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マイバック・ページ ある60年代の物語<川本三郎>

■マイバック・ページ ある60年代の物語 <川本三郎> 平凡社 201201

 60年代に青春時代を送り、朝日新聞に就職し、朝日ジャーナルの記者のときに、自衛官を殺した活動家と逮捕前に取材し警察に通報せず受け取った物を焼却してしまったばかりに逮捕される。そして27歳で懲戒解雇。
 そのときの傷はずっと癒えず、ようやく振り返って書けたのが40代になってから。つらく苦しく、でもなつかしい60年代末から70年代前半を振り返った本だ。さらに20年後に映画化されるときでも、心の傷がぶり返したという。
 世間的には成功した筆者でさえもこれほど苦しんだのだ。あの時代、どれほどの若者が傷つき、今も痛みを背負いつづけているのだろう。
 でも、社会の矛盾と真正面から向き合い、自分の弱さと向き合った全共闘の若者や、「報道者」の立場と市民の立場との間で悩み「お前は何者なのだ」と自問しつづけた記者たちの熱さはうらやましい。
 そして記者も学生も悩みつづける時代だったからこそ、取材現場の自由度は今とは比べものにならないほど広かった。学生たちのアジトに泊まり込んだり、500円だけポケットに入れて1カ月間東京のあちこちを放浪したりするなんて今では考えられまい。

 全共闘運動が後退するとともに武装闘争路線が生まれる。大衆から遊離し孤立を深め、それと軌を一にして、全共闘を支持した朝日ジャーナルや朝日グラフが社の上部によってつぶされる。そんな時代背景が筆者の逮捕の裏にはあった。
 逮捕後9日間は否認しつづけたが、10日目に容疑事実を認め、事件に直接関係のない同僚の名も出してしまった。「取材源の秘匿」というジャーナリストのモラルを守ろうとしたのが、いつのまにか「証憑湮滅」の「犯罪者」とされ、容疑を認めたとたんに解雇された。正面の敵とならば闘えるが、得てして弾は後ろから飛んでくる。スケールははるかにしょぼいけれど、今も同様のことが日本の多くの会社で起きつづけている。
 保釈から2週間後、連合赤軍事件が起きる。「連帯」や「変革」といった夢が一気に瓦解してしまう。1人の週刊誌記者の経験がそのまま時代や世相をうつしている。
 「あの時代はいい時代なんかじゃなかった。無数の敗北と死。……しかしあの時代はかけがえのない『われらの時代』だった。誰もが他者のことを考えようとした。ベトナムで殺されてゆく子どもたちのことをわがことのように考えようとした……」
 変革を夢見ることができた時代、若者が主人公になれた時代への痛々しい挽歌だ。

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▽13 先輩記者たちと「自己否定」をめぐって議論をした。その考え方は、「客観性」を装ったうえで成立するジャーナリストという職業をも否定の対象にさらすものだった。「お前は何者なのだ」という自己追究の問いに一度遭遇してしまうと、それまでの自分ではいられなくなってしまう。記者たちはみんな「ジャーナリスト お前は誰だ」と自問自答していた。
▽14 60年安保闘争のときは街頭闘争で敗れても大学という学問の場に守られているという安心感があった。しかし東大闘争に参加した学生たちは、その帰るべき学問の場そのものを懐疑した。大学は、権力や体制にそのままつながっている……
……「お前は誰だ」という自己懐疑をしつづけることが重要だった。ゴールのない永久懐疑の運動だった。
▽37 500円だけポケットに入れて1カ月間東京のあちこちを放浪する体験ルポ。ドヤに泊まり……沖仲士をやり……新宿のフーテンとほっつきまわり……(そんな取材ができた時代〓)
……自分の身分を明かさずウソをついてきたことがうしろめたかった。彼らは本当のフーテンだ。自分はふりをしていたに過ぎない……罪悪感。
▽42 週間朝日は保守的で、朝日ジャーナルやアサヒグラフは新左翼支持を打ち出していた。大学のバリケードにいくと「週刊朝日なんて帰れ」と取材拒否された。車内でも、ジャーナルやグラフのラジカルな記者に「お前のところは何をやってるんだ」とよく批判された。
▽51 死がたくさん、身近にある時代だった。……「多くの者がひとりの死者によってつながり、経験を共有するだろう。そこに死者の共通による暦の成立が可能になる。その暦によって私たちは自分の生と死を測るだろう」  京大生山崎博昭は「ひとつの同時代性を表現する死」になった。死が「私たち」の生の中心になっていった。
▽60 (記者は)権力の側から特権を保障されながら、気持ちだけは反権力の側にいる。その矛盾がいっこうに解決されなかった。(成田)……団結小屋は機動隊の手で次々に解体されていった。……その様子をジャーナリストは無言で遠巻きにしてながめていた。みんな重苦しく黙っていた。
▽72 「僕たちのことを取材するよりマスコミのなかで自分たちの反戦運動をするべきでしょう」と高校生に言われ、黙りこむほかなかった。「僕たちのことを記事に書いて商品にするだけでしょう。僕たちはそんなこと望んでいません」……仕事は放棄すると彼らに宣言した。(あつい。全身に刺が生えているような……〓)そのときのことをジャーナルの先輩に揶揄されてなぐった……
▽84 私が住んでいた町阿佐ヶ谷に「ぽえむ」という喫茶店があった。山内豊之さんという人の店。……東京五輪のあった1964年。現在のtokioの原点といわれる年。このころから町が本当に面白くなった。
▽95 山内さんは、ぽえむのおやじさん、としてよりも、日本珈琲販売共同機構という会社の社長として、チェーン店をもつ実業家として大きく成長した。あるエッセイで「ぽえむのおやじは偉くなってしまった」と書いたら、山内さんは「オレはちっとも偉くなってなんかいないよ」と電話で「抗議」してきた。
▽98 「反戦スナック」の取材のため、三沢のowlに1週間泊まり込む。……「お前等はそうやってハッピーにベトナム戦争反対をいっていればいいんだ。しかしそのあいだに戦争で死ぬのはオレたちなんだ」と米兵はからんできた。それまで誇りにしていた憲法9条が、そのときばかりはうしろめたいものに思えてならなかった。
▽106 あのころ、ベトナム戦争に反対することは、ひとつのたやすい「正義」だったのだ。(〓正義といえないアンビバレントなところの選択に人間の苦しみも価値もある)
69年から70年にかけて反体制運動は次第に過激になっていった。「世界のあらゆるところで戦争が起きているというのに自分たちだけが安全地帯にいて平和に暮らしているのは耐えられない、という、うしろめたさにつきあげられた焦燥感が生んだものではなかったろうか。(たんなる負け戦ゆえの袋小路ではなく、時代背景が……〓)
▽118
▽128 成田空港建設反対運動の取材では、TBSのジャーナリストたちが農民の武器を取材車で運ぶという「便宜」をはかったことが明るみに。「ジャーナリストはどこまで相手側にコミットしうるのか」が、反体制運動を取材するジャーナリストの日常の課題になっていた。
……「過激派」を取材したとき、彼らに取材協力費を渡したらそれは刑法上の罪に問われるのか。警察に追われている「過激派」とコンタクトをとったらどうなのか。彼らを1泊、家に泊めて話を聞いた場合はどうなのか。
▽135 新左翼運動にシンパシーを持っていた記者の多くが現場からはずされるという人事異動。とりわけジャーナル編集部の記者たちが異動の対象に。このとき、週刊朝日から、弱体化したジャーナルに移った。
▽145 襲撃を計画するK。凶器やヘルメットの写真まで撮らせてくれた。Kがここまでした以上、ここで私が「記事にするのはやめた」と仕事から降りてしまったら「ひ」よったことになる。Kとのインタビューをするべきか迷いに迷って……上司は反対したが……今更逃げられない……
▽149 殺された自衛官の警衛腕章とズボンをKから受け取りそれを処分してしまったことが「証憑隠滅罪」となった。
▽154 いっしょに取材した社会部の記者は、上司に言われて「警察にKのことを通報せざるを得ない」と言い出した。「自衛官殺害事件」は「政治犯の起こした事件」ではなく「一般の殺人事件」と判断され「ニュース・ソースの秘匿」の原則も適用されないことになった。……でもKを「裏切らない」のがふつうの人間関係のルールじゃないのか。……私は断固として「警察に協力しない」という態度をとることになった。私の心のなかでは、あんなにいかがわしい男でも、少なくとも私を「信頼」してくれたからには、それなりにそれに応えようという気持ちもあった。その判断はたしかに甘かった……。
▽164 朝日社内にあった新聞対雑誌の対立が、新左翼運動の激化にともなって、緊張したものにしていった。
▽168 警察の事情聴取。帰ると、デスクも編集長もいない。経緯を聞こうともしない。そのとき最終的にはもう自分個人の責任問題になるだろうと思った。「ジャーナル」の編集部が私を守ってくれることはもうないだろう。ましてや新聞社が私を守ってくれることもないだろう。(弾は後ろから飛んでくる〓)
▽170 全共闘に関しては、私的交流が許された。世論もジャーナリズムの反権力的姿勢にまだ寛容だった。全共闘運動は思想的にラジカルであっても行動的にはまだ穏やかであり、その行動が大学の学内に限定されていたからだ。それに「東大」が震源地だったからだ。知的エリートたちが自らの社会的意味を「自己否定」してゆく姿にはどこか清潔さがあった。しかし、政治セクトによる街頭行動、直接行動が前面に出てきてから、ジャーナリストと新左翼との蜜月時代は終わった。
武力闘争をスローガンにかかげる政治セクトメンバーと私的にまで交際することは「犯罪」に近いものになっていった。
▽172 Kとの独占インタビュー 「やはりジャーナルはアカイ」という無言のプレッシャーに負けて自主規制してしまったため、もうひとつは、社会部が、いちはやく警察に通報してしまったため、記事にできなかった。いま冷静に考えれば、インタビューをあの時点で記事にすればよかったと思う。警察に協力するかしないかの問題より先に、まず何よりもKとのインタビューを記事にすべきだった。そうすれば、読者の反応によって、朝霞事件が「殺人事件」か「思想犯の政治事件」かを、より深いレベルで議論することができた。
▽181 Kは、はたして私が事前に犯行準備を見たこと……を警察に話すだろうか。こちらは彼のことを警察に話さなかった。「通報」しなかった。その「信義」を守ってかれもこちらのことは出さないようにするだろうか……だがKは逮捕されすべて警察に話した。
▽190 「朝日ジャーナルの記者に逮捕状」という記事が前日に載った。
▽193 逮捕の前日、局長とホテルに泊まったが、なんの話もしなかった。彼が冷静ならば、夜を徹しても私に事情聴取をしただろう。「記者の逮捕」という異常な、ひとつの極限状況に呑まれてしまっていたのではなかったか……
▽195 連日の取り締まり。容疑事実を否認するほど、取り調べは長くなる……Kは、事実を話しているだけでなく、ほとんど私を彼らの仲間、同志としていることもわかった。……9日間「否認」しつづけた。(監獄でのやくざやストリッパーのはげまし)……10日目、容疑事実を認めた。敗北した。……この事件に直接関係のない(警衛腕章などを渡した)U君の名前を出してしまったのも彼との信頼を裏切ったことになった。……私の心の負担になった。
認めたあと、朝日新聞社が私を即刻懲戒免職にした……
▽205 (保釈後)他人と会うことがいやになってしまった。いろんなことから逃れるために毎日のように東京の知らない町を歩いた。……2週間たって決定的な事件が起きた。連合赤軍事件だった。……「連帯」や「変革」といった夢の無惨な終わりだった。夢みたものが泥まみれになって解体していった。自分たちの夢みたもの、信じようとした言葉がひとつひとつ死んでゆくのを黙って、呆然として、見つめるしかなかった。
▽208 「取材源の秘匿」というジャーナリストのモラルを守ろうとした。しかし、その基本的な問題からどんどんはがされてゆき、最後は「証憑湮滅」という犯罪に直面させられた。「記者」ではなく「犯罪者」になった。ジャーナリストのモラルより腕章を焼いたかどうかという事実のほうが重要になってしまった。記者のモラルというスタートの問題が忘れられ、私の性格の弱さとか記者としての未熟さといった個人の問題にすべてが還元されていった。そのことを考えると私はいまでも無念の気持ちを抑えることができない(〓西山事件も。後ろから弾の例も)
▽212 あの時代は「いい時代なんかじゃなかった」。死があり、無数の敗北があった。しかしあの時代はかけがえのない「われらの時代」だった。ミーイズムではなくウィーイズムの時代だった。誰もが他者のことを考えようとした。ベトナムで殺されてゆく子どもたちのことをわがことのように考えようとした。……

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