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日本文化の形成<宮本常一>

■日本文化の形成<宮本常一>講談社学術文庫 2011121226

 絵巻物や民話、伝承を分析し、自ら全国を歩いて見聞した事実とつきあわせ、縄文以来の日本の文化の変遷を解き明かす。縄文文化の名残が明治の家の形にまでつづき、海洋民としての倭人の家の形は昭和にまでつづいている……。文献や資料を渉猟する考古学と、口承文化を調べる民俗学と、熟練の旅人の観察眼とをあわせもつ宮本ならではの論考には圧倒されるばかりだ。

 コトシロヌシやエビス神は漁民の神という印象だが、古くから日本列島に住み狩猟や漁労にしたがう縄文人がエビスとよばれ、それがエミシに転じたのではないかと推測する。
 エビスたちが住む日本にコメをもたらしたのは、南方系の海洋民だ。魏志倭人伝に登場する人々は、海にもぐるのが得意で、稲や麻を植え桑を栽培していた。倭は朝鮮半島南部なども含まれていた。彼ら倭人がもたらしたのが弥生文化だった。
 大和朝廷は南北朝の南朝の影響を受けていたから高床式家屋をたてた。神社の神殿が高床になのも、東南アジアの稲作地帯と共通している。源氏物語絵巻の寝殿造りの壁は御簾だけで寒々としているが、これも南からもたらされた住様式だ。
 一方、ツチグモ(縄文系)の流れである土間住まいの様式は東日本では明治までつづく。明治維新のころ、秋田や山形では6割が土間住まいで、北陸も土間住まいが多かった。長野県奈川村では明治5年には全村土間住まいだった。
 律令国家をつくった古墳文化の人々は、エビスでも弥生人でもなく、その後に大陸から来た強力な武力を持つ人々だった。ただ「騎馬民族襲来」ではなく、武力を持った者がじょじょに渡来し、やがて結束して武力統一し律令国家への足場を作ったのではないかと見る。

 柳田国男が説いた、中国から沖縄をへて日本へとつなぐ「海上の道」については、宮本は否定的だ。南西諸島をへて中国につながるルートが活発になるのは、白村江で敗れて朝鮮半島経由を使えなくなって以降だからだ。江戸末期の琉球の米は赤米であり、九州南部や高知が赤米産地だったことを考えると、赤米は琉球列島沿いに伝わったとみられるが、これも遣唐使が南島路をとるようになったことと関係があるという。
 原始的な農業である焼き畑づくりも、渡来人の影響が大きいという。
 山を焼いてワラビやクズの根を掘るのは自然採取からの発達だが、焼跡にソバ・ヒエ・ダイコン・カブラ・サトイモ・マメなどをまくのは大陸由来だとする。四国や近畿の焼畑はサトイモが多いが、日本海側では里芋のかわりにダイコンやカブラを作った(ダイコンは主食のひとつ)。日本海側の焼畑技術は、朝鮮半島経由で渡来したものだった。
 そもそもハタという言葉じたい「秦」から生じており、この人たちがハタ耕作を伝えた。渡来人が定住したと思われる郷名は、狛江、葛飾、新座、児玉、服部、桑名、諏訪、石川、滋賀、西成、安芸……などがあり、秦人は6世紀中頃には10万人を超えていたという。

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▽13 住み着いてはつぶれ、移動する村々。飢饉で無人の地域になった下北半島。そこに大阪あたりから住み着く家もあり、……「イセキをついだ」という言葉は残っている。空家・絶株になったあとをついだもの。
▽14 元禄頃にあった家が、そのまま現在まで続いているという例はきわめて少ない。元禄を目安にしたのは、その頃から寺の過去帳が整ってくるから。
300年も続いている家系というのは、300年前の住民のだいたい1割程度というのが普通のようだ。あとは他へ移ったか、絶えたかである。
 東北地方太平洋岸に鹿島御子神をまつった社があるのは、常陸の鹿島神宮を信仰する人たちの北上をものがたる。さらに熊野神社の広い分布は、これらの神をまつる者は南のほうから来たという伝承をもっている者が少なくない。
▽18 日本の原始時代に土器が多かったのは、煮て食べるものがあったから。まず貝類。煮ることによって二枚貝なら蓋をひらく。そのほかは植物性のもの。煮ることによって灰汁を抜き、やわらかくできたのでは。海草類も煮ることで食用になったのでは。
▽22 弓はどこから日本列島にもたらされたか。先土器時代の北海道の石器はシベリアと共通するものが多い。シベリアから北海道に入り東北各地に広がったルートもあったのでは。(朝鮮半島以外に) 縄文文化時代の人口は、東北日本の密度が高かった。技術的にも高かったのではないか。
▽25 日本書紀 東国は濃厚に従わず、縄文文化以来の狩猟・採取の人々が多かったことがわかる。
▽26 コトシロヌシ エビス神。これをまつるのは漁民仲間が多い。が、奈良県の山中にもまつられていた。鴨とよばれる部族が住み、のちに山城にうつって賀茂となる。もとは鳥類を捕らえることを生業としたもので、狩猟民であったと思われる。……古くから日本列島に住んでいて、狩猟や漁労にしたがっている人々がエビスとよばれたのではなかったか。
 ……鳥をとる網。川などにはれば魚をとれる。狩人はまた漁民であることも可能だった。
▽32 早くから定着したものを、日本書紀や風土記では国〓ず、土蜘蛛といっている。竪穴に住んでいたからではないか。
 ……日本列島は古くはエビスや土蜘蛛の世界であり……大陸文化の影響をうけ、統一国家を形成した者には古くからの文化を持続してきた人々が異種異民として映ってきたのではないか。その人たちを「えぞ」とよばねばならなかったのは、エビスという言葉が民衆社会にひろく生きていたためではないか。
▽40 日本の稲の原産地。揚子江の上流地域で栽培されはじめた稲が河口付近に伝播するまでに4000年。……日本に渡来した稲作の遺跡が乾田。短粒稲は乾田栽培に適していた。……
▽47 日本文化の海洋的性格 魏志倭人伝 魚や鰒をとらえることが得意で水中に潜っては……衣服は衣の中央に穴をあけて頭を貫して着ている。稲や麻を植え、桑を栽培し……。倭人は海にもぐるのが上手で入れ墨をしている……・南方文化の影響の強い倭人の姿をえがく。
 律令国家の主導力になったのは、縄文文化人の後えいでもなければ、稲作をもたらした者でもないようである。それらの人々は、土蜘蛛とかクズとか海人などとよばれており北方に住む者はエミシとよばれている。これらを統一して国家を形成したのは、海の彼方から強力な武力を持って渡来してきた人たちであったと考えられる。でなければ、大和朝廷を形成した人々と土蜘蛛たちの間に見られる断層を理解することはできない。
▽54 倭は、朝鮮半島の国々と「接して」いた。朝鮮半島南部に南方から植民した倭人を、日本側からは「任那」といったのではなかろうか。
 朝鮮半島を経由して大陸内部から渡来する人々の前に、南の海から日本列島へ渡来してきた者も多かった。この人たちがもたらしたのが弥生式文化ではなかったか。海洋性の強いものであるとともに、稲作をもたらした。それに鉄文化が付随していた。
 集落の付近に水田をもつことで「アガタ」という言葉が生まれたのでは。県の字があてられているが、もともとは吾田であろうと思われる。
 水田農耕の技術をもつ人々の多くは、船を家にしていたのではないか。船住居の人々は鵜を利用して魚をとる。江南からもたらされた技術では。
▽62 済州島。女だけが潜るが、古くは男女ともに潜っていたとみられる。儒教浸透によって男女ともに潜ることがなくなったといわれる。……古くは船を家としていたのでは。
▽65 軍隊を組織して日本を攻略したことはなかったのではなかろうか。朝鮮海峡の交通は倭人によって把握されていた。武力によってしたがわしめようとすれば海人たちは船で逃れ去ったにちがいないが、そのような伝承も記録もほとんどない。
(〓騎馬民族説を示す伝承はない、なるほど、同時に武力統一の必然も)
 ……大陸の文化は半島倭人の手でもたらされ、そういう力が凝集してやがて武力的な統一をおこなったのでは。武力を持った者がじょじょに渡来し、やがて結束して律令国家への足場を作ったのではないか〓
▽70 550年ごろ、倭人も南方的な服装をしている者が多かった。弥生式文化と古墳文化は同じ大陸からの文化であらいながら、渡来の経路がちがっていたのではなかったか。弥生式文化は稲作をもたらしたが、武力をともなわない文化だった。
 しかし、朝鮮半島を経由して来た文化は武力的要素をもち、武力による国家統一を進めて行った。
▽74 狩猟や漁労を生活手段とする者は、公益を必要とし……モヨロ人と縄文人の交流。北方諸民族の影響をうけた縄文文化人の後裔たちを、のちにアイヌとよぶようになったと思われる……蝦夷は大和朝廷の圧迫をうけても、孤立していたのではなく、北方諸民族との交渉があり、中国とも交易し、鉄の入手も比較的容易だったと見えて……
 大和朝廷の文化に馴化していったものは熟蝦夷とよび、次はアラ蝦夷、遠いところにいる者を都加留(つがる)といった、北海道の蝦夷たちは朝廷文化の影響をうけることが少なく、やがて異民族として理解されるようになり、アイヌという呼称さえおこってくる。
▽82 「海上の道」を否定。沖縄島には北からの文化の影響をうけていたとみられる遺物が発見されている。琉球語と京都方言は1450年から1700年前にわかれたものではないかと推定。もともと同じ言葉であったmのが、ひとつは東へ行き、ひとつは南へ行った。その分離したところは北九州だろうと考えられる。その頃まで九州と琉球の間には北から南へのつながりが強く見られたのではないかと思う。
▽86 白村江でやぶれ、百済が滅亡し、朝鮮半島経由を使えなくなって、南島路が工夫された。柳田国男がいうように宝貝をまぐって中国と沖縄の間に交通がひらけていたかもわからないが、沖縄を経由して日本にいたるということは考えられなかったろう。安全な航路が朝鮮半島南部をへて日本に通じていたからだ。
▽97 15世紀中頃までは、先島は南洋−フィリピンにつながる文化圏に属していたのではないか。南から九州にたどりついた人たちの文化が在来の日本文化を大きく変えるほどの力は持たなかったように思う。
 ペリーとともに日本を訪れたモロー博士。琉球の米は赤米をつくっていた。おそらく赤米は、琉球列島を経由して入ってきたものが多かったのではないか。日本で赤米がもっとも多く作られていたのは鹿児島と、熊本・宮崎の南部、高知県などだった。琉球列島沿いに日本列島にひろがったことを暗示するものだ。
▽101 吉事に小豆を入れた赤飯を作るのは、もと吉事に赤米をたべたことに由来するものではないか。……中国では唐の時代に赤米が多く用いられるようになるとともに、南島路を経由して日本に達したのでは。遣唐使が南島路をとるようになったこともかかわりあいがあると考える。
□畑作の起源
▽109 下北では大正時代までさかんに野焼きがおこなわれ、はえたワラビの根は秋になって掘ってでんぷんをとった。そんな慣習は秋田県、長野の乗鞍岳でも。東北・北陸の焼畑では、古くはみなダイコン・カブラを作っていた。サトイモなども焼畑につくるとエグミが少なくなった。
 狩猟民だけでなく、木材を利用する人も焼畑の耕作で食料を得たのでは。白山麓の村々は焼畑がさかんだったが、この山地は鍬の棒をとっていた。
 吉野のスギ造林のためには、雑木を伐採して焼き、2、3年は畑としてソバ、ヒエ、マメなどをつくり、そのあとへスギを植える。
 ……武蔵の国名ムサシの「サシ」は焼畑を意味する朝鮮語だという。東京の指ケ谷ももとは焼畑をおこなっていたのでは。相模もサシガミから来たのではないかという。東北ではカノ、カジノ。中部ではゾーリ、ゾーレ。静岡・奈良・九州の山地ではヤブ・ヤボといっている。中国地方ではキハタの言葉をきく。
 山を焼いてワラビやクズの根を掘るような作業は、自然採取から必然的に発達していったものと思われるが、焼跡にソバ・ヒエ・ダイコン・カブラ・サトイモ・マメなどをまくということは、これらの作物は大陸からわたってきたものが多かったのでは。

▽117 中国の黄河流域中心の古代国家。生産的基礎をなしたのは畑作で、もちきび・ウルチキビ・アワなどを重要な食物とした。
 焼き畑でも四国や近畿・中部はサトイモを作ることが少なくなかったが、日本海斜面の焼畑ではほとんどきかに。そこではダイコンやカブラを多く作った。ダイコンは主食のひとつだった。……日本海斜面で作られているものは、朝鮮半島を経由して日本に渡来したものではないかと思う。
▽121 に本で焼畑と定畑を発達させていった人は、朝鮮半島を経由して日本に渡来した人々ではなかったか。陸田をハタとよぶ言葉。秦の字もハタとよぶ。ハタ耕作を伝えたのがこの人たちではなかったかと考える。
 秦人は6世紀中頃には全国に7000戸をこえるほど分布。人口では10万人をこえていたと見ていい。
 渡来人が定住したと思われる郷名を「倭名抄」からあげると……狛江、葛飾、新座、児玉、服部、桑名、諏訪、石川、滋賀、愛宕、西成、安芸、佐伯、温泉、……
▽147 木地師。正倉院文書の愛智郡関係の文書に署名している住民のほとんどは秦氏。
▽154 平城京の木簡ではムギが比較的多い。ところが魏志倭人伝には、、ムギのことはない。朝鮮半島からの人々の渡来が相次ぎ、とくに秦人の渡来にともなって定畑が発達し、ムギが作られるようになったのではないか。……ヒエやアワは、はじめは焼畑に作られていたと思われ、おそらくもっとも古い作物のひとつではないか。……万葉集では、アワのまかれたところは岡や山、野辺であって畑とはいっていない。8世紀ごろまでは、焼畑で多く作っていたものではないか。……阿波や安房は、もとアワを多く作っていた地帯だったと考える。アワは安房付近から西へかけての重要な作物であった。「常陸国風土記」に「今夜は新粟の新嘗の物忌みの日だが」とある。重要な物忌みの祭は稲ではなくアワの収穫祭の物忌だった。
 定畑の発達には、水田とおなじく鉄器が必要であった。
(〓神話や歌の内容から当時の生活を読み解いていく)
▽162 陸稲は、秦人のもたらしたものではないか。秦人のまつった稲荷神社の稲はノギ(のぎへん)だったのではないか。陸稲栽培を司る神として祀られたのが稲荷神社だったろう。
 短粒米は揚子江付近から朝鮮半島南部をへて日本へ。長粒系の赤米は琉球列島を北上して日本へ。陸稲は朝鮮半島の奥部から南下し、主として秦人によって日本にもたらあれたものではなかったか。
▽172 山口県の見島。古くから浦と地方(じかた)にわかれ、地方浜取りが田の字型で引き戸のついた家に住むが、浦の者は並列型の間取りの家に住み、蔀戸(上下2枚になっていて、上の方は吊り上げるなり、押しあげるなりすると庇のようになり、下は縁になり、商品をならべる店棚になる)がついている。船は梁によって表の間、胴の間、艪の間にわかれている。それが陸住の形をとったのが漁民の家なのだろう。
▽176 もともと日本列島の人間は土間住まいがほとんどで、竪穴式が多い。そして円形が多かったがが、弥生時代になると円形から方形になり、古墳時代になると平床で壁をもつ家も出現する。土間住まいの様式はずっと後まで残り、明治維新のころには秋田、山形では6割までが土間住まいだったといい、北陸も土間住まいが多かった。長野県奈川村では、明治5年の調査書に、全村土間住まいで、床があるのは名主と宿屋2軒のみと報告されている。明治16年には床のない家はほとんどなくなった。一般の農家が床を持つようになったのは、東日本ではかなり新しいことだった。
 西日本の方は床のある家が多かった。
▽180 朝鮮半島南部海岸付近は倭人の植民地であり、ここに住みつくことで鉄を得、稲作によって生活をたてる方法を見出し、海をこえてきた北九州にも植民するようになったのだろう。
 騎馬民族が進攻したとしたら、古事記日本書紀にはそのような記事はほとんどない。半島側にも日本側にももともと倭人がおり、倭人の船を利用して渡来する者が多かったからではないか。
 南北朝の南朝の強い影響を大和朝廷はうけていた。それを物語るのは高床式家屋。これは東南アジアに多い.高倉は、稲作の渡来とほぼおなじ時期につくられはじめている。高倉は秀倉(ほくら)ともいったのではないか。神はホクラに祀った。それが祠に転じた。日本の神社の神殿はほとんど高床になっている。神聖なものは高所において守る、という考え方は、中国北部のものではなく、東南アジアの稲作地帯に見られる。稲作を日本にもたらした人々の思想と文化。
▽185 源氏物語絵巻の寝殿造りは、誠に寒々としている。内外の障壁は御簾をたらしただけ。南からもたらされた住様式だ。朝鮮半島の住居などとおよそ違う。……引き違いの板戸や襖や明かり障子などで寒気防げる書院造りの発達するのは平安後期から鎌倉時代だ。
 祭祀にかかわる殿上人は、土にふれないようにした。これは北方文化ではない。
 一方、仏教寺院に床がつきはじめるのは平安時代に入って観音信仰がさかんになり、阿弥陀堂建設が進んでから。鎌倉時代になると仏寺もほとんど高床をもつようになる。
 鎌倉後期の一遍聖絵では、民家は土間をもち、同時に座敷をもつ。ところが武士や寺院、神社は床のみで土間をもっていない。
▽187 漁村に便所のない家をよく見かけた。船にも便所がない。その習慣を陸にもちあがって、大便などは海へ尻をむけてしているのを戦前は見かけた。
▽189 新羅が半島を統一して、南島伝いや、東シナ海を横切る航路がとられるようになる。南島路は、中国と結ぶだけでなく、さらに南方の島々の文化をもたらすことに。
 幕末の頃、赤米が一番つくられたのは、大隅、薩摩、肥後、日向、土佐であった。
▽191 糸満の漁民は、男だけが海にでる。活動範囲はアフリカのザンジバルから東はハワイにおよび、サバニという小船で航海した。

□年表
19歳から3年間、1カ月1万ページ読破。
昭和26年、44歳で時国家の調査。
「瀬戸内海島嶼の開発とその社会形成」(1959)。自らの意志で進んでかいたのはこの書物だけ。〓

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