド・オチョア中将を筆頭とする14人が、麻薬取引疑惑で逮捕された。オチョアら4人は大逆罪で銃殺された。…麻薬嫌疑を打ち消し、ソ連改革路線の伝染を防ぎ、天安門の暴動のような最悪の事態が割に合わないものだと人民に知らしめ、不穏な芽ならぬ種のうちに摘んでしまうと言う、多面的効果をあげる衝撃的な出来事だった。オチョアはゴルバチョフ路線に理解を示していたという情報があるのだ。
…革命軍省と内務省の内部には、処刑に反対する声が強かった。…
▽91 カストロは90年10月、「平和時の特別期間」〓〓と名づけた経済非常事態を宣言し、石油をはじめ必需物資の輸入が不可能になる最悪の状態を想定した「オプション・ゼロ」に備えはじめる。
▽102 軍部は農業のほか、観光事業にも進出。観光公社最大手のガビオタを経営史、元ソ連軍顧問団宿舎をホテルにして経営している。軍部は、冷戦終結後、「金食い虫」に陥らなかった。ここにも施政の巧みさと、体制の強さがある。
 ハバナ近郊にソ連時代から継続されているロシア軍の対米電子情報収集施設がある。これも軍の独立採算制の一部であり、「対露友好」の印でもある。(その後、学校に)
▽104 大型台風に見舞われても中米やカリブ諸島のような人的被害がキューバにないのは、非常事態即応態勢があるためにほかならない。
▽107 カストロは経済状態が最悪になった93年の7月26日、米ドルをはじめ外貨の使用と所有を自由化すると発表。…ドルを持つ者と持たざる者の経済力格差をもたらした。
…ドル解禁後、犯罪・暴力・反体制行動に対する抑止力は弱まらざるをえない。ドルが自由化された93年の密出国者は3650人だった。カストロの一人娘アリーナ・フェルナンデスは、80年代末から体制批判派として活動していたが、93年偽造スペイン旅券で出国した。
▽113 1995年夏、首都の停電は大幅に緩和され、…1日最高20時間停電という事態つづいていたのが、週2日、4時間ずつに減った。
▽128 経済は1990年から急激に下降線をたどり、93年には34.8%のマイナス成長を記録した。
 牛馬による輸送・耕作、交通手段としての自転車導入。都市部家庭での野菜栽培……。ドル自由化は、観光産業と国外からの送金で国民の間で蓄積されたドルを、ドル専門店の開設で吸い上げ、国庫を通じて商品やサービスの輸入に回すために実施された。
▽132 兌換ペソ〓〓(94年12月流通開始) ペソから直接ドルに両替しないのは、国庫がドルを喉から手が出るほどほしいからだ。国民は兌換ペソを使って、ドル専用の物資販売店で買い物をすることができる。
▽143 観光産業の成長。98年は143万人。…
 国民観光はイスラスルというホテルチェーンが中心。
 ホテルは、スペインのソル・グループ、ドイツのLTIグループのほか、カナダ、イタリア、フランスなどの企業が、革命軍省系企業「ガビオタ」および「クバナカン」と合弁で建設・運営する場合が多い。〓
▽146 ヘミングウェイはハバナ南東12キロのサンフランシスコ・デ・パウラの丘のラ・ビヒラ農場を買いとって、1940年から60年まで20年間住んでいた。
 …「老人と海」「誰がために鐘が鳴る」「海流の中の島々」…もここで生まれた。
▽155 パラダール(味とか味覚の意味)
▽161 油田開発 80年代には毎年ソ連と、砂糖400万トンと石油1300万トンが交換され、キューバは石油のナカから400万トンを国際市場で売って外貨を稼いでいた。だが協定は91年に打ち切られ、…石油の内需は91年は800万トンに、92年には400万トンに半減させた。
 石油の国内消費量は97年、820万トンに回復した。83%にあたる680万トンは輸入であり、「特別期間」に工夫をこらして原油輸入を支える外貨を獲得してきたことを示している。内需の17%、146万トンは硫黄分の多い重質油が中心の国産原油。…99年は200万トンをめざす。(〓〓今は?)
▽165 原発 COMECON時代、エネルギー不足を一気に解消しようと、フラグアに出力88万キロワットの原発を建設していた。
…観光・砂糖につぐ基幹産業は、ニッケルとコバルト。コバルトの推定埋蔵量は世界の26%に及び、コンゴ民主共和国についで2位だ。ニッケルを含むラテライト(紅土)の埋蔵量も膨大。98年に6万8000トンの生産量だったが、2000年までに7万5000トンに拡大する計画だ。
▽178 ローマ法王 ピノチェトが政権を握っていたころ、チリの保守層はピノチェトを支持しながらも「心の元首」をほかに求めた。その元首こそ、ヨハネパウロ2世である。ピノチェト自身、法皇が意のままに発言するのを認めざるをえなかった。諸国の教会の長である枢機卿や大司教は、法皇の代弁者として独裁者に対峙する。暗殺されることもある危険を冒して忠言できるのは、国民の法王に対する「帰依」に支えられているからだ。
 ヨハネパウロ2世は、祖国ポーランドを訪れて共産主義体制に揺さぶりをかけ、ソ連・東欧社会主義圏を崩壊に導く触媒となった。この有名すぎる実績を踏まえ、訪問先で、為政者の耳に痛い民主化を説いてきた。その法王が98年1月21日から25日まで、キューバを訪問した。
▽187 カストロは、宗教界で最大勢力でありながらほとんど組織化されていないアフリカ系宗教の各団体指導者たちを通じて、彼らを体制内にとどめる政策をとってきた。観光名所に彼らの祈祷所をもうける……かぶっていたカトリックの仮面をはがし、アフリカの祭式を浮かび上がらせるというやり方である。
 〓〓革命体制が、音楽、踊りをはじめアフリカ系文化を芸術・芸能にふんだんに取り入れているのも、政策と無関係ではない。
 大量のアフリカ系信者たちが、アイデンティティーを強めるほど、カトリック教会にとり、対抗勢力としてあなどれない存在になるだろう。カストロは従来、カトリックよりも新教各派とうまくやってきた。
 カトリック教徒の多くを含む650万人は「サンテリア」というアフリカ系宗教の信者である〓〓(全人口は1100万人)。サンテリアは、ヨルバ教を中心に、ブードゥー教、ガガー教など「アフロキューバン宗教」と呼ばれるアフリカ系諸宗教を便宜的に総称する意味をもつ〓。
▽189 アフリカ系国民の多くは、自分たちの隠れた神に会いに教会に通う。キューバの守護神は、白人系が聖母マリアと同一視する褐色の聖母コブレなのだが、この聖母にアフリカ系は自分たちの聖母オシュンを見いだすのだ。〓
▽194 歴史化でもあるカストロは一貫して、独立戦争と革命の史実のなかから、英雄、正義、愛国…といったテーマを抽出しては、国民に教育しつつ、革命イデオロギーの宣伝をしてきた。このためキューバのメディアは、現代・未来よりも過去に力点を置くような歴史重視の記事や番組であふれる。一年中、史実に根ざす記念行事がおこなわれる。だが歴史をもとにした思想教育は、日常生活で不自由をかこつ者にも、ドル狩りに熱心な者にも届きにくい。
…若者に強い消費社会志向は、文化的併合主義を生む危険性があるという。そんな危険性を防ぐためカストロは、宗教を体制に招き入れて、体制の基盤を強化しようと考えた。冷戦時代の「キリスト教民主主義」は、今や色あせており、キューバでは弱小だ。
▽207 カストロにとって法王来訪は、キューバがラ米でもっとも普遍的な価値観であるカトリックに事実上、復帰したことを域内諸国に知らせる劇的な手段だった。効果はたちまち現れ、国連人権委員会ははじめて、米国提案のキューバ非難決議を葬り去った。グアテマラとドミニカ共和国は、法王の呼びかけに応じ、キューバと国交を回復した。…キューバは域内のいろいろな国際機関の加盟を認められ、ロメ協定への準加盟も果たした。
 …カストロは、クリスマスを98年から正式に復活させ…
▽日本とカストロ 216 多くの軍事政権の大統領たちを公式に迎え入れてきた日本政府が、ラテンアメリカ現代史上最大の人物を、あたかも裏口から入るようにこっそりと入国させたのだ。
 村山富市に国際感覚があったならば、カストロを堂々と迎えて両国関係を「誇示」し、対米追随外交の日本という印象をやわらげることもできただろう。
▽218 村山の口から出たのは、硬直した対米追随のキューバ政策にすぎなかった。村山が、そして官僚が、人権批判を江沢民にも言うのであれば、普遍性をもつ。米国に従って、キューバと中国で規範を使い分ける二重規範なのだから、説得力がない。
▽225 カストロは、日本人の多くが知らなかった「まったくちがう型の政治家像」を印象づけ、新鮮な旋風を巻き起こして去って行った。米国政府は日本政府に不快感を伝えた。この日本の外交行動に対しては珍しい米国の不満表明が、カストロを迎えた日本の例外的かつ部分的な自主外交の勲章となった。
 1年後、ペルーで日本大使公邸占拠事件が発生すると、カストロ来日は日本にとってこのうえなく重要な意味をもつことになる。
▽232 98年日系人移住100周年。ハバナ、青年の島、ピナルデルリオ、カマグエイ、シエンフエゴス、シエゴデアビラ、オルギンに日系人が固まっているのがわかり、その各地に支部をつくった。
▽236 観光を経済の切り札と考えた。そこで反革命派は、観光を標的にする。97年にハバナでホテル連続爆発事件が起き…
 58年、米国人を中心とする1.5%の大地主がキューバの農業用地の46%所有していたほか、製糖工場、ニッケル鉱山、金融機関などは米国資本に牛耳られていた。
▽243 農作物に打撃を与えるための「細菌作戦」をとり続けてきた。
▽244 98年4月21日、国連人権委員会が、92年から米国が提案し97年の可決は賛成多数から反対多数に逆転下。「法王効果」はここにも現れた。
…米国の公文書館は、カストロ暗殺計画を含む過去の謀略作戦の多くを98年までに明らかにしている。
▽251 米国で一番実利的な考え方をしているのは財界であり…巨大な中国市場も大切だが、すぐ近くで市場経済制度を取り入れつつあるキューバに向かうバスに乗り遅れてはならないと懸念しているのだ。
▽253 フィデルの演説を聴くためだけでも、スペイン語を学ぶ価値がある。その言葉は胸を打つ。人間的だからだ。人間的であることによって普遍性を備え、共感を呼ぶ。
▽257 無料の教育・医療をふくむ福祉制度の存在、3500キロの海岸線の自然維持などでキューバに学ぶことは少なくない。とくに人間性の素晴らしさは、日本の若者に勉強になるにちがいない。(人間性の純粋さは失われつつあるけど、明るさと人生を楽しみ、人とつながる素養は学ぶべき)
▽258 かすとろ体制はファシズムではない。だが体制に必ずしも帰依できない国民には、のしかかる巨大な権力の位階性秩序は、耐えがたいだろう。法王も指摘するように、若者たちにとっては希望や自由が頭打ちになっており、未来を奔放に描くのは難しい。(頭打ちになっている、というのはその通り)
▽268 ハバナ旧市街 植民地時代の面影を残す建物は…多くは倒壊寸前で、木材でつっかえ棒をして倒壊を免れている。専門家によると、市内の民家・アパート16万軒のうち6万5000軒は倒壊の危険にさらされており、撤去する必要がある。…革命は、独裁時代の腐敗の象徴として、あるいは蓄積された富があったため都市部を冷遇した。だが80年代に、建築家や芸術家らが旧市街の文化財保存に熱心になる。90年代には、観光資源として修復保存が急がれるようになった。ユネスコは86年、旧市街を「世界文化遺産」に指定。
▽270 グアンタナモ 基地は117平方キロで、半分は陸地、残りは沼沢地と水域。3

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