メコン 20060417 |
▽テト攻勢 指導部が期待した都市部の民衆蜂起はおこらず、解放勢力は軍事的に大きな損失を被った。北ベトナムからの補給にいっそう依存せざるを得なくなり、政治・軍事闘争においても労働党の指導性が高まることになった。
▽戦争が終わり、1978年に南部では私営資本改造政策が開始され、個人経営はすべて排除され、農民は合作社で集団で働かなければならなくなった。反抗すると逮捕され、刑務所に入れられる。
▽戦争では、指導者も兵士も喜び悲しみを共有する。貧しいが温かみのある食事をする。だからこそ、党は戦争に勝利するための民族団結を図ることができた。しかし、戦争が終わると、党幹部たちは2階で豪華な食事をあてがわれ、幹部の汚職とたたかう兵士や記者たちは1階で乾いた赤米を供される。
▽ベトナムには400以上の新聞と60の放送局や地方テレビがある。…ドイモイ以降は物事の両面を書けるようになり、メディアは社会問題と戦う武器としての役割を担うようになった。体制の打倒を呼びかけない限りは、比較的自由に書くことができる。副首相の引責辞任に貢献したこともある。
▽補助金制度バオカップは、ドイモイ後は、失敗を象徴する言葉になっている。指導的立場の党官僚が経済運営に不案内で、なおかつ外国援助に慣れきっていたため、戦争後も改められることなく10年間も継続された。今日でも、外国からの支援を当然と受け止め、外国政府やNGOによる援助と、企業による投資を区別する意識が薄いが、その要因は戦時からのもらい慣れの体質である。
▽子どもたちを監禁し、管理し、生きながらえる程度の食べ物を与えるだけの檻。教育者への賃金も足りないから、優秀な教育者が育たず……。公共の福祉施設は貧しい青少年の監視をするだけ。
▽人民軍の姿 不屈の戦いに身を投じた英雄と描かれてきた。逃亡兵は配給停止され住民登録抹消される。親が植民地政権協力者という履歴があるため大学に進学できない人も。
▽文学 抗仏戦争の間は、「芸術と宣伝は違う」と、議論できる雰囲気があった。作家の主体性は保たれていた。抗米戦争のころにはこれが失われる。62年以降は文芸は党のために機能するものと決められた。毛沢東の延安での文芸談話(42年)「・・・芸術基準より政治基準を優先しなければならない」が、ベトミンの文芸方針として導入されていたことが背景にある。
▽戦後、社会主義改造が挫折する。失敗の原因は戦争の後遺症にあり、政策に間違いはないと強調する。そうした社会にあって、文学は「春の大勝利」の賞賛に酔いしれたあと、戦時中さながらの英雄主義、楽観性から抜けられなかった。その結果、戦争中うには「飯より詩のほうが必要」と求められた文学が、すっかり関心を失われてしまった。
善悪二元論から、味方軍の犠牲もすさまじかったこと、敵もただの愚か者ではなかったことを描くようになる。さらには、戦争には勝者も敗者もなく、戦った当事者が同国の者どうしだったこと
■日本からみたベトナム
▽ベトナム周辺の同盟国に戦争に協力させるには、政権基盤を経済成長によって強固にする必要があった。高度成長を続ける日本に各国への支援の肩代わりを求めた。1965年の日韓基本条約はその典型で、日韓国交正常化交渉がこの時期に妥結した背景には、アメリカの強い意向が働いていた。
▽沖縄返還もベトナム戦争と結びついていた。交渉の過程で、「ベトナム戦争で日本がもっと協力的になること」を「日米間の貿易赤字緩和」「日本が韓国、台湾、インドネシアなどに援助するため2億ドル投じること」と並んで返還の3条件として米国は日本に提示した。
▽「日本人なら、第二次大戦の日本軍の工作活動を取材したら」
■アメリカにとってのベトナム戦争
▽反戦運動 民主党リベラル派にかわり(チョムスキーら)ラディカル派が発言力。
ベトナムの教訓 コリン・パウエル 「戦争にいくときは、国民が理解し、支援する目的がなければならない。ベトナムでは、生半可な気持ちで中途半端な戦争に加わり、国民の半数は反対か無関心なままだった」
湾岸戦争 イラクを追撃しなかった。戦争の拡大・長期化によって世論の支持を失うことを過敏なほど気にした。世論の支持がゆらいだとき軍隊の志気・作戦行動に深刻な影響がでるというワインバーガーの原則、パウエルの懸念をスコウクロフト補佐官理解していた。彼は、息子ブッシュがイラクを攻撃する際、もっとも明確に反対の声をあげた一人だ。
イラク戦争 ブッシュは「私は爆撃目標を決定しない。勝利を確保し、米軍を守るために爆撃が必要な目標について、君に報告してほしい」とフランクス司令官に述べた。ベトナム戦争中、マクナマラ国防長官は北爆を実行するたびに、爆撃目標1つ1つについて、自ら詳細に検討し、認めるべきもの、べきでないものを区別したうえ、ジョンソン大統領に提出して決裁をあおいだ。作戦の中枢となる事項について、軍人任せにせず、政治家が最終的に決定を下すべきだという信念からの行動だった。
ところがブッシュは、大統領が自ら爆撃目標を選択したことを「反面教師」と考えていた。一方、制服組にとっては、大統領に詳細な説明をしておくことが、ベトナム戦争の教訓だった。から、令官は詳細な報告をつづけた。
米政権内での官僚機構での責任の押しつけあの構図。ベトナム戦争中の指導者が共有していた、たとえ空爆するにしても、民間人の犠牲者は一人でも減らそうという緊張感や、軍を独走させないよう文民統制を最大限に維持しようという責任感は感じられない。
それどころか、ベトナムからブッシュ政権がまなんだもう一つの教訓は、相手側の犠牲者数を数えないこと、だったという。
■周辺諸国にとって
▽タイ 米軍が大量に送り込まれることで、巨大な軍港ができ、……1950年代までの「眠気を誘うような」バンコクに、米兵目当てのゴーゴーバーやマッサージ店が登場し、バッポンなどの歓楽街も生まれた。漁村だったパタヤも、近くに巨大米軍施設ができたため一大リゾートに変身した。
▽カンボジア
ポルポトらのカンボジア人民革命党が小規模な反政府武装闘争をしていたが、ベトナム解放勢力はシアヌーク殿下との協調による抗米戦争を優先し、友党による反政府闘争に手を貸さなかった。これが後にベトナムとポルポト派の関係悪化を招く一因になる。
70年、ロンノルがクーデター。シアヌークはロンノルとこれを支援する米国に対抗して「民族統一戦線」を結成。ポルポトらもこれに加わる。米軍がカンボジア侵攻によって戦火は全土に広まる。
内戦初期、実戦での反ロンノル勢力の主役は、ベトナムの解放勢力だった。しかし73年のパリ和平協定によって、実戦支援は終結し、駐留部隊をひきあげる。これを機に、ポルポト派によるクメール・ベトミンとよばれるカンボジア人グループの粛清も激化し、主導権をポルポトが握る。
▽中国 全面的にベトナムを応援しているようにみえたが、実はずいぶん前から齟齬があった。