■風の歌 <アタウアルパ・ユパンキ ソンコ・マージュ訳> 現代ギター社 20101230
ユパンキは、牧童(ガウチョ)の駆けるパンパ(草原)の村に生まれる。風のように自由にパンパを駆けるガウチョの気質をこよなく愛した。
印刷工を経て21歳で「インディオの道」を発表して音楽の道に入る。それまで「田園の音楽」でしかなかった庶民の音楽を「フォルクローレ」と位置づけ、評価し、表現していった。馬にギターを積んでアンデスの村々を旅して、地方の歌を収集してまわった。ときにギターの演奏会を催して旅の費用を稼いだが、月1回のコンサートの収入で生活は十分だったという。
彼にとって音楽は「自分」を表現する道具ではない。大地や山や風や歴史の声を聴き、それを表現するためのものだ。「自分のため」ではなく他者のため、自分の思いではなく、他者の声、天地の声を表現したもの……と言えるのかもしれない。「風の歌」たるゆえんである。
ユパンキの音楽の背景がわかると同時に、彼の歌にでてくる土地の名や神々の名の意味が理解できる。
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▽62 1920年代には、アルゼンチンにはフォルクローレと呼ぶ音楽ジャンルは確立されていなかった。……この国の北部地方には先駆者とも言える、素朴で誠実な歌い手たちがいた。町から町へ、祖国の詩集を播き散らす放浪の音楽家たちだった。タンゴ、ファド、バルス、シフラ、エスティロなどが主でサンバは意外に少なかった。……いつも貧しい人々のことを歌い、聴衆もおのずと貧しい人々が集まっていた。搾取された貧しい人たちの抗議と反逆を込めて、権力の乱用や不正に対し憤りを込めて歌ったものも少なくなかった。
▽67 ナサレノ・リオス ……そのころ、私は歌唱法と方言の重みを知った。同時に、批判と秩序をもって世を見きわめることのできるジャーナリズムへの憧れをもっていた。印刷工として働いていた私は、新聞記者への道に近づいた。
▽102 街に出て行くクリオージョたちの音楽を聴くとき、彼らの虚栄心の誇示に胸が痛んだ。彼らは、早く、高く輝きたい、という望みを抑えきれないようだ。芸術のその確かさと優秀さを準備せずして……
(自分のために音楽をする人 他者のために、他者の思いを伝えるため、あるいは他者の声に動かされて音楽をなす人 両者のちがい)
▽111 パンチャ・ママ それはアンデスの民に生命を与える神秘の創造者で、最高神。
▽123 「インディオの道」「トゥクマンの郷愁」を発表した21,2歳のころ、知的な人々が作るサークルに積極的に加わり、激しく対論することが多かった。カントやスピノザやデモクリトス、ソクラテス……
……人間は原始性だけでも、かといって素朴な言葉から離れた知性だけでも物事をよく見ることはできない。私は、野育ちの人びとの感情を、彼らが私に口述するかのように翻訳し、それを音楽化することにつとめた。それは政治的にも、哲学的にも位置せず、ひたすら「人間と風景」に歌うために……
▽143 密輸者 国境を行き来して、家族の家からわずかな焼酎や干し肉もってきていた老人が国境警備隊に殺される話。名もない老人の話を拾って表現して……
▽166 山の案内者をしていたチョコバール。妻に先立たれ、トゥクマンの自らの山小屋を後にする。「アディオス・トゥクマン」はこのことを歌った。
▽171 旅をするには馬が一番だ。……「もし神が、彼の平和のため、場所を選んだとしたら、コララオ・デル・バジェとトロンボーンの間の地に決めたであろう」という神父の口癖を思い出した。
▽190 インカやプレ・インカの財宝が眠る北西部。文化財を狙う男達もいた。……月1回のコンサートの収入で旅の生活には十分だった。
▽205 「ラグナ・デル・テソロ」財宝をさがしに探検家や山師、考古学者が訪れる。それらの案内で糊口をしのぐドン・コスメ。
▽247 (あとがき)かつて、この国の牧童(ガウチョ)たちは、自由な草原を横切る放浪の人たちだった。しかし今は、かつての自由なパンパには有刺鉄線がはりめぐらされている。
ユパンキが出現するまでのアルゼンチンの民族音楽界は、これをフォルクローレと呼ぶ、ひとつの音楽のジャンルにはなっていなかった。農牧民の余暇に興ずる田園の音楽でしかなかった。
▽249 ユパンキの音楽は、プロテスト・ソングなどでは決してない。音楽は自分に正直に、正しいことを歌えば、必然的にプロテストすることになるのである。ユパンキはプロテスト・シンガーなるものをあまり信じていない。彼らのなかには、本当にプロテストするだけのことを学びもせず、自己を売り物にする音楽家の多いことを知っているからであろう。
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