講談社現代新書 20070509
内田樹の入門書とならぶくらいわかりやすい構造主義の入門書だ。
リンゴという実体がまず存在するのではなく、「リンゴ」という言葉によって、リンゴが世界が切り取られ、認識される。リンゴと梨の区別をつけるか否かは「実体」のちがいではなく、文化のちがいでしかない・・・というソシュールの考え方に、レヴィストロースは影響をうけている。
未開から近代へという歴史主義的な見方は、原住民社会を劣っていると決めつけ、ある場所に別の場所と同じものがあると伝播したと信じる。そうした態度への批判から、ある習慣がその社会でどんな役にたっているかを考える機能主義人類学がでてくる。ところが、「機能」では説明しきれないインセストタブーなどの現象がみつかり、構造主義人類学が生まれることになる。
そこでは、価値があるから交換するのではなく、社会とは要するに「交換すること」であり、交換されるから「価値」が生じる、というモースの思想の影響を受けている。
贈り物としての女性を、内部で味わってしまっては、交換システムがなりたたない。だから親族(女性交換システム)がなりたつためには、インセストタブーが必要なのだと解明する。
神話分析では、テキストを切り刻み、要素をならべかえ、「構造」をあぶりだす。だから、構造主義の洗礼をうけるとどんな権威あるテキストも成立せず、神も消えてしまう。「人間は自由な主体で、社会は主体の集まりで、すべてはそこからはじまる」という欧州の知の伝統を支配した主体の形而上学も解体することになる。
上記のような説明は類書にもあったが、この本のおもしろいのは、数学との対比だ。
数学の基礎はユークリッド幾何学であり、そこからニュートンの古典力学などは生まれる。ところが、絶対的な空間や時間があるという考えることじたいがおかしい、観測結果は観測者の運動によって変化する、という相対性理論がでてくる。そうなると、宇宙空間は湾曲していることになり・・・唯一の真理と思われてきたユークリッド幾何学が揺らぎ、「真理」にみえるのはある知のシステム(構造)に閉じこめられているのに、そのことに気づかないからではないか、という反省がおきる。社会科学にもこれが波及し、「真理を手にしたつもりで、実は制度=構造に安住していただけではないか」と考えられるようになっていったという。
遠近法は、ひとりの視点(主体)から見た世界を忠実に表現する方法であり、「射影幾何学」は視点があちこち動き回る(主体のちがいが無視される)ことで「構造」を浮かびあがらせる。さらに、位相幾何学の段階になると、直線もなにもなくなるから、ピカソの絵のように、正面と横顔と、複数の視点からの像をひとつの画面に統合してもよいことになる。遠近法を伝統的な哲学になぞらえ、射影幾何学や位相幾何学やピカソの絵を「構造主義」になぞらえる。
なるほどなあ、と思いつつ、混乱しつつ、いい刺激になる本だった。
(モースと、柳田民俗学の宝貝の話との共通点)
------抜粋・要約--------
▽マルクス主義はユダヤ教と同じで、社会全体が一度に救済されることをめざす。が、欧州の人間はキリスト教を通過しているので、個性や自由に価値をおく。マルクス主義のいうことはもっともだけど、そこで私の生きる意味は? と思う。
サルトルの実存主義は、人間の存在なんてもともと理由のないことだったはずだ。どうせそうなら、歴史に身を投じることに賭けてみようではないか、と答える。
この考えは魅力的だが、その前提として歴史の存在を信じなければならない。
構造主義はこの点に対してNOと言った。マルクスの言うような歴史など、ヨーロッパ人の偏見にすぎないと。
レヴィ=ストロースの思想は、ヨーロッパ世界がマルクス主義の影響を脱するときに現れるべくして現れた。
▽「悲しき熱帯」 ヨーロッパを中心とする時代の終わり。西欧中心主義、理性万能主義が解体にひんしていること。マルクス主義のかかげた希望が紙屑となりはててしまったことを宣告するものだった。
▽レヴィ=ストロースは哲学を勉強したがやめて、ブラジルへ。3年間。人類学者なのに、あとにも先にもこの時しか調査らしい調査をしていない。彼ほど哲学的素養をそなえた人物が、人類学者となって現地調査をしたのはおそらく初めてだったのでは。
▽ソシュール ある言葉が指すものは、世界のなかにある実物ではなく、言語が世界から切り取ったもの。言葉が何を指すかも、社会的・文化的に決まっているだけ。。=恣意性。
シニフィアン(音) シニフィエ(意味) が結びついて記号になる。
言語や記号のシステムのなかには差異(の対立)しか存在しない。ある野菜の価値が、それ自身によってでなく、市場のなかでほかのものと取り結ぶ関係によって決まるのと同じ。
▽機能主義人類学
それ以前は「歴史主義・伝播主義」。社会は未開から西欧近代化にたどりつくという考え。原住民社会はどこかが劣っていると決めつける。またある場所に別の場所と同じものがあると、伝播したにちがいないと信じてしまう。
機能主義はこれに反発。ある習慣がその社会のなかでどんな役に立っているのかが大切だ、という。ソシュールが歴史主義の言語学に反対したこと、言語を共時態(記号のシステム)としてみるように提案したのに似ている。ところが、「機能」では説明できない現象がみつかる。
▽レヴィ=ストロースは、ヨーロッパの教養や知性を脱ぎ捨て、裸になりきって、インディオの見方で、インディオ自身もヨーロッパも考えていけることに気づく。
片方の頭では、ヨーロッパの見方で原住民をとらえる。もう片方の頭では、原住民の見方で、ヨーロッパをとらえる。双方の世界をまったく同じ土俵のうえでとらえる。
機能主義人類学のやりかたでは、機能といっても、ヨーロッパ的発想でしかない。人類学者のものの見方にあわせてインディオ世界を切り刻む形になってしまう。逆に、ヨーロッパ的発想を根こそぎ揺さぶるような方法があってもいいじゃないか。
▽モースの贈与論 貝殻の交換をする理由は、それが大事な宝物だから、という。実は反対に「交換されるから価値がある」。社会とは要するに交換することであって、交換されるものに「価値」がそなわっているとしか見えなくなる。
▽贈り物としての女性 女性そのものの価値を直接あじわうことができるようだと、交換のシステムがなりたたない。だから、女性交換システムが成り立つためには、同じ集団のメンバーにとって、女性の利用可能性が閉ざされなければならない。これがインセストタブーだ。これは本能でもなく、意識的に学習できるものでもない。このタブーがどんな社会にも見つかって普遍的なのは、それが社会に必要な根本的能力だからである。
▽デュルケーム ヨーロッパのような分業体制を「有機的連帯」とよび、分業が発達していないインディオのような社会を「機械(おざなりな)的連帯」と呼んだ。
レヴィストロースはこれに疑問をもった。必要があるから交換があるのではなく、交換のために交換がある。人間は「交換する動物」なのだ。女性や物財を交換するのは必要に迫られたことじゃなくて、それが人間らしいことだから。
こうした交換は、デュルケームにも、機能主義人類学にも、下部構造が上部構造を規定するというマルクス主義の考え方にも打撃を与える。人々の利害なんか、交換の動機になっていない、というわけだから。
▽神話分析 「野生の思考」★
テキストはふつう言いたいことを読みとる。ところが彼の神話学は、テキストを字義どおりに読まない。ほんとうの「構造」は表層の下に隠れている、とみる。いっぽうキリスト教は、テキスト(聖書)の権威を中心にできあがっている。ところが神話分析の方法になじんでしまうと、最高のテキストの権威を否定してしまう。マルクス主義だってそう。
いったん構造主義の洗礼を受けたあとでは、どんな権威あるテキストも成立しない。近代ヨーロッパの知の伝統を支配した、主体の形而上学(人間は自由な主体で、社会は主体の集まり。すべてはそこから出発する、と信じないと気が済まないこと)がいよいよ解体していく。
▽ヨーロッパの知のシステムは主体を前提にしているが、構造主義は、主体をこえた無意識的・集合的な「構造」が重要だと主張する。
ヨーロッパの知のシステムがめざしてきた「真理」も、真理は制度であり人間が勝手にこしらえたものだから、時代や文化によって異なると否定する。
▽「構造」は数学。
デカルトが代数学と幾何学を結合させ、座標軸というものを思いついた。中世の世界観では天上と地上は別々の秩序に属するものだった。ニュートンは、デカルトを踏み台に、微分積分を切り開いた。
すべてユークリッド幾何学を基礎にしていた。
ニュートンの古典力学では説明できない現象があらわれる。そこでアインシュタインが相対性理論をとなえる。ニュートンのように現象それじたいの側に絶対的な空間や時間がそなわっている、などと考えるのはおかしいとする。距離や時間の観測結果が観測者によってちがってくる。この結果を物理学にとりこもうとすると、距離の定義をユークリッド空間とは異なるものにしないとまずい。宇宙空間はユークリッド空間ではなく、湾曲している!と。
▽ユークリッド幾何学は、唯一の幾何学でも理性の象徴でもなくなった。ヨーロッパ世界はこれまで唯一の真理があると信じてきた。ところが今や、なにが「正しい」かは、公理(前提)をどうおくかによって決まる、となった。「真理」にみえるのは、ある知のシステムに閉じこめられているくせに、そのことに気づかないからではないか。社会科学や思想全般でも、ヨーロッパの知のシステムは「真理」を手にしたつもりで、実は「制度」に安住していただけではないかと。=構造主義
▽主体(subject)とはもともと「神の下にあるもの」という意味だったらしい。==なるほど、だから「従属」の意味がでてくるのか。
▽婚姻システムを数式であらわす オーストラリア原住民の結婚のルールは、抽象代数学の群の構造とまったく同じ。ヨーロッパが「クラインの4元群」にたどりつくまで2000年かかったのに、オーストラリアの原住民は、だれに教わるまでもなく、それと同じやりかたで、自分たちの社会を運営している。先端的な現代数学の成果とみえたことが、「未開」と見下していた人々の思考に先回りされていた。
もしかすると、人間の思考のレパートリーはあらかじめ決まっていて、それをいれかわりたちかわり、並べなおしているだけなのかもしれない・・・。と考え、それを証明しようとして、人間の思考のレパートリーの宝庫であろう「神話」にとりくむ。
▽遠近法は、ひとりひとりの視点(主体)から見た世界を忠実に表現する方法。ところが、遠近法をヒントに生まれた射影幾何学では、視点があちこち動き回る。視点(主体)の差異が無視されることで、対象の「構造」が浮かび上がる。「構造」は、ひとりの主体(視点)が自分にこだわって世界を「認識」しようとしているあいだは現れてこないものなのだ。
射影幾何学がもっと進んで位相幾何学の段階となると、直線もなにもなくなるから、図形もムンクの絵のようにぐにゃぐにゃになる。ピカソの「泣く女」みたいに、正面と横顔と、複数の視点からの像をひとつの画面に統合してもいいわけだ。
▽バルトの「モードの体系」 服装をメッセージとみたてて、その解読を試みる。
▽文学批評にも構造主義が登場。マルクス主義批評では、作品の外側にそれを生み出す社会関係が実在し、それをうつしだすのがよい作品であるとする。こうやって批評すると、同じことの繰り返しになってしまう。
構造主義の批評は、作品内部で数学的な操作をして、その作品の隠れた構造をとりだそうとする。バルト★が得意とした。が、まねをする人も増えて鼻についてきて、ひと味ちがうことを売り物にするポスト構造主義の批評もあらわれたが、やっていることはあまりかわらない。
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