■甘粕正彦 乱心の曠野<佐野眞一>新潮文庫 20110122
甘粕の祖父母からDNAをさぐり、墓地を訪ね、周辺の人物をすべて洗うすさまじいばかりの取材だ。
部下からも慕われ、前途洋々たる軍人だったが、訓練中の事故で重傷を負い、忌み嫌われる憲兵に転身する。憲兵のエースである甘粕は震災直後に麹町憲兵分隊長にされた。そして大杉殺害を独断で実行したとされた。
実は大杉と伊藤、子どもの橘宗一の殺害は軍中枢部の命令だった。後に見つかる死因鑑定書を見れば、甘粕は自ら殺害に手をくだすことすらなかったらしい。だが甘粕はいっさいの罪をかぶり、生涯口を割らなかった。
「主義者殺し」の汚名に生涯苦しめられた。満州の夜の帝王とよばれるようになっても酒を飲むと大荒れに荒れた。軍高官を招いた宴席では彼らに手をつながせて輪をつくり、自分がタクトをふるかっこうで「鳩ぽっぽ」などを歌わせた。中間管理職の悲哀を味わった甘粕の、鬱屈した復讐だったのではないか、と筆者は見る。
周辺人物をすべてあらうことで、作品全体を通じて当時の満州の風景がたちあらわれる。新幹線も戦後の都市計画も満州の実験をモデルとした。やくざ映画の東映も満映の残党が立ち上げ、小林多喜二を殺した特高係長が興業部長をつとめていた。満州は、大きな人間、奇怪な人間がうごめく壮大な実験国家だった。
甘粕にしても、リベラルな立場から軍国主義を批判した清沢にしても、満州につどった転向左翼にしても、当時の登場人物はスケールが桁違いに大きい。それほどの魅力的な大人物がきら星のごとくいたのに、なぜあんな愚かな戦争に突っ走ったのだろうと考えてしまった。
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▽24 東映やくざ映画のデモニッシュな衝動はどこから? 甘粕正彦が理事長だった満映の残党たちによってつくられた新興の映画製作会社だった。
▽30 都立多磨霊園には、児玉源太郎、東郷平八郎、山本五十六、山下奉文、西園寺公望、高橋是清、新渡戸稲造、内村鑑三……岡田嘉子、ゾルゲ、三島由紀夫、夏目雅子……も葬られている。そこに甘粕も。
▽34 甘粕の母、志け。家系図を見ると……見田宗介も
▽54 甘粕文書が国会図書館に入ったのは平成2年。未発掘資料の提供をよびかけ……
▽74 甘粕が東京憲兵隊の近衛師団といわれた麹町憲兵分隊のトップを兼務した人事異動は、無政府主義者の巨頭の大杉栄を視野に入れた大杉シフトだった。
大杉の検束は、軍中枢部では織り込みずみの計画だった。
▽80 大杉殺害の号外も緊急勅令の「治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件」に抵触するとの理由で発行禁止に。この勅令が大正14年の治安維持法につながった。だが発禁命令が出る直前、時事は京阪神や九州方面に電話で情報を送っていた。これが大阪朝日の号外となった。
▽82 神近市子 戦後は社会党の議員として売春防止法の制定に情熱を燃やした。彼女は昭和47年に出版された自伝で、いいかげんな情報で、甘粕への悪口を書き連ねている。……こんないいかげんな女が、日蔭茶屋事件を扱った映画「エロス+虐殺」の上映差し止めを求めて提訴したのだから笑わせる。
▽85 甘粕に対する減刑嘆願運動。署名は65万人に。だが、軍法会議がはじまり、凄惨な犯行状況が目の前にさらされると非難する声が一気に高まる。
▽88 甘粕は軍法会議で、単細胞の「鬼憲兵」を演じている。
▽93 麹町憲兵隊と淀橋署の共謀。責任のなすりあい。
▽96 凄惨な殺害状況の説明……だが子どもの宗一殺害の場面はリアリティがない。軍法会議でも争点になった。
▽111 「別室の子どもがかわいそうになり、子どもにやる菓子をもっていってやったりしていました」……甘粕の証言の矛盾。
死体の状況の説明が、「死因鑑定書」と決定的に食い違う。
▽121 すすり泣いて証言する甘粕。子どもを殺した、という証言をひるがえす。「……実際は私は子どもは殺さんのであります……」と証言。だが、「死因鑑定書」が発見された今となっては、大杉と野枝の殺害もしていなかった可能性が否定できない。
……その後、子ども殺しで3人が自首してくる。
▽129 「これは司令官の命令だから、と言われた」という証言。
▽130 3人の証言はすべて、甘粕が主張する単独犯行説を否定し、軍の関与を強く暗示していた。
▽137 この裁判の異常さは、宗一殺害で自首してきた東京憲兵隊の3人を無罪にしたことに象徴されている。
▽140 甘粕の1期下の憲兵の著書に「大杉の検束は、憲兵司令官の小泉六一が甘粕大尉に命じたもの」と記す。
▽144 枢密院の諮詢という法律で決められた手続きをへぬまま戒厳令を布告。帝国憲法違反だ。戒厳令公布は官報にも記載がない。関東大震災下の戒厳令は、一般国民には何も知らされぬまま、秘密裏に決定され発布された。
▽146 内務省警保局長の後藤文夫は、海軍船橋送信所に「……朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不定ノ目的ヲ遂行セントシ……」という伝聞を送っている。これがありもしない朝鮮人暴動説を既成事実化させ、震災ですべてを失った民衆の不満と不安の勘定をあおる結果をもたらした。
▽151 事件が国を震撼させるまでに発展したのは、宗一がアメリカとの二重国籍をもっていたことにも起因していた。……これが小泉憲兵司令官、小山東京憲兵隊長の停職という処分につながった。
▽153 警視庁幹部だった正力証言のメモ。「陸軍が……大杉を殺すと言ってきた。大杉と吉野作造博士と外の2人……」……警察は事件を予知しながら無視ないし黙殺している。未必の故意にあたる立派な犯罪だ。
▽159 大杉の同志の和田久太郎が、戒厳司令官の福田雅太郎を狙撃して失敗。無期懲役に。「甘粕3人殺して10年、久さん未遂で無期」と弁護士は嘆いた。和田は獄中で首つり自殺した。
▽167 軍医が隠していた「死因鑑定書」。大杉も野枝も明らかによってたかって殴る蹴るの暴行を受けている。虫の息になったところを一気に絞殺された。集団暴行によるなぶり殺し。
▽170 大杉の遺骨。荒畑寒村や瀬戸内寂聴などを発起人として、半世紀以上たった昭和51年にやっと静岡県清水市の鉄舟寺に葬られた。
▽176 獄中の甘粕。封筒をはり、あかぎれやしもやけに悩み、ガラス片がまじる飯を食い……
▽179 皇室崇拝の念は純粋すぎて痛々しいほど。
▽182 「(事実を曲げて証言したことについて弁護士へ)先生に考えていただきたいのは、軍人としての私の苦しい立場であります」
▽190 清沢が大杉と甘粕の架空対談を創作。軍人の偏狭な考え方を甘粕に代表させて批判する知力の高さ。
日清、日露の大戦がなかったら、今のような愛国心が日本人に生まれたか。自分の藩主にだけしか忠義をつくすことを知らなかった日本人が、日本国家というものを対象とする強烈な愛国心の所有者になったことは、外患に対して極力集団本能をあおった結果ではないか。そうだとすれば、この戦争の中心になってしかも一般社会と隔離している軍人が、愛国心の濃い結果となることに不思議はなかろう。
反省と理論と科学のない愛国心が、君の愛するという国家……に何らの幸福をもたらさないことだけは言えると思うね。(大杉の声を借りた清沢の分析、愛国心を認めながら冷静に分析するリベラルな論者)
▽210 甘粕の妻の服部家は、共産党のアジトだった。……満映は、右翼も左翼も関係なしの不思議な人間集団だった。
▽235 甘粕の単独インタビュー。今にも泣き出さんばかりの様子で、獄中生活の悲哀を語る。……記者の子をさがし……
▽238 虚報。美辞麗句の架空インタビューも。甘粕を満州に送り込み、厄介払いしようという軍上層部の意図。
▽250
▽260 出所後、ミネと結婚。獄中にいるあいだ教師をしながら待ち続けたミネ。
▽261 腫れ物にさわるように出所後の甘粕をあつかう憲兵司令部。
▽294 滞仏生活。身重の妻を「足手まとい」と手紙に書き……暗鬱とした生活。5年前にフランスで自由を満喫した大杉と正反対。大杉は刑務所のなかでさえ戯れ歌をつくっている。
▽302 弱音をはき、いじけにいじけ、すさみにすさんでいることがわかる手紙。「心がスネテ、もうとても駄目なような気がする」。傷心をいやせぬまま、前途に何の希望ももてない落魄の帰国。
▽317 竹中労は「断影 大杉栄」のなかで、大杉殺しは甘粕ではないと断じた。クラシック音楽とアメリカ映画を愛し、西洋煙草とウイスキーを好んだ甘粕は、えびらに花を挿したい男であり、またその花を隠したい男だったと述べている。
▽339 溥儀 軍の高圧的な態度に啞然とした……
▽341 「現代史資料」の人名総索引。「満州人名事典」「満州紳士録」……
▽352 32歳の中島比多吉。対ロ破壊活動をやり、溥儀の側用人に。カムチャツカでスパイ活動をやり海南島でケシ栽培をした高畠義彦……あやしげでスケールの大きい怪人だらけだった満州という場〓。
満州以前の甘粕と、満州の甘粕はまったくの別人だった。謀略の大地は、初めて生を燃焼できる……
▽366 「私は世の中の人からは何と言われてもよい。同期生からだけは慰められたい。……同期生からまで心に覚えのない陰口を言われると悲しくなって滅入った心も起る」
昭和10年に、四国遍路の旅に8㍉を携行して出かけている。
▽374 苦力は、奥地を目指して満鉄のレールの上を歩くので、列車にひかれる者が多く、年頃の娘をつれた苦力の家族には女衒がうるさくつきまとって、父親と母親が大道で娘を売る、売らないで口論する光景は……
▽376 豊満ダム建設は、鴨緑江の水豊ダムと並ぶ満州最大のプロジェクトだった。手がけたのは日窒(チッソ)コンツェルン創業者で、朝鮮、満州の安価な労働力と豊富な水資源にいち早く着目した野口遵だった。その片腕として建設責任者となった久保田豊は、戦後建設コンサルタント会社の日本工営を立ち上げ、東南アジアのODA事業で華々しく活躍した。
大東公司「学者あり、大陸浪人あり、旧軍人ありで、天下の英才、豪傑が雲のごとく集まり、昼酒も日常茶飯事……」
▽378「(甘粕は)しょっちゅう死ぬことばかり考えておりましたね。(自殺も)「待ってました」というようなものだな。……だから欲もなんにもないんですね、そういう意味で非常に貴重がられていましたね」
「関東本部が東京の参謀本部のいうことなどまったく聞かなかった。甘粕と里見という潤沢な資金源があったからだよ(2人とも)金を自分のポケットに入れなかったから、関東軍に信用されたんだろうな」
▽384 大東協会 甘粕を補佐する専務理事の清野剛は転向左翼。矢内原の門下。その関係から、甘粕は東大を追われた矢内原に研究資金を提供しつづけた。甘粕は、仕事ができれば右翼でも左翼でも頓着しなかった。「赤旗」元編集長の三村亮一(妻は檀一雄の妹の寿美)「見合いの席には兄もいて、『いいか、寿美、この人は4年間も監獄に入っていた。素晴らしいじゃないか。今の時代はまともな男は監獄に入るものなのだ』といって、しきりに三村との結婚をすすめるの……あの当時、日本の左翼はほとんど満州に逃げていた」
▽395 甘粕は、排英工作からイスラム工作、蒙古工作、チベット工作、蘭印工作まで仕掛けていた。満州に甘粕を送り込んだ大川周明の影響だった。
▽413 大東公司が中国人労働者から莫大な通関料や、満州国から贈られた鉱山の採掘権を資金源とする甘粕の謀略工作。
▽420 東条と石原莞爾は犬猿の仲。東条は自分より7歳下の甘粕に、うるさ型の石原との調停役を頼み込む。そこに甘粕の実力と独特の位相があり、東条の恩義に終生しばられた甘粕の限界でもあった。
▽422 甘粕は石原を「明後日の計画は素晴らしいが、明日が抜けている」といい、石原は甘粕を、「思想のない実務屋」と呼んだ。尊敬する板垣征四郎の「征」と石原莞爾の爾をとって息子に小沢征爾と名付けた小沢開作……
▽425 東条が作戦開始を決定したインパール作戦に関しては、インド方面にまで独自の情報網をもつ甘粕は強硬に反対した。
▽430 戦後、石原は理想の村づくり。山形県遊佐町の西山農場。今は武田邦太郎氏ほか1軒しか残っていない。
▽432 民団の団長になる曹寧柱。空手の弟子の大山倍達とともに石原のリヤカーをひく
▽436 甘粕(嫌いな歴史上の人物)「1人は菅原道真です。左大臣まで昇進したが、太政大臣まで出世したくて猟官活動をやった。筑紫に流されることになると、上皇にすがって留任運動をやった」「もう一人は乃木大将です。あの人はいまの時代なら大佐までしかなれない人物です」。好きな人物は「悪源太義平です。彼は人のために尽くして損ばかりしている……」
▽440 甘粕は「男が惚れる男」だった……。甘粕の特徴は時間の効率的活用と厳守にあった、と記している。
▽445 満映の社員は、甘粕さんの前に出ると、みんな身体がガチガチに固まっていました……みんな甘粕さんの前では直立不動でした。例外は監督の内田吐夢さんだけでした。
▽458 世界的ファシストである、ムッソリーニ、ヒトラー、フランコと会見している。
▽468 満映 軍や政府にへつらった宣伝映画や国策映画ほどくだらないものはない……と。帰国して国民精神総動員のポスターを見た甘粕が憤慨する。「……こういうやり方は偽善者を作ることになります。(宮城に)頭を下げたい人は下げたらよろしいし、下げたくなかったら下げなくてもよろしい。国に対する忠誠は、宮城の前で頭を下げる下げないで決まるわけではありません」(だれがやっているんでしょう?)「そりや軍人どもですよ。それから軍人に迎合する人たちです。軍人は人殺しが専門なのです。人を殺すのは異常な心理状態でなければできないことです。一種の気ちがいです」(「鬼憲兵」イメージの嘘)
▽471 プロパガンダ映画一色だった満映の編成は、娯民映画の分野にも広がり、製作本数は3倍に。赤字だった経営は黒字になった。……中国人スタッフの給与を倍以上に引き上げ、中国人を蔑視する言動を禁じた。
▽476 甘粕によって出現したアジールの満映には、転向左翼組が争って集まった。「甘粕は、一度左翼思想を奉じた人間はけっして本心から転向するものではありあmせん、といつもいっていた。しかし、そのために転向者を冷遇したり警戒したりなどはしなかった」
▽486
▽489 合理性を欠いたスパルタ精神や日本的精神主義は、甘粕の最も嫌うところだった。「昼間農業をやって疲れた若者が、相撲や柔道や剣道をやって何が娯楽になりますか。苦しい労働をした者には、楽しい遊びが娯楽になり、気分転換になるのです。人間の生活には楽しいものや美しいものがなければ長続きしません」
▽496 甘粕は、新京放送の若手社員にヒトラーやチャーチルなどの物まねをやらせた。拍手喝采だった。この青年が若き日の森繁久彌だった。
甘粕は、将官高官を招いた宴席が終わりに近づくと、来客全員に手をつながせて輪をつくり、自分はタクトをふるかっこうで「おててつないで」「はとぽっぽ」を歌わせるのが常だった。「小柄な人殺しの指揮で、大臣も将軍も総裁も、童謡を唄い回っている。私はそこに、嘘と虚名が横行する人間社会への痛烈な復讐を見た。大杉事件の真相を胸に深く秘めてきた、甘粕さんの鬱屈した反抗心を、見せられる思いがした」
▽511 敗戦 関東軍と交渉して社員とその家族が新京を脱出する列車を確保し、退職金分の現金を用意していた。……理事長室の黒板に戯れ歌「大ばくち 身ぐるみぬいで すってんてん」辞世の句。甘粕に自殺させまいと、刀、拳銃、手榴弾などを取り上げていた。
▽521 陸士同期の澄田ライ四郎(長男は澄田智・元日銀総裁)は、敗戦を迎えても武装解除命令を出さず、国民党軍と密約して、2600人もの兵士を3年半も共産党軍と戦わせ、澄田本人は部下を戦場に”棄民”して帰国し、89歳の大往生を遂げた。「蟻の兵隊」は澄田の部下たちの姿を追ったドキュメンタリー。
▽533 旧満映のスタッフが、中国人スタッフに映画技術のイロハから教え込んだ。中国映画発展の基礎を築いた。
▽535 中国にのこった女性。文革の思い出。甘粕自決後の旧満映スタッフは、東西冷戦時代の中国と日本の国家意思にそれぞれ玩ばれて苦しんだ。
▽538 日本工営を設立した久保田豊がODAを巧みに利用した政商といわれるのは、久保田が歴代総理と深く結びつき、ビルマ、ラオス、ベトナムなどに支払われる戦時賠償金で現地のダム建設調査などのコンサルタント業務を請け負ったことが、同社の発展の礎になったから。
日本工営は、スカルノとデヴィ婦人を名乗る根本七保子を最初に結びつけた会社。
▽539 東映は、満映の残党たちによって戦後設立された。……小林多喜二を虐殺した特高係長の中川成夫が東映の興行部長という要職についていた。その中川の古巣の人脈を生かして企画したのが、昭和30年代の「警視庁物語」シリーズだったという。
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