■私のなかの朝鮮人<本田靖春> 文春文庫 20101127
朝鮮半島で生まれ、終戦で帰国した。肉体労働は朝鮮人がするのが当たり前だったから、山口県に上陸したとき日本人が車夫や人足をしているのを見て衝撃を受けたという。
そんな筆者にとって、在日朝鮮人に対する日本人の差別は耐え難いものだった。政治的に進歩的とされていた記者も、「朝鮮人のことをやらせるなんて」と言った。
金大中が拉致されたとき、日本人の多くは憤激したが、筆者は素直にまっすぐに韓国政府に怒りをぶつける気になれなかった。日本人の憤激の背景に「朝鮮」への差別が見てとれたからだ。金大中事件のときの日本は、拉致を巡る怒りがうずまく今と驚くほど似ている。どちらも許し難い行いだが、「許せぬ」という怒りが日本中に浸透する裏には日本人の差別の感情があるのではないか……
筆者は、「進歩派」にも軍事政権側にも没入せず、朝鮮で生まれた自分という鏡を通して朝鮮半島の現状と、朝鮮人を差別しつづける日本人の心を描いていく。自己切開のルポを書くのは辛かったろうなあと感じられた。
ひとつの問題を、自らの体験に照らしながらつづるというやり方。
むちゃくちゃもてる。NYで出会った在日女性が訪ねてくる。恋の悩みを打ち明けられ……
=======================
▽68 帰化した人たちでつくる「成和クラブ」〓。大阪が一番大きい。日本人とも朝鮮・韓国人とも一緒になれない子弟の婚姻の斡旋も。
▽83 朝鮮人を「一郎」「二郎」とまるで記号に置き換えて呼ぶようなやり方が、広く「内地」でも行われていた。当時の日本人一般の朝鮮人観をうかがわせるに十分だ。安価な労働力としてみなされたが、対等な人間として遇されていなかった。
▽131 韓国は身分上の差別が厳しい。両班、中人、常民、賤民などの身分関係がつくられたのは李朝によってだ。……戦争中に日本につれてこられた人たちは貧しい下層階級だったから、在日の僑胞とわかると、ソサエティにいれてもらえない……
▽150
▽156 朝鮮半島からはじめて上陸した祖国は絵のような美しさだった。……馬の口をとる男たちが一人残らず日本人だった。露店を広げる女たちも、港湾労務者も、日本人なのだ。……京城では、「身体を使う仕事」をするのはすべて朝鮮人だった。
▽185 韓国への旅で、私が生まれ育ったのは「朝鮮」ではなく、古い「日本」だったのだと得心がいった。朝鮮には、友もいなければ、旧知の人も皆無だった。いったい、語りあい、懐かしみ合う友を持たない土地を、故郷と呼べるのであろうか。私が愛してきたのは、自分が生まれ育った「京城」であって、朝鮮、あるいは朝鮮人ではなかったのである。
▽189 われわれが朝鮮人に向かって、堂々と「朝鮮人」と呼びかけられないのは、それが「音」として、過去の蔑称につながるというのが一つの理由だろう。
▽199 金大中拉致をめぐる大方の日本人の憤激は、圧制下で祖国の統一を希求する韓国の民衆へのモラル・サポートではなかった。あの「チョーセンジン」が日本人のハナ先から白昼堂々、人をさらっていったことに、腹を立てただけのことだった。「なめるな」ということであろう。私は、あまり怒らない方がよいという少数派の一人である。たけり狂う人びとが、あまりにも「正義」を押し立てすぎるからである。
▽202
▽228 朝鮮の運命は朝鮮人の問題だとして、在日朝鮮人に戦前も戦後もかわることなく加えられ続けている差別は、われわれの社会の問題である。
「同情とは、差別者が被差別者と自分との距離を確実に保つための、もっとも巧妙な表現なのではないでしょうか」。……在日朝鮮人問題を、「彼らのため」ではなく、自分の問題として具体的にどれだけ積み上げて行くかが、私に問われるはずである。
▽238 彼は仕事に関しては完璧をねらいすぎると思えるくらいに緻密である。それでいて、一方において仕事なんかという無頼な精神もうかがわれるのである。仕事なんかよりギャンブルのほうがおれに向いているというような……。
彼はすべてについてオリてしまっているようなところがある。完璧主義者である自分をすら信用していないところがほの見える。
コメント