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新聞記者という仕事 <柴田鉄治>

 集英社新書 200705

昔は新聞は野党だった。反戦平和は当たり前だった。読売・産経でさえもそうだった。ベトナム戦争のころもそうだった。新聞が輝いていた時代である。
野党精神の足並みは70年代に入って乱れ、まず産経新聞が自民寄りになる。80年代に入って、読売がレーガン・中曽根政権支持を打ちだす。
いまや、アフガン戦争は朝日・毎日をふくめて全新聞が容認した。朝日は「限定ならやむを得ない」と書いた。
自衛隊派遣も「待った」の声がかからない。そんな空気を見抜いてか、政府も最初は見送っていたイージス艦の派遣を、方針変更してあっさり実現させた。さらに02年には有事関連3法案と、報道の自由を制約する内容を含む個人情報保護法案と人権擁護法案をあいついで国会に提出した。
新聞が反権力の立場をつらぬき、輝いていた時代があった、ということが、今や信じられない。いかに劣化してきたか、長いスパンでみるとよくわかる。

--------抜粋・要約---------
▽ 東大新聞研究所→社会情報研究所に。毎年50人を募集している「研究生」。社会人でも受け入れられ、毎日授業があって2年間で修了証書も出すが、修了しても何の資格も与えられない。
▽ 南極観測 朝日の提唱
▽ 69年の欠陥車キャンペーン。メーカー側は、ユーザーユニオンの代表と弁護士を恐喝罪で告訴し、検察庁も強制捜査に乗り出し、報道の中心になっていた伊藤正孝記者からも事情聴取。「検察が問うべきは、欠陥車を放置してきたメーカーのほうではないか。ひるがえって、武富士からは賄賂のような金を受け取り、腰のひけた報道に終始し、松下には詫び状まで書いてしまう「今」
▽ ロス疑惑は、通常のニュースでは扱わず、ワイドショーとは区別していた。
95年の地下鉄サリン事件後のオウム報道は、ニュースや報道番組までオウム一色。虚実とりまぜ、過激に。エボラの映像とオウム幹部がアフリカを訪れた映像、強烈なウイルスによって人類絶滅の危機に直面する劇映画の場面とサリン事件の映像などをつなぎあわせて、「オウム教団がエボラ出血熱を生物兵器に」と推測する番組を複数局が放映した。
▽ 拉致被害者 救う会や家族会の了解なしに個別取材したメディアが激しく非難される状況に。……もともとメディア・スクラムを心配するあまり、取材を自粛しすぎて自ら多彩な報道を怠ってきたのではなかったか。……曽我ひとみさんの家族を雑誌「週刊金曜日」が取材して報じたときは、激しい非難が巻き起こった。
▽ 記者クラブ 新聞協会は62年に「記者クラブだけの協定は、これを認めない」との方針を打ちだしたが、協定は増え続けたため、妥協して78年に方針を修正した。「取材活動の円滑化をはかるため、若干の調整的役割を果たすことが認められる」とした。この際、新聞協会は「ただし書き」をつけ、「調整機能が拡大・乱用されることのないよう厳に注意すべきである」「他社の自由な取材、報道活動を尊重し、いやしくもその行動を阻害・規制するかのような協定・申し合わせ等は行うべきではない」と歯止めをかけた。しかし、ただし書きはどこかへ吹き飛んでしまった。
▽ 朝日の福島支局「木村王国……」 吉田記者のすごいところは、事件を追うなかでたまった膨大なメモをひとまず脇において、1から取材をやり直していったことである。「という」「といわれる」という伝聞表現を一切使わず、「であった」と言い切る表現で通した。普段の事件記事では「地検は」「県警は」といった言葉でしか語られない捜査陣も、すべて生身の人間として実名で登場させた。
▽ 89年の朝・毎・読の「3大虚報」 朝日のサンゴ。毎日は「グリコ事件、犯人取り調べ」。読売は「宮崎のアジト発見 小峰峠の廃屋」。どれも「虚報」
▽ 朝日・読売の憲法対決 同時多発テロ後。国連のPKOなどに派遣するのは、自衛隊とは別組織の「平和支援隊」をつくってあたれ、としていた主張を引っ込めて、自衛隊の中に専門の部隊を設けよという方向に転換させた。
▽ 各新聞社の電波獲得競争がどれだけ激しかったか。郵政省記者クラブには、取材記者という名目で、各社の電波政策の尖兵たちがたむろしていたといわれる。本来ならそのことだけでも、テレビの系列化はやめるべきだと気づかねばならなかった。
(ゴルフ場反対という記事を書いたら、テレビの株主になるゴルフ場オーナーがヘソを曲げた。高速道路2車線化。エコゴルフ場などという「やらせ」記事を書かされた記者もいたとか)

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